🌀柄谷行人を読む🌀
「マクベス論」という〈切断〉
■柄谷行人『意味という病』1975年・河出書房新社 /1989年・講談社文芸文庫。
■評論集。
柄谷行人本人の言を信用するとすれば、「マクベス論」の結論は初稿においては全くの逆であったという(本文芸文庫あとがき「著者から読者へ――変更について」)。これは全く驚くべきことである。しかし、実のところ、ここにこそ柄谷行人の方法的必然性があるのである。
例えば、この「マクベス論」以降柄谷は〈意味の拒絶〉という観点から批評を書いているように見える。鷗外や古井由吉あるいは阿部昭に対する評価もそのような文脈でなされている。しかしながら、ここが重要なところだが、決して何らかのワクにはめて批評しているわけではないということだ。先に私は〈意味の拒絶〉という観点という言葉で〈くくって〉しまったが、これはもちろん事後的に言えばということである。そのような批評を絞り出していた当時の柄谷としては書けるようにしか書けなかったのであろう。
だから実作者の側から言えば、〈意味の拒絶〉という外的な価値に合わせて小説を書いてもなんの意味もない。問題はそこに込められている内的な深化あるいは切断なのだ。こう言えば分かるだろうか。《それはデカルトの哲学そのものは時代遅れだが、彼の方法的懐疑だけはたえず新鮮であるということと類似する。》と(本書・p.238)。
であるならば確かに本人が語るように「マクベス論」以降は一種の惰性あるいは一つのパターンに陥っているのかも知れない(本書・p.312)。逆に言えば、だからこそ「マクベス論」の切断性が重要視されねばならない。この論考はまさに《徹底的に意識化しようとしたあとでしか生じな》かったのだ(本書・p.319)。
だが、問題はその次である。「マクベス論」の結論から柄谷行人はどのように出発するのであろうか(本書・p.311)。私は柄谷の「マルクス論」に圧倒的な希待を感じていることをここに蔽さない。
(初稿:1993年4月3日 初出:『鳥・web版』第10回更新・2001年11月22日)
0 件のコメント:
コメントを投稿