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2024年9月2日月曜日

人間の根拠としての〈社会性〉、言語の中核としての「中動態」 大澤真幸「「社会性の起原」85――中動態としての言語」

 

大澤真幸を読む

人間の根拠としての〈社会性〉、言語の中核としての「中動態」

 

大澤真幸「「社会性の起原」85――中動態としての言語

 




■大澤真幸「「社会性の起原」85――中動態としての言語」/webサイト『現代ビジネス』20201215日更新・講談社。

■連載論考(社会学・哲学・現代思想)。

■2024年9月1日読了。

■採点 ★★★★☆。

 長年、講談社のPR誌『本』に連載されてきた「社会性の起源」*[1]を連載媒体をwebサイト『現代ビジネス』に移しての連載再開である。

 今回は今までの議論の整理も兼ねて、以下の議論が展開される。

 「人間とは何か?」という問題は、「人間的な〈社会性〉」に究極される。

 例えば、2歳の高等猿類とやはり2歳の人間を知能検査で調べると殆んど違いはなかった。だが、「社会性」に関わるテストだけが、著しく人間に軍配が上がったという。

 では、その場合、「社会性」に関わるテストとは何かというと「模倣」、つまり、真似ができるかどうかというものだったという。

 さらに興味深い事例は、「数量認知についての一般的な発達過程においては、やはり、社会性をめぐる経験が重要な促進要因になっている」*[2]ようなのだ。或る数量の認識(保存課題)についてのテスト[3]をして、失敗した場合に「別の子どもと話し合わせる。別の子どもの方も、保存課題についての正しい知識をもってはいない。であれば、話し合っても無駄のように思えるのだが、そうではない。話し合いの後には、成績が劇的に向上するのだ。話し合われた内容ではなく、話し合いというコミュニケーションを経験したこと、そのことが、数量理解にポジティヴに作用し、成績の改善につながっているのである。」*[4]

 以上の次第で、テーマが「社会性」に措定される。

 そこで、人間に固有な現象として「言語」が取り上げられる。

まずは事実問題としての言語の起源が問われるが、これについては結局のところ結論が出ないとされるが、最後に興味深い仮説が提示される。

 

 さらに、われわれが提起してきた仮説では、言語の前にはダンスを含む集団的な音楽がある。音楽のさらなる前史は、笑い——合唱のような一斉の笑い——である。「笑い→音楽→言語」という移行過程は連続的であり、言語が出現したからといって、音楽や笑いが消え去るわけではなく、むしろ言語からのフィードバックによって、それらはより豊かになる。こうした過程において、どこからが純粋な言語で、どこまでがまだ単なる音楽だ、という境界線を引くことは不可能だ。音楽や、さらに笑いでさえも原初の言語であると考えれば、言語の原点は深く遡ることができるし、逆に、音楽的な残滓がない純粋な言語にこだわれば、言語の起原は現代に近づいてくる。*[5]

 

 言語の起源として舞踊、音楽、合唱のような笑いが暗示されている。恐らくは、何かが突出して発生したというよりも、混然一体として言語的な現象が生起したのであろう。

 

 では、そもそも言語とは何であろうか?

「ハイデガーは、言語は「存在の家」*[6]であると述べている。(中略) 人間は、言語の中に棲まっているのだ。」*[7]

また、「ラカンは、ハイデガーのこの言明を受けて、これにひねりを加えている。言語は、「家」かもしれないが、その家の中で人間は、拷問を受けているのだ、と。つまり、ラカンによると、「存在の家」は「存在の牢獄」であって、人間は、その中に捕らえられ、言語による拷問に苦しめられている」*[8]と述べている。」*[9]

すなわち「ハイデガーとラカンは、言葉を発するということの中には本来的に受動性が刻まれている、ということを示唆しているのだ。」*[10]というのである。

以上の前提で、今回の章題にもなっている言語の本質として「中動態」が取り上げられる。

 中動態は、先年、哲学者の國分功一郎の『中動態の世界』*[11]で広く知られるところとなった。「中動態は、「形は受動、意味は能動」であるもののことだ。」*[12]がそもそも「中動態は、能動態と受動態からの派生物ではなく、逆に、中動態こそ、両者を生み出している。」というのだ*[13]

 この事態を明確に述べたのがカナダ在住の日本人言語学者・金谷武洋である。彼は「中動態の機能は「行為者の不在、自然の勢いの表現である」*[14]としている。すなわち、われわれが言語を使用して何かを語るとき、むしろ、われわれは何者かによって語らされているのだろう。

 では、その「何者か」とは誰か。

 

私が言葉を発しているとき、発話の真の担い手、発話の真の主体は、私ではない。第三者の審級である。第三者の審級は、しかし、最も原初的な状況においては、一個の対象として措定されているわけではない。第三者の審級の存在は、私でもなければ、私が語りかけている相手でもないものとして、つまり否定的にのみ感知されている最も原初的な第三者の審級は、明確な像を結ばない他者性[15]として、言い換えれば私の外部の「自然の勢い」として、私には受け取られ、私はその勢いに従うように語るのである

だから、こんなふうに言ってもよいことになる。いくつかの言語の文法的な要素として中動態があるだけではない。言語そのものが本質的に中動態的な現象である。「存在の家」にして「存在の牢獄」であると言語を記述したとき、指し示されていたのは言語の中動態としての本性だ。*[16]

 

以上のように、大澤の、この一連の論考は一回の内容が、たかだか、A5の冊子で8頁分ほどしかないが、極めて情報量が濃密で、多岐に渡り、多くの示唆に富む。

雑誌連載84回、web連載は102回に及んでいる。連載が完結すれば、恐らく、かの『ナショナリズムの由来』*[17]に並ぶ大著となるであろう。刮目してそれを待ちたい。

 

参照文献

ハイデッガー マルティン. (1997). 『「ヒューマニズム」について』. (渡邊二郎, ) ちくま学芸文庫.

ラカン ジャック. (1987). 『精神病』. (鈴木國文ほか, ) 岩波書店.

井上俊, 上野千鶴子, 大澤真幸, 見田宗介, 吉見俊哉 (共同編集). (1995年ー1997). 『岩波講座 現代社会学』. 岩波書店.

金谷武洋. (2019). 『日本語と西欧語』. 講談社学術文庫.

大澤真幸. (1994). 『意味と他者性』. 勁草書房.

大澤真幸. (1998). 『戦後の思想空間』. ちくま新書.

大澤真幸. (2002年/2011). 『文明の内なる衝突――9.11、そして3.11へ』/(増補版). NHKブックス/河出文庫.

大澤真幸. (2007). 『ナショナリズムの由来』. 講談社.

大澤真幸. (2008). 『不可能性の時代』. 岩波新書.

大澤真幸. (2011). 『「正義」を考える――生きづらさと向き合う社会学』. NHK出版新書.

大澤真幸. (2012). 『夢よりも深い覚醒へ――3.11後の哲学』. 岩波新書.

大澤真幸. (2013年ー). 「社会性の起源」. : 『本』201312月号ー2020年3月号/web『現代ビジネス』2020年ー(連載中). 講談社.

大澤真幸. (2020). 「社会性の起源85――中動態としての言語」. 参照先: 『現代ビジネス』: https://gendai.media/articles/-/78321?imp=0

大澤真幸, 國分功一郎. (2020). 『コロナの時代の哲学――大澤真幸THINKING O(オー) 016. 左右社.

國分功一郎. (2017). 『中動態の世界』. 医学書院.

