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2016年6月22日水曜日

或る異和感

社⚡会⚡断⚡層 


或 る 異 和 感 


 今朝の新聞報道によれば、川崎市で排外主義的な団体が、いわゆる「ヘイトスピーチ」を伴うデモを計画していたが、反対派の市民数百人がデモ隊十数人を取り囲んで中止に追い込んだという*。 

「ヘイトデモ 阻止の人波」/『朝日新聞』2016年6月6日朝刊。 


 *「ヘイトデモ 阻止の人波」/『朝日新聞』2016年6月6日朝刊。 

 私個人は民族や国籍等で或る特定の人々を言論の力も含む形で武力的に排斥する考え方を否定する。しかし、《反対派の市民数百人がデモ隊十数人を取り囲んで中止に追い込》むというのは方法論として正当性があるのだろうか。つまり言論の内容の当否は一旦措くとしても、デモも言論活動の一環であるとすれば、言論活動を数を頼みに取り囲んで封殺するのは言論活動とはもはや言えず、武力的な制圧事件であったと言えまいか。 
 逆の立場になったことを考えて欲しい。「ヘイトデモ」反対のデモが、「ヘイトデモ」反対・反対の団体によって取り囲まれて阻止されたらどうだろうか。 
 事前に、あるいはことの最中でも構わないが、話し合いはできなかったのか。強く疑問に思う。 

 もうひとつ、たまたま同日の新聞は「サミット会場で首脳気分」*と題して、今回の伊勢志摩サミットでの宿泊室の料金がフランスのオランド大統領は一泊21万6千円で、オバマ大統領は一泊17万8200円だったことを報じている。 

 *『朝日新聞』2016年6月6日朝刊。 

 恐らく警備の問題などで簡単に論じられる問題ではないが、昨今批判を浴びている舛添都知事の浪費問題に端を発する政治活動費の私用問題だが、後者については知事の失点であることは論を待たないが、しかしながら前者について批判するのはどうなのだろうか。 
 仮にそれらに問題があるとするなら、そのようなことは氷山の一角に過ぎず、公的な職務に就いている人々ならなにがしかつきまとう問題ではないのか。 
 つまり都知事ならアウトでサミットならセイフなどということは原理的にあり得ない。 
 この辺りに日本のジャーナリズムの一貫性のなさとそれを能天気にも許してしまう日本人の無思想性が現れていると考えるのは考え過ぎなのか。 

※ かなり旧聞に属する内容ですが、事情があって掲載が遅れました。 


            

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