遍 歴 / 🐑村上春樹を読む
村上春樹論「街と、その確かな壁」を思い付く 修正版
『友達の家はどこ』、『そして人生は続く』で知られる、
イランの映画監督アッバス・キアロスタミ氏がお亡くなりました。心から御冥福をお祈りいたします。
2016年7月5日(火曜日)曇り☁
昨夜滅茶苦茶暑かったので、何も掛けずに寝たら頭痛がする。
やる気をなくして、いろいろすべきことがあったが、終日家にいる。
遠藤周作『死海のほとり』読了。うーん、どうなんだろう。考えすぎか。
昼は手抜き蕎麦。夜はいんちき肉野菜炒めと麻婆豆腐。
ところで、村上春樹を読んでいると息が詰まるような気になることがある。特に最近だ。それも、彼のエッセイやインタビューを読んでいると特にそう思う*。
*例えば近著の『職業としての小説家』(2015年9月17日・スイッチ・パブリッシング)などは、こんなことを書くと批難囂々かもしれぬが、「言い訳」のオン・パレードに読めた。これは恐らく私自身の心が捩じ曲がっているためであろう。
どういうことかと云えば、村上は徹底的に「自己防禦的」なのだと感じられるのだ。これを平たく云い直すと「自分さえ良ければ(自分さえ傷つかなければ)それで良いのか」ということになるし、さらに云えば、何をもって「正義」と考えるか、あるいは、いかなる行動をもって「倫理的」とするか、という主題に隣接する*。
*この問題はなかなか根が深い。三浦雅士「村上春樹とこの時代の倫理」1981年/『主体の変容――現代文学ノート』1982年12月20日・中央公論社、参照。
それが以前は好ましく思えていた(気がする*)が、最近はそれらが、あえて、言葉を選ばずに云えば、「腐臭」**のように気になる。
*あるいは、思い込んでいた。つまりは誤解、誤読、ということか。
**ドストエフスイ『カラマーゾフの兄弟』においてゾシマ長老の発した「腐臭」を念頭に置いて。
**ドストエフスイ『カラマーゾフの兄弟』においてゾシマ長老の発した「腐臭」を念頭に置いて。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の初期形は、「世界の終り」の原型である中篇「街と、その不確かな壁」*であったが、村上は、あるいは、村上の自意識は「確かな壁に囲まれた街」の中に存在しているのだ。
*村上春樹「街と、その不確かな壁」/『文學界』(文藝春秋)1980年9月号。単行本未収録。
実を云えば、私は相当な初期からの村上の読者であるにも関わらず、長らく、一行も村上春樹論が書けなかった*。書評すらひとつとして書けなかった。
さて、一寸した思い付きではあるが*、この村上春樹論「街と、その確かな壁」は完成するだろうか。
*知人に徹底的に自己防衛的な人がいて思い付いた。
その前に寄り道だが、買っておいてまだ目を通していなかった加藤典洋氏の『村上春樹は、むずかしい』*を読むことにしよう。
*加藤典洋『村上春樹は、むずかしい』2015年12月18日・岩波新書。
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そうこうしている間に空腹を覚えたので、いんちきお好み焼きを作って喰う。溶き卵2個、賞味期限切れかけのカット野菜、冷凍豚肉、天かす。小麦粉不在につき片栗粉で代用。今一歩か。しかし残りは明日の弁当だ。
01:18
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