 

 

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4347字(11枚)



*[1] [大澤, 「社会性の起源」, 2013年ー]

*[2] [大澤, 「社会性の起源85――中動態としての言語」, 2020年]

*[3] 「水を、細い瓶から底面の広い容器に移すと、水面の高さが下がるが、量は同じである。この保存課題は、子どもにとっては難しい。幼い子は、水面が下がったから減った、あるいは水面が広くなったので増えたと思ってしまうのだ。この保存課題に合格するのは、一般には、四歳から五歳になってからである。」 [大澤, 「社会性の起源85――中動態としての言語」, 2020年]

*[4] [大澤, 「社会性の起源85――中動態としての言語」, 2020年]。下線引用者。

*[5] [大澤, 「社会性の起源85――中動態としての言語」, 2020年]。下線部引用者。

*[6] [ハイデッガー , 1997年]

*[7] [大澤, 「社会性の起源85――中動態としての言語」, 2020年]

*[8] [ラカン , 1987年]

*[9] [大澤, 「社会性の起源85――中動態としての言語」, 2020年]

*[10] [大澤, 「社会性の起源85――中動態としての言語」, 2020年]。下線引用者。

*[11] [國分, 2017年]

*[12] [大澤, 「社会性の起源85――中動態としての言語」, 2020年]

*[13] 「中動態は現代の言語には残っていない」のだが、「実は、日本語には、中動態がまったく毀損されることなくそのまま残っている。ほとんど誰も気付いてはいないが、日本語の自動詞は、中動態である(細江逸記「我が国語の動詞の相(Voice)を論じ、動詞の活用形式の分岐するに至りし原理の一端に及ぶ」『岡倉由三郎還暦記念論集』一九二八年)。」 [大澤, 「社会性の起源85――中動態としての言語」, 2020年]

*[14] [金谷, 2019年] [大澤, 「社会性の起源85――中動態としての言語」, 2020年]より援引。

*[15] 〈引用者註〉「第三者の審級」としての「他者性」とは極めて興味深い。大澤には『意味と他者性』 [大澤, 『意味と他者性』, 1994年]なる論著がある。

*[16] [大澤, 「社会性の起源85――中動態としての言語」, 2020年]。下線・四角囲い引用者。

*[17] [大澤, 『ナショナリズムの由来』, 2007年]

2024年8月18日日曜日

三浦雅士――人間の遠い彼方へ その15ー2 あとがき

 

三浦雅士――人間の遠い彼方へ その15ー2

 

鳥の事務所

 


 

あとがき

 

 皆様、お疲れ様です。いやー、全く、毎年のことですが、暑いですね。まー夏ですからね、仕方ないですね。

 今年は颱風に加えて同時期に地震も数回あり、大変な目に遭いました。

 しつこく繰り返しますが、うちはクーラーがないので、室内温度が37℃ぐらいになることもありましたが、扇風機と冷風扇とサーキュレイターで乗り切りました(笑)。

 去年の段階では、これは無理だ、クーラーないとなんも出来ねー、って思っていましたが、慣れれば慣れるものですね。

 まー、そんなこんなで、あっという間に夏休みも終わり、また明日からSGTが再開されます。ま、生きるためには仕方ないですね。

 さて、一昨年の夏はジョイス絡みで、柳瀬尚紀さんの『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』を批判する文章を仕上げました。

 昨年は、カポーティの『夜の樹』(とりわけ、その中の「最後のドアを閉めろ」を中心に)と『冷血』についての感想をまとめました。

 さて、そんな訳で、今年もカポーティの続きを書こうかと思ったのですが、何を血迷ったか、3年ほど前(2021年)、偶々SG中に半年ほどかけて書いて、公募に出して呆気なく落選していた原稿がありました。今から思えば、取るに足らない、落書きのような内容で、主題となっている三浦雅士さんには本当に申し訳ない限りですが、まー、あるものは確かにあるので、少しづつ手直しをしようと思って、今年のGWにやりかけて、途中で投げ出したものがあったのを思い出したのです。

 今回、この夏に通算で15回に渡ってアップしてきたものがこれです。

 「三浦雅士――人間の遠い彼方へ」という書題が適切かどうかもいささか不明です。

 今回の方針は、とにかく、言及されている書目のリストを付けて、簡単な字句の訂正に留め、内容の大幅な改定はしない。とにかく、全部アップする、というものでしたが、口で言うのは簡単ですが、都合6日間かけて、この量の文章をチェックするのは地獄のように大変でした。暑さのため、途中で何度も眠ってしまうことも多々ありました。

 今後、これを縦書きに直しつつ、内容の検討と修正を図っていきます。その後、機会があれば町のコピー屋でコピーしようかと思っていますが、ま、どうなることやら。

 いずれにしても、内容の出来不出来はともあれ、何らかのことを成し遂げるというのは、我ながら素晴らしいことです。

 以上のような次第で今夜は完結記念パーティといきたいところですが、明日からまた早起きなので、ほどほどにしておきます。

 このような充実した時間を与えて頂いた(許可はもらっていないが)三浦雅士さんと、様々とわたしを支えてくれている相方に感謝の気持ちを捧げたいと思います。有難う御座います。

 それでは、(一旦、)完結おめでとう、(密かに、)乾杯!




 

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『三浦雅士――人間の遠い彼方へ』進行表 

 


三浦雅士――人間の遠い彼方へ その15 第Ⅰ部  批評家としての三浦雅士 β 「孤独の発明」本篇の圏域 第2章「小林秀雄問題」

 三浦雅士――人間の遠い彼方へ その15

 

鳥の事務所

 





第Ⅰ部 

批評家としての三浦雅士

 

β 「孤独の発明」本篇の圏域

 

 

「小林秀雄問題」

 

 

目次

第2章「小林秀雄問題」   1

1 小林秀雄という「亡霊」   3

2 「わが小林秀雄」?   9

3 宮川淳の勝利なのか?   11

4 吉田健一の勝利なのか?   14

5 ここで問題   27

6 小林秀雄とはそもそも何ものなのか?   29

7 自意識、自己言及のパラドクス、自分が死ぬこと   36

8 『青春の終焉』の中の小林秀雄   55

1 『青春の終焉』は成功しているのか?    55

2 青春という倫理、青春という美    59

3 「三角関係」の「神話」?    67

[コラム]~方法的水滸伝~    72

9 「孤独の発明」本篇の中の小林秀雄   73

1 「孤独の発明」本篇の構造    73

2 「孤独の発明」という題名    77

3 ことの発端    79

4 「孤独の発明」本篇の3つの柱    86

5 「幽霊」体験    89

6 「忘我」体験    96

7 時が消える    107

8 放心と凝視    110

1 「いちぢくの葉」引用の謎    110

[コラム]~影の主人公/「影」~    110

2 「思ひ出」引用の謎    117

3 「放心と凝視」    122

9 幽霊    128

1 「三人姉妹」老軍医チェプトィキンの台詞    128

2 「退屈者の手帖」    130

3 「詩人座談会」    133

10 ベルクソン論「感想」はなぜ中断されたのか?    135

1 自意識の迷路vs.伝統の深さ    135

2 中也の影    140

3 漱石「点頭録」    143

4 「偽物の再認」=「デジャ・ヴュ」=「既視感」    147

5 ベルクソン論「感想」はなぜ中断されたのか?    154

11 『本居宣長』には何が書かれているのか?    157

1 「内的視力」へと収斂する「放心の経験」    157

2 「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ」    166

3 浮舟と中也    179

12 大江健三郎-ブリス・パラン-カヴァイエス-ゲーデル    181

1 大江健三郎    181

2 ブリス・パラン    184

3 ジャン・カヴァイエス、あるいはクルト・ゲーデル    190

4 「批評」ではなく「感想」    194

13 ポアンカレ-パスカル-中原中也    202

[コラム]~人は「孤独」が好きなのではないか?~    204

1 カントールの「実無限」、及びポワンカレ『科学と方法』    205

2 パスカル『幾何学の精神について』    211

3 中原中也「言葉なき歌」    229

10  「父」・小林秀雄   231

11 一旦の結語 「凝視と放心」の意味することとは?   235

参照文献   237

【巻末資料1 三浦雅士著作一覧】  243

 

 

 

 

小林秀雄氏

  

 

 

 

 

 

 

 

1 小林秀雄という「亡霊」

 

 さあ、皆さん、いよいよ、最終章です。今回もはりきって参りましょう。「ハッスル、ハッスル!」、古ー!

 今回のテーマはズバリ、日本近代批評の創始者とも言うべき小林秀雄です。「批評の神様」と言っても過言ではありません。

 と言っても小林そのものを論ずる訳ではなくて、今までも、少しお話をしましたが、あくまでも三浦雅士にとっての小林秀雄、ということです。

 小林 秀雄1902年~1983年)は、言うまでもなく日本の近代批評の確立者です。モーツァルトからドストエフスキー、果ては西洋近代絵画まで縦横無尽に論じましたが、結局何を対象としても小林自身を語ってしまうという批評のパラドックスを示したことになってます。新潮社から旧字旧仮名の愛蔵版の全集2001年)、及びその新字新仮名の普及版の全作品2003年)が刊行されています。買って読むなら、本文中に註解が付いている後者の方がお勧めです。デビュー作「様々なる意匠」1929年)で、批評の問題の全てが論じられていると言っても過言ではありません。忙しいとおっしゃる方はこれだけ読んでください。これは『小林秀雄初期文芸論集』 (2002年・岩波文庫)などで読めます。晩年の代表作『本居宣長』1976年・新潮社)は賛否両論、というよりも否定論が多いかもしれませんが、より「内在的な救済」が必要だとわたしは考えています。こちらは新潮文庫版1992年、上・下)で読めます。これも読みづらいという方は『本居宣長』本編刊行後に行われた二つの講演『本居宣長補記』1982年・新潮社)が文庫では併載されています。小林の講演体の文章*は、三浦さんも論じています**が大変味わい深いものです。こちらからお読みになるといいでしょう。実はわたしもそうしました。テヘペロ。

 

*実際に行われた講演(もとても面白いが)そのものではなくて、事後、徹底的に書き直しがされている。

 

**三浦『青春の終焉』p.p.209-214

 

 本章の題号として掲げた「小林秀雄問題」について、いささか述べておきます。世に人名に問題を付けて論ずるのは、わたしの不勉強によるのだと思いますが、加藤周一が『朝日新聞』夕刊に連載していたコラム? エッセイ? 分かりませんが「夕陽(せきよう)妄語(もうご)1988322日)に掲載された「宣長・ハイデッガ・ワルトハイム」と題された文章中に出てくる「ハイデッガー問題」と「本居宣長問題」を嚆矢として、あとははてな、というぐらいです。この二人を並べて論じている訳ですから、要は、あれほど明晰なこの二人が、何故に理性的な判断とは到底言えない言動に出たのか、というものですが、「小林秀雄問題」も同じことをターゲットにしています。近代批評の祖とも言われる小林が超能力や幽霊を信じるなんて、一体どういうことだ、という問題ですが、本書では、三浦さんの所論に沿う形になるので、三浦さんとしては、冥界故に明解な解答が出ていますが、それとは別にわたしの解答が出たかというとすこぶる怪しいものです。いや、何も出ていない、というのが正直なところです。そこのところはお断りしておきます。

 

 さて、三浦さんは、以前もお話ししたように何度か小林に言及しています。これまで、わたしの知る限りでは、明確に、小林をテーマにした論考を少なくとも5本三浦さんは書いています。いったん整理の上からも見てみましょう。

 

①「死者の視線――小林秀雄ノオト――」/『群像』1983年5月号/吉田生編『レクイエム 小林秀雄』1983年・講談社。

②「小林秀雄と物質への恐怖」/『文藝』1983年5月号/吉田生編『レクイエム 小林秀雄』1983年・講談社。

 ……この二つは小林の死に際して書かれた追悼文の一種。ですが、あまり追悼している感じはしませんけど。

③「小林秀雄論」/『言論は日本を動かす』第2巻・山崎正和編『人間を探求する』1986年・講談社/三浦『小説という植民地』。……単行本の初出情報には「『人間の探究シリーズ』第2巻・講談社」と書かれていてその出版年などが記載されておらず、何を調べてもこんな本は存在せず、調べたら書名が間違っていたというオチ。こんなことあるんかい、とは思ったけど、まーあるんだよね。人間だから、みつを。

④「編集者としての小林秀雄」/『小林秀雄 百年のヒント――生誕百年記念「新潮」四月臨時増刊』2001年・新潮社。

⑤「小林秀雄」/寺田博編『時代を創った編集者101』ハンドブック・シリーズ(新書館)2003年。

 ……この二つは、多分同じような内容かと思います。

 

 例えば、三浦さんには、特定の固有名を挙げた論著としては『寺山修司――鏡の中の言葉』と『石坂洋次郎の逆襲』の二著がありますが、他の著書などにそうそう頻繁にこの二人が出てくるわけではありません。しかし、「小林秀雄論」という短篇の評論はありますが、大上段にふりかぶって小林を論ずるという気配がないにも関わらず、何故か、間欠泉のように、あるいは亡霊のように小林への言及が何度か見られます。これは一体どういうことなのか。

 これは単に、或る一定の年齢の文学者、文学愛好者にとっては小林を抜きに文学を語ることができないほど、好むと好まざるを問わず、小林の文章に接せざるを得なかったが故に、思わず、そういえば、小林はこう言っていた、と引用してしまうということでしょうか。

 例えば、日本の漫画の世界では、好悪に関わることなくどうしても手塚治虫の作ったストーリー漫画の形式、フォーマットから逃れるのは難しいとか。

 あるいは、村上春樹さんが、どっかで言ってたと思いますが、ビートルズなんてレコードを買ってまでして聴いたりとかしてないよ、大体年がら年中ラジオからビートルズの曲は流れていたんだよと。要するに好きでも嫌いでもないと。それにも関わらず、村上さんは『ノルウェイの森』(1987年・講談社)を始めとして、ビートルズの曲名やアルバム名を作品に使っています。今度映画化された「ドライブ・マイ・カー」*もそうですよね。それと同じでつい出ちゃうとかそういうことでしょうか?

 いや、そうではなくて、三浦さんの場合、小林に対してはプラス、マイナス両面あるとは思いますが、意識しない形で、相当強い思いが小林に対してあるのではないかと、少なくともわたしは考えています。

 

*村上春樹『女のいない男たち』2014年・文藝春秋/映画・2021年・監督:濱口竜介・制作会社:C&Iエンタテインメント・『ドライブ・マイ・カー』製作委員会・配給:ビターズ・エンド。

 

2 「わが小林秀雄」?

 

 というのは、例えば、2001年に小林の全集が刊行されるのに合わせて文芸誌『新潮』で、その特集号が出されました。『小林秀雄 百年のヒント――生誕百年記念「新潮」四月臨時増刊』2001年・新潮社)がそれです。で、そこに有名どころの文学者たちや、生前面識のあった人々が「わが小林秀雄」という総タイトルでエッセイを寄せています。まー、「わが小林秀雄」ですから、基本的に想定されている内容は重い評論ではなくて、小林に関する思い出を語るという体裁のものだったと思いますね。

 ところが、三浦さんは「編集者としての小林秀雄」というエッセイ、というよりも研究ノートに近いと思うが、内容も題名の通りのものを寄稿しています。小林は、無論、フランス文学者として出発し、すぐさま批評家として頭角を顕し、それ以降は評論家一直線という感じで、それ以外の姿というものを思い浮かべるのは極めて難しいと思うが、実は「編集者」*として大変な力を揮った、という内容です。この点は従来の小林研究ではほとんど顧みられていない内容だけに、大変重要な視点です。

 

*具体的には、広く知られているように、『文學界』の編集をしていたことだけではなく、創元社の顧問として「創元選書」を創刊して、多くの柳田國男の論著、例えば『木綿以前の事』などを発刊して柳田の業績を世に知らしめたことです。

 

 ただ、やはり「わが小林秀雄」というテーマで書く内容ではない訳です。

  基本的に三浦さんはいわゆるエッセイ・随筆の類を、わたしの知る限りでは、一切書いていません。したがって、少年時代や青年時代の回想などもほとんど語れられることなく、『言語の政治学』に至って、やっとちらほらと思い出話が、まさに思い出したかのように語られるという具合で、「年譜」に至っても生まれや、少年時代のこと、あるいは青年期以降もプライヴェイトのことはほとんど書かれておらず、その意味では、この「わが小林秀雄」についても一貫性があると言わねばなりません。

 強いて言うなら、元元編集者であった三浦さんにとっての「わが」は「編集者」という視点でこそ語れたのかも知れません。

 ただ、先ほど述べたように、何度か言及される小林像は通り一遍の読書では得られないような細部に渡った言及がなされており、そこから想像されることは、相当な読み込みが、小林に対してなされているということです。

 

3 宮川淳の勝利なのか?

 

 これもどこかでお話ししたかとは思いますが、例えば、書評集『自分が死ぬということ』に収録された文章に現れる小林は、必ずしも好意的なものではなくて、むしろ否定さるべき存在として描かれています。

  例えば冒頭の一篇からしてそうです。今は亡き美術評論家・宮川淳について論じられた「「深さ」の神話の崩壊――小林秀雄から宮川淳へ」がそれです。要は「深さ」の神話を体現する小林秀雄に美術評論の場で活躍し、そして夭折とも言ってよい年齢、44歳の若さで死んだ宮川淳を対置させる、そいういう戦略でした。

 三浦さんはこう言います。

 

 小林秀雄はまったく安易に日本的な「深さ」へと逃げた。宮川はその地点に踏みとどまることによって「深さ」の神話そのものを解体させようとした。(三浦「「深さ」の神話の崩壊」/『自分が死ぬということ』p.5

 

 ここで言われている「日本的な「深さ」」とは、直接的には12年もの長きに渡って書き継がれてきた『本居宣長』ではあるが、別の言い方をすれば、「近代的自我意識」に対置される、いや、それをも包含してしまうような「歴史的集団意識」とでもいうべきもの、平たく言えば「伝統」とでも言うべきもの、そのような「深さ」に小林は逃げた、と言うのです。第2章だったと思いますが、講演「信ずることと知ること」のお話をしたと思いますが、その講演を主宰したのは国民文化会議で、その速記が収録されたのは『日本への回帰』という論集でした。その意図するところが、何となく分かりますか。

 「逃げた」と三浦さんがしている*のは、「自意識」との格闘を十分行うことなしに、あたかも論理的必然でもあるかのようにそこから離脱して「古典」へと入っていったことを指します。

 

*基本的な論点は、三浦さん自身が本文中に言明しているように、吉本隆明執筆による『近代日本思想体系29 小林秀雄集』(1977年・筑摩書房)所収の「解説」(その後、吉本『悲劇の解読』1979年・筑摩書房に「小林秀雄」として収録)に示唆されたことに拠っています。

 

 それに対して、宮川は徹底的に「表面」にこだわることで、「深さ」に逃げることなく自意識を解体したのだ、という論旨です。もちろん、この文章の主旨は宮川の宣揚にある訳で、小林は、あくまでも比較対照されるためだけに召喚されているのだが、また、三浦さん自身も美術批評、あるいは音楽批評、またのちには舞踊批評へと拡張されるにせよ、言語に立脚しない芸術批評の可能性をこそ念頭にあったと思われるが、しかしながら、どうにも気になるのが小林の存在なのです。実際、今、宮川淳の名前を知るものは一般の人ではほとんどいない。ましてや、その著書を繙くなどありえないことです。だからと言って宮川淳の価値が下がるということはもちろん、ない。ないが、正直、小林のラスボス振りからすると、いささか影が薄いということは否めない気がするのです。

 

4 吉田健一の勝利なのか?

 

 同じ構図は、これも以前話したとは思いますが、イギリス文学者・評論家の吉田健一についても言えます。小林を否定する形で吉田にフット・ライトが当てられ、吉田の完全勝利が宣告されるが、これまた同じで、読者は、少なくともわたしには、いささか腑に落ちるという具合にはいかないのです。本当にそうなのか、と。

 

 吉田健一の魅力はどこにあるかと問われるならば、誰もがますその文体を挙げるだろう。文体の魔力とでもいうべきものを感じさせる批評家は数少ないが、吉田健一はその数少ないなかにあっても図抜けている。

 句読点が少なく息の長い文章、どこで切ってよいものか一読しただけでは判断に苦しむ文章、いうなれば一種の悪文、それがこれまでに語られてきた吉田健一の文体の印象であった。が、その背後にじつは、一人称の不在という問題が秘められていることに、人は必ずしも注意を払ってはこなかった。

 一人称の不在、このことはたとえば日本の近代批評の始祖ともいうべき小林秀雄の文体の核心に「私」という語が潜んでいることを思うとき、きわめて大きな事実として浮かびあがってくる。言葉を換えていえば、それは自意識の問題である。

 小林秀雄が近代批評の先駆的存在たりえたのは、そこにおいてはじめて批評の中心に自意識が据えられたからであることは言うまでもない。小林秀雄の文体もまたそのようにして成立したと言ってよい。がしかし、この問題は徹底して追究されることなく雲散霧消した。戦後の小林秀雄が教祖的存在として奉られていったのと反比例するように、その批評から批評そのものが脱落していったのはそのためである。小林秀雄は先駆的存在にとどまったのだ。 (三浦「人称の不在――吉田健一の文体」/『自分が死ぬということ』p.47。傍線引用者)

 

 先ほどの宮川淳での下りも合わせて考えてみたいのですが、まず、

①小林秀雄が日本の近代批評の始祖=先駆的存在となり得たのは批評の中心に自意識が据えられたからである。つまり、一般的に言えば、何らかの対象を批評するということは、本来的に言えば、これがいいとか、あれは駄目だととかいう時の、何らかの基準、広く多くの人々が納得し得るような価値基準が、明確にせよ、暗黙にせよ、そういうものがあって、それに従って、いいとか悪いとかの判断をして、それは何でかと言うと、という説明が批評というものだろう、ものだったのであろう。しかし、小林は、オレハこれがいい! って断言したのだ。言うなれば、みんなが空気を読むような形で、あれがいいかも、これはいいとはいえなくもないけど、みんなどう思う? とかやっているときに、突然小林が突如、不動明がTシャツを破ってデビルマンに変身するかのように、突然素っ裸になって、うっせーんんだよ、おめーら、そういうオレ性がないのは全部ダーメなんだよ、全部そんなもんはファッションなんだよ、てめーのオレを出せよ! おら、出さんかい! って言ったのが、デビュー作「様々なる意匠」ですね。意匠はデザインですが、衣装に通じますから、ファッションとおんなじだ、という訳です。酷い言葉遣いですが、ま、そんな感じにわたしには読めます。

 ところが、オレ、オレとか言ってますが、そのオレってほんとにあんのかい、ほんとはそのオレも社会的に作られたものであって、現象として、その成立なり、なんなりを考えねばならなかったのですが、つまり、②自意識の問題を徹底して追究されるべきだったが、雲散霧消した。

 そして、小林は、③「私」を支えるものとして、「日本的「深さ」」という伝統的な価値へと「逃げた」のだ。

 それによって、相変わらず「私」という主語は健在ではあるが、④その批評から批評性が脱落していった、というようなストーリー展開になるかと思います。

 

 吉田健一は、その最晩年にあたって、時間を語り、変化を語ることによって、小林秀雄を決定的にのりこえたといってよい。このことは、小林秀雄のベルクソン論の中断と対比して十分に記億されなければならないことだ。(三浦「人称の不在――吉田健一の文体」/『自分が死ぬということ』p.47。傍線引用者)

 

吉田健一の語る「時間」や「変化」というのはそれぞれ吉田の晩年の著作のことを指しています。1976年に『時間』(新潮社 1976年、講談社文芸文庫 1998年/新装版・青土社 2012年)を刊行し、その翌年77年に亡くなります。『変化』(青土社 1977年、新装版2012年)は遺稿を含む歿後の刊行でした。

 小林の「ベルクソン論」は「感想」という名で、――ちなみに小林は 「Bergson」を 「ベルソン」と読んでいますが、フランス語なので、最近では「ベルソン」と読むことが多いようです、文芸誌『新潮』に長期連載(1958年~1963)ののち中絶し、単行本での刊行を禁じたいわくつきの作品です。

 つまり三浦さんはこの小林の「ベルクソン論」(「感想」)に、吉田の晩年の二著『時間』と『変化』を対置して、小林が結局乗り越えることができなかった何らかの障壁を吉田が「のりこえた」のだと、吉田に決定的な軍配を上げているのです。それは一体どういうことだったのか。それは一にかかって「文体」の問題、ほら、以前第2章でだらだらとお話しした「文体」こそ問題なんだと展開していきます。

 ちょっとここ重要ですから、くどいですが、最重要な箇所を四角で囲み、併せて重要な箇所に傍線を引きます。

 

 小林秀雄の文体の呪縛から逃れること、それがその一世代後の批評家にとって最大の関心事であったことは想像に難くない。吉田健一にとっても事態は同様だったのであり、しかも彼は、この課題に応えることができたほとんど唯一の存在だったのである。彼は、この課題に一人称を払拭することによって応えた吉田健一には、小林秀雄の「私」に相当する語がない「私」ではない、文体そのものが語りはじめるべきなのだ。この思想の展開は、初期から後期にいたる彼の文体の変遷を跡づけることによって端的に示すことができる。そしてこの文体の変遷の窮極点にその時間論があるといってよい。文体が吉田健一をその地点まで運んだのである。自意識とはまさに近代の病める時間の所産にほかならない。人はまず、時間を回復すべきなのだ。(三浦「人称の不在――吉田健一の文体」/『自分が死ぬということ』p.48。四角囲み・傍線引用者)

 

 つまり、吉田が小林を「のりこえる」ことができたのは、「時間」あるいは「変化」というテーマもさることながら、「文体」、「文体」のシフトチェンジにあるということです。

 小林の「文体の呪縛」については、後で触れますが、要は先ほどお話ししたように、「オレオレ」という「私」を主語に立てない、主語を抹消して、文章全体で語る、という技を吉田が生み出し、その文体の変更こそが、語るべき主題へと筆者・吉田健一を導いたのだ、という訳です。

 うーーん、ほんとですか? 

 これ以前、と言っても相当以前、わたしがカスミを喰べて学生をしていた頃、吉田健一のファンだという先輩がいたので、丸ごと今の話をしたところ、まさに鳩が豆鉄砲を食らったような顔をされていました。その先輩は、どちらかというと吉田の酒食に関わるエッセイ、例えば『私の食物誌』1972年・中央公論社/2007年・中公文庫)とか『酒肴酒』(正・続・1974年・番町書房/2006年・光文社文庫)なんかを読んでいたのでしょう。どっからそんな話になるのかさっぱり分からない、全くの別人の話でもしていると思ったのか、素気無すげなく話を交わされてしまいました。( ノД`)シクシク…。

 ただ、これは、恐らくその酒好きの先輩だけに留まることなく、広く一般の吉田ファンや、そこまでいかなくても吉田健一の文章を愛好する人々からすると、あまりにも実感と懸け離れていて、我田引水も極まれり、という感じがするのは正直なところでしょう。

 三浦さんの批評は、もちろん対象となる作家や思想家に徹底的に寄り添おうとするが、いや、する余りに、遠近法的に、本来遠くにあるものが近くに見えたり、近くのものが遠くにあるものとして表現されることが、ままある。これは事実です。慣れてないとちょっと吃驚りする。

 で、それはともかく本文に戻りますが、そもそも吉田健一の文章に一人称はないのか、という問題です。三浦さんが引用している吉田『時間』の一節です。 

 

  時間とともにあるという忘我に似た状態が後になって我々に自分が夢中だったように錯覚されるので、それならば我々がそういう形で夢中でない時は時間を、またしたがって時間とともにある自分を見失って、今度はその疼きを覚めきった状態と錯覚しているのである。大概の悲観論、自分は何故生まれてきたかという類のものの見方もそこから発しているのであって、その欺瞞に伴う空虚は今日の日本でもまだ我々にお馴染みのものでなくなるに至っていない。(吉田健一『時間』/三浦「人称の不在――吉田健一の文体」/『自分が死ぬということ』p.49から援引。傍線引用者)

 

 確かに一人称複数「我々」はありますが、これは「世間一般の人」を指す訳ですから、実際には三人称複数の代名詞と考えても差し支えありません。したがって、一人称単数「私」は存在しません。

 しかし、これは「時間」とか「変化」と言ったどちらかと言えば哲学的な概念を扱う文章ですから、「私」は使いづらいのかも知れません。

 ま、せっかくの機会ですから、その件くだんの、小林の「ベルグソン論」=「感想」と比べてみましょう。

 「感想」は先ほどもお話ししたように、連載の中断に伴い、――小林は後に、数学者の岡潔との高名な対談『人間の建設』において、この連載中断について「無学を乗りきることができなかった」*と述懐していますが、実際どうだったのか。

 

*小林秀雄・岡潔「人間の建設」/『新潮』196510月号/『小林秀雄全作品』252004年・新潮社・p.184/小林・岡『人間の建設』2010年・新潮文庫・p.65

 

 いわゆる哲学的な意味での学問的修練とか学問的知識が及ばなかった、というような表面的な意味ではないとわたしは思いますが、――というのは、三浦さん自身が「小林秀雄は文芸評論家として生きたが、その作品は文学というよりはむしろ思想に属していたといってよい」*と書いていますが、もともと小林は語の真の意味における哲学者・思想家です。哲学者が偶々、フランス文学を翻訳したり、講述したり、文芸評論を書いているに過ぎないのです。だから、その面で、つまり哲学的素養とか、哲学的思考能力といった点で挫折した訳ではないのだと思います。

 

*三浦雅士「小林秀雄論」/『言論は日本を動かす』第2巻・山崎正和編『人間を探求する』1986年・講談社/三浦『小説という植民地』p.224

 

 いずれにしても事の真偽は誰にも分かりませんが。この「感想」は小林の全集、並びに全作品が刊行されるに当たって、謎の理由*で収録されました。まー、商売上での理由ですね。ま、いいけどね。

 

*一応参考までに。

「「感想」の別巻収録について
 昭和335月~同386月の間、雑誌「新潮」に連載されたべルグソン論「感想」を、別巻Iに特別収録します。「感想」は、雑誌連載第五十六回終了をもって未完のままに中断され、以後、連載再開にはいたらず単行本化もなされませんでした。しかも、著者は晩年、親族ならびに弊社に対し、将来ともにこれを単行本として刊行すること、また全集類に収録すること、そのいずれもを厳禁する旨言明されました。
 しかしながら、著者の没後十数年を経る間に、かつての「新潮」連載稿を用いて「感想」を研究対象、あるいは研究資料とした論文類が少なからず発表され、右の経緯が今後とも世に知られぬままに推移すれば、先々ますます著者の遺志は等閑に付されるであろうとの危惧が浮上しました。よって今般、あえて本全集に別巻として収録し、巻頭に収録意図を明記して、読者諸氏に著者の遺志の了知を請うことといたします。」(「小林秀雄全集」/新潮社ホウムペイジ)

 

 では、その冒頭と言いたいのですが、「感想」の一回目は、例の「おつかさん」の幽霊が蛍になって現れたというバチバチの私小説なので、「私」出まくりで、あまり参考にならないので、第二節の冒頭の二段落を引く。なんで二段落かというと、最初の一段落はベルクソンの引用だからです。

 では、行きます、小林秀雄「感想」第二節の冒頭二段落分です。

 

 ベルグソンの最後の作は、 次の樣な文で終つてゐた。 

「人々は、大きな手段、小さな手段、のいづれ選ばうとも、一つの決斷をすることを迫られてゐる。人類は、自分の手に成つた進歩の重みに、半ば壓し漬されて、呻いてゐる。人類は、自分の未來は、自分次第のものだ、といふ事を、まだ十分承知してゐないのである。先づ、 これ以上生存したいのかしたくないのかを知るべきである。次に、自ら問ふがよい、たゞ生存したいのか、 それとも、その外に、神ゝを作る機械に他ならぬ宇宙の本質的な機能が、反抗的なわれわれの地球に於いても亦、遂行されるのに必要な努力をしたいかどうかを、」

 無論、これだけの引用では、彼の言葉のはつきりした意味はつかめない。たゞ、今、私が言ふのは、飜譯は下手だが、かういふ物の言ひ方の事なのである。と言つても、ベルグソンを愛讀した事のない人には、感じは傳へ難いのだが、假りに、よくない言葉で言つてみれば、かういふ一種豫言者めいた、一種身振のある樣な物の言ひ方は、これまでベルグソンの書いたものゝうちには、絶えてなかつたものなのである。彼の文體は、「意識の直接與件論」以來、何時でも、何處でも變つてゐない。重要作でも、講演の文章でも、本の序文でも、一樣に靜かであり、簡潔であり、恐らくは細かく強い抑制の力によつてであらうが、驚くほど透明で、潔白である。それが、こゝでアクセントを變へた。これは以前讀んだ折にも感じたのだが、今、これが遺言だつたと知つて、不見識な話だが、成る程、さういふ次第であつたか、と思つてゐるのである。(小林秀雄「感想」/『新潮』1958年5月号/『小林秀雄 百年のヒント――生誕百年記念「新潮」四月臨時増刊』2001年・新潮社・p.p.20-21から援引)

 

 いや、なかなかいい文章ですね。具体的な文体の引っ掛かりから哲学的思考に入ろうとしている。悪くないと思います。――そう思いませんか。思わない? え? 分からない? あ、そう。。。。。

 ま、いずれにしても、実際に吉田健一の文体が、小林秀雄の文体を、「自意識の解体」という意味合いにおいて、凌駕したのかどうかは、――わたし個人としては、いささか疑わしい気もしますが、そこが、つまり、吉田の文体を分析することが本書の目的ではなく、あくまでも小林秀雄本人を、三浦さんがどう考えたかということが問題だからです。

 

5 ここで問題

 

 さて、ちょっとまとめてみましょう。

 初期、1985年ごろでは、三浦さんは、小林が「自意識」の問題を正面から闘うことなしに、戦後、日本的伝統に逃げた。ありうべき勝利の形は、宮川淳のように徹底的に「表面」にこだわるべきであった、あるいは吉田健一のように一人称単数代名詞「私」を使用しないということっだった。と、まあ、こうなる訳ですが、ほんとにそうなのか?

 皆さんはプロレスとか観ますか? ああ、やっぱ観ないですよね。悲しいですね( ;;)。ライジンとか総合格闘技は観ますか。ま、そもそも普通の時間に普通のテレヴィジョンでやってないしね。プロレスって八百長とか言う人がいますが、それはちょっと違う。八百長というのはフェアなルールに則ってやるべき試合を、裏で、金銭とかのやり取りで勝ち負けの取引をすることですから、その意味ではプロレスは八百長ではなくて、原則として事前にブック、台本があって、それに則って試合が運行されます。だから演劇とか落語などの舞台芸能の一種です。ま、勝ち負けがあるので、スポーツと思い込んでいますが、演劇と同じです。だから、勝ち負けよりもいかに相手の技を受けて、観客をいかに盛り上げるかということの方が何倍も重要です。そこが完全なプロフェッショナル・スポーツである総合格闘技とは違うところです。したがって、そこには熟練の技と或る種のカリスマ性が要求されます。だから始まって3秒で腕ひしぎ逆十字固めをかけて、勝っても、実はプロレスラーとしては負けているということがあります。

 個人的な見解ですが、この小林vs.宮川とか、小林vs.吉田にしても格が違い過ぎる気がしますね。要は老獪な小林の熟練の技に、真っ向勝負を挑んで、翻弄されている姿が見える、と言ったら言い過ぎでしょうか。

 閑話休題。

では、そもそも「自意識」、あるいは「近代的自我」とは一体何なのか、というその根本のところを叩く必要がありそうですね。何故にそこにこだわるのか。

 更に言えば、先ほどお話ししたように三浦さんは小林を否定、あるいは乗り越えるべき存在として描いているように見えます。しかしながら、再三に渡って小林への言及があるのは何故か、また、その語調は必ずしも全否定しているようには見えないのは何故なのか、こういった、いまのところ、チョー漠然とした問いかけが我々の前に立ち塞がる訳です。

 

6 小林秀雄とはそもそも何ものなのか?

 

 まず、分かり易いというか、わたしが答え易いほうから行きましょう。

 ズバリ、小林秀雄とは何なのでしょうか?

 昨年、2020年のことですが長年に渡って文芸評論家として活躍してきた高橋英夫さんが亡くなりました。今年に入って、大部の著作集(生前の著者による選集、『高橋英夫著作集 テオリア』全8巻・2021年・河出書房新社)の刊行も始まっているようですが、その時は、生前の高橋さんの業績からすると反応が薄く、追悼の特集などもあまり組まれていないようでした。昨年(2000年)の『群像』の4月号ですが、「追悼 高橋英夫」として、なんと三浦さんたった一人が追悼文を寄せています。寂しいですね。ま、なんと言ってもほぼ同じころ、評論家・作家の橋本治が亡くなっていて、彼の追悼特集に大部のペイジが割かれてしまっているから、ということもあるのですが、まー、世の中の構図をよく示していますが、問題は全くそこにはありません。

 三浦さんの、高橋さんへの追悼文は「父・小林秀雄と闘い終えて」と題されたA5判の雑誌、2段組みで見開き2頁の短さです。四百字詰め原稿用紙にして7枚から8枚程度のものです。この題名が付いてなかったら、わたしも気づかなかったかも知れません。

 高橋さんのデビュー作は、渾身の小林秀雄論『批評の精神』*ですが、それを紹介したうえで、三浦さんはこう述べます。例のごとく、最重要四角囲み、重要傍線ということでお願いします。

 

*1970年・中央公論社/2004年・講談社文芸文庫。こちらの文庫には三浦さんが解説を寄せています。  

 

 いまさら指摘するまでもなく、昭和の批評は小林の影響圏から、いかに脱出するかという難題から一度も逃れたことがない批評として信じられるのは小林だけだったからである。小林の書くものにはすべて小林の刻印が明瞭に押されていた他は誰が書いてもいいような批評にすぎなかった。大げさに言えば、そういうことになる。

 小林とはおよそ異なった気圏で活動した吉本隆明、澁澤龍彦、大岡信にせよ、初期の文章に小林の影響は歴然としている影響は圧倒的だった批評とは小林のように書くことだった小林からの距離が、批評家の個性と見なされたとさえ言える。富士川英郎、吉田健一、吉田秀和、粟津則雄、川村二郎ほか、『批評の精神』では触れられなかった面々*にしても、みなそうである。

 高橋がその筆頭に見えたのは、この図式を隠さずに一貫して掲げていたからである。他の批評家の多く――粟津は稀な例外――が小林に言及しないことでその影響圏から脱しようとしたのに対して、高橋は逆に言及し続けることによって影響圏から脱しようとした小林に対して他者たりうるものになるには、そうするほかないと考えたのである。小林という父から自立しようとする子の闘いと言っていい。(三浦雅士「父・小林秀雄と闘い終えて」/『群像』2000年4月号・p.167。ゴシック変換・傍線部引用者)

 

*引用者註。逆に高橋さんが『批評の精神』で論究していた面々は以下の通り。河上徹太郎、大岡昇平、神西清、福田恆存、林達夫、唐木順三、折口信夫です。

 

 全くいつも感心するんですが、三浦さんの文学史の理解、もちろん、文学史に限らず、他の多くの様々な領域でもそうなのですが、まさに絵に描いたように明確です。以前もご紹介したように、理解するということは絵に描けるということですから。

 お読みいただいて分かるように、昭和の批評という枠内での図式、――図式もなにも、要は小林一色だったというのです。その圧倒さは三浦さんが書いている通りですが、一旦、ここでは小林からすると、

第二世代に当たる人々、とりわけ高橋さんを代表としていますが、その実は、その後の後続する世代についても、少なくとも三浦さんの世代、言うなれば孫の代に当たるのかも知れませんが、事態が変わらなかったのではないでしょうか。

 つまり、小林を否定する、小林を乗り越える、小林の圏域から離脱するためには、先行者高橋さんがそうであったように、徹底的に小林に論究し続ける、――あえて虎口に入る、という方法をこそ、――恐らく無意識に選択したのは三浦さん本人だったのだと思います。

 もちろん、多くの後発の批評家たちが軽くあしらったように、あるいは既にして前世紀の遺物でもあるかのように侮蔑の言葉を投げかけたように、あるいは小林の小の字も出さず、そんな批評家はいなかったのだとやり過ごしたりすることも可能だった訳です。でも、三浦さんはそうはしなかった。

 先ほどの引用に続けてこう述べて、この追悼文を閉じています。

 

 高橋の死は、昭和という批評の時代、小林秀雄の時代がいまや完全に終わったのだという印象を与えずにおかない。(三浦雅士「父・小林秀雄と闘い終えて」/『新潮』2000年4月号・p.167

 

 確かに、高橋さんの死が、ポスト小林第一世代の退場を意味し、それはさらに批評が力を持った昭和も、――今頃かよ、とは思いますが、昭和の終焉をも意味する、ということには、一旦異存はないのですが、「小林秀雄の時代」は本当に終わったのでしょうか? 小林の問いかけた大小様々な問題群について、われわれはなかったことにしてやり過ごしてよいのでしょうか?

 恐らく、三浦さんの中では小林はもう終わっているのです。それはとっくのとうに終わっていたのだと思います。

 で、『青春の終焉』や『孤独の発明』本篇で、思わぬところで(多分)、つぶさに検討した結果、やはり、「小林秀雄の時代」は終わった、もう終わっていたのだと一応確認したのだと思います。

 なにしろ、『青春の終焉』の、まさに、その「青春」を体現していたのが小林秀雄その人だった訳ですから、「青春の終焉」とは「小林秀雄の終焉」と言っても過言ではなかったのです。

 しかし、なか一つ『出生の秘密』*という漱石論を書き、その後、既にして終焉を迎えていたはずの小林に挑んでいった、いや違うな、むしろ、小林に絡まれたのが『孤独の発明』本篇に他なりません。これも恐らくはこんなに長く小林について書くことになろうとは思いもよらなかったのではないでしょうか。

 

*これも、或る意味、裏返しの小林論と読めなくもありません。小林が漱石について全く論じなかったのは有名ですが、その意味では、つまり、それは何故かということを考えると、小林と漱石は裏と表の関係にあると言ってもいいことに拠ります。

 

 一体、これはどういうことでしょうか。

 いや、終わった、解決した、もう書くことはない、と思っていたところ、にわかに「幽霊」、「冥界下降譚」というテーマに遭遇し、幽霊と言えば小林ではないか、と小林を書くつもりがないのに小林について蜿蜒と書くことになる。

 それが『孤独の発明』本篇なのですが、ここの奇妙と言えば奇妙なことの進展が、それに対する恐怖が三浦さんをして、出版を断念(? かどうかはまだ分かりませんが)させたのでしょうか。有体に言えば、小林の亡霊を、その祟りを恐れたのでしょうか? ――まさか、そんな馬鹿な。

 この件は、また考えます。

 いずれにしても、多かれ少なかれ、いまだにわれわれは小林秀雄の引力の圏域内にいるのは確かなことではないかと思います。平たく言えば、小林の時代はまだ終わってないのではないかということです。

 2001年に第5次全集、それに引き続き第6次全集が出版されるということも明らかにその象徴とも言えます。大学入試問題にかつて帝王だった小林の文章が出題されなくて久しい時が流れましたが、久しぶりに2013年に大学入試センター試験に出題されてニューズになるほど世間を騒がせました。

 例えば、近年に至っても小林について論ずる著書は数え切れぬほど出版されています。無論、だからと言って小林の時代は終わってない、ということはできないのですが、問題はどこにあるのでしょうか。

 言うなれば、小林が問いかけた問題、様々ありますが、少なくとも「自意識」の問題こそは時代に所属するものではなく、まさに人類ととともに発生し、近代に至れば至るほど、人間が人間たる故を語った問題ではなかったでしょうか。つまり、永遠の輝きじゅわいよ・くちゅーるマキ、ということです。

 

7 自意識、自己言及のパラドクス、自分が死ぬこと

 

  さて、いささか、ややこしー話になりますが、「自意識」とか「近代的自我」とかの問題です。

 もう一度確認すると、三浦さんによれば、小林はこの「自意識」と正面からバトルすることなしに、日本的な伝統という「深さ」へと逃げた、それは駄目だ、最初期の「自意識」の問題と徹底的に戦うべきだったのだ、ということでした。

 では、そのありうべき解決策としてはどーすりゃよかったのか、というと、一旦、確認した限りで言えば、二つある。

①美術批評家・宮川淳が示したように徹底的に「表面」に関わること。

②作家・批評家の吉田健一が示したように一人称単数「私」を消滅させ、文体自体に語るに任せること。

 という訳でした。ただ、先にも見たように、それが必ずしも成功しているとは言えないのではないか、というところまでお話をして、じゃあ、そもそもその「自意識」とか「近代的自我」っちゅーのは何なのか、何なのさ、あんた、あの子の何なのさ、――って分かる訳ないですよね、ま、それはいいとして、ここをちょっと叩いてみようと思う訳です。ま、でも大して時間は取りません。

 カンタンに言うと、以前にもお話ししたように、小林の初期の業績は、いや、初期に限らず、その業績はデビュー作「様々なる意匠」に尽きると考えています。

 あの、皆さん、新製品に弱いですか。あと、「季節限定商品」とかもありますけど、――あ、弱いですか、そうですよね、わたしもつい買っちゃうんですけど、――あんまりお酒飲まないように自重してるんですが、ビールとか、発泡酒とかって、絶対どの会社のどのブランドも「冬の」! とか「夏」! とかの季節限定商品って書いてあるんですけど、そういうの出ますよね。これついつい買っちゃうんですけど、まー、普通に考えれば、ビールや発泡酒なんて、なんてと言ったら失礼ですが、値段が変わらないならそんなに矢鱈めったら味なんて変わる訳ないのです。ま、もちろん、季節的に何とかの配合をちょっと変えると美味く感じるとかはあるとは思いますが、まー、素人にはそこまでわかんないですよね。――ちなみに、これはビールではありませんが、某O**食品の出しているスポーツドリンクの草分けたるPカリSエットって、缶入りとペットボトル入りでは味、というか成分が違うんだそうです、いやーそうだと思ったんだよなー、ってのは嘘で全く分かりませんでした。

 で、マーケティングとかの勉強をしてる人は聞いたことがあるかも知れませんが、これは「パッケイジ戦略」と呼ばれているもので、仮に中身は同じでも、パッケイジ、つまり外見のデザインを変えることで販売の促進を促す、というものです*

 

*ちなみに、わたしはこのパッケイジ戦略というかデザインの重視を否定していません。或る内容、コンテンツがあって、それに見合うパッケイジ、デザインで消費者、享受者に届けるというのは正しい考え方だと思います。それは文学で言えば、主題と文体との関係にも一致するはずです。単に、「私はあなたを愛しています」という主題を、どのような表現で、どのような文体で表すか、というのは、文学、文芸にとって、極めて重要なテーマではないでしょうか。実際に小林の批評が日本の文壇、読書界を席捲したのもその内容もさることながら、その文体の魔力こそ、その大きな理由ではなかったでしょうか。

 

 要するに、話を戻しますが、世間でいろいろ言われている思想なり、考え方なり、何とか主義とか言っていますが、そんなのは全部単なるデザインやんけ、内容がないよーって小林は言った訳です。

 で、問題はそういう小林の考え方でさえ「様々なる意匠」の一つに過ぎないではないか、あんただって、単なるデザインだよということになる訳です。いわゆる、自己言及のパラドクスという訳です。

 あれですね、嘘つきクレタ人の話です。聞いたことありますよね。

 クレタ島の人々は全員嘘をつく。そのクレタ人のエウリピデスが「僕は嘘をつきませーん!」って言ってトラックの前に飛び出すんですが、――あ、ここはパスしてもらって、嘘つきが嘘つかないと言ってもそれは嘘ですから「僕は嘘をつくー!」ってことになって、じゃあほんとじゃん、てなって、クレタ人が嘘つきだというそもそもの前提が崩壊するじゃないか、って話です。

 ま、でも、そんなの謎々みたいなもので、大した問題じゃないじゃん、て思うかも知れません。でも、言われている内容が死活問題だったらどうしますか。

 コロナ騒ぎやらオリンピック問題が重なって、今年、2021年の日本の夏、緊張の夏はもう大騒ぎなんですが、かつて、小松左京の屈指の名作『日本沈没』(上下・1973年・ カッパ・ノベルス(光文社))と並んでベストセラーになった本に五島勉『ノストラダムスの大予言』(1973年・ノン・ブック(祥伝社))という本があります。

 わたしは当時、恐るべきことに小学生で、たまたま立ち寄った書店で、母と『日本沈没』と『ノストラダムスの大予言』のどっちを買うか相談をして、結局二巻本だった前者を買ってもらいました。

 で、そんなことはいいんですが、そのノストラダムスという予言者が「1999年7の月に恐怖の大王が空から降ってくる」と予言をしていて、つまりは地球人類はここで破滅する、という具合に騒がれたものです。筆者の五島勉さんは先年亡くなったそうですが、生前語っていたことによると、この段階では核戦争を予想していたが、世間がこれによって回避されたのだと言ってたと思います。

 で、これって実は年号の計算方法とかで23年ずれちゃったんじゃないかって思っていて、――わたしがね、「7の月に」「空から降ってくる」「恐怖の大王」って、新型コロナ・ウイルスのことではないか、で、人類はここを起点に滅亡、――ノストラダムスはどこにも滅亡」なんて言ってないんだけどね、滅亡するんじゃないかって、もしわたしが大真面目にいったら、どうしますか、駅前とか立って、「人類は滅亡する」「皆さん、早く逃げてください」ってどこへ?

 「ノストラダムスの大予言を信じましょう!」とか言って叫んでたら、まーまず間違いなく口きいてくれなくなると思いますし、頭おかしい人扱いですよね。でもこれって先の問題と被るんです。

 

 例えば、ある人が、私は狂人ではないといいました。しかし、それは単なる思い込みかも知れません。その人が本当に狂ってないかどうかは、精神科医の手にゆだねねばなりません。しかし、その医者自身が狂っているとしたらどうでしょう。また、さらにその医者を診断する第二の医者が要請され、またまた、さらにその医者を診断する第三の医者が要請され、またまた、さらに……。

 きりがないのです。

 ということは、論理的には人類全体が狂っていると言うことも可能じゃないですか。人類自身に自らが狂っているかどうかなど判断できないのです。

 これは三浦さんも引用していて、わたしも頭に乗って153回ぐらい引用してるんですが、――これは、あのいわゆる放送禁止用語なんですけど、生前の著者の意を汲みそのままの表記にさせて頂きました。

 小林秀雄の言葉を借りれば、ある人が信じられるかどうか、言い換えれば狂っていないかどうかを証明、決定するのは「要するに數の問題だ。氣違ひと言はれない爲には、同類をふや」すしかないのだ(小林秀雄「モオツアルト」1946年/『新訂・小林秀雄全集』第八卷・1978年・新潮社・p.87)、ということになっちゃいます。

 つまり、数が多い方が正常で、少ない方が異常ということなのです。多いほうが勝ちなのですね。善か悪か、正常か異常か、狂人ではないか狂人か、それを決定する根拠、基準、ルールはありません。もしルールがあるとすれば、それは多数決で決まるということなのです。

 したがって、この自意識の問題は、少なくともわたしにとっては、容易に相対主義の問題へともつながっていて、これも第2章で触れました。

 で、三浦さんにとっては、この自意識、自己言及のパラドクスは、これも本書で何度も言及しましたが、「自分が死ぬこと」問題と近接しているテーマなのです。

 自分が死ぬことは誰も経験したことがない。人は他者の死しか経験できない。しかし、人は自らの死を恐れる。自分が死んだあと、もしかしたら、この世界はなくなってしまうかも知れない。

 そもそも、この世界に意味などない、したがって、この世に生きる意味などない。したがって、自殺しようと思うが、実はそれすなわち世界の人類全体に対する死刑宣告に他ならない、というものでした。

 恐らく、小林の問題に限らず、青少年期の三浦さんを苦しめたのはこのような、比較的鋭角に尖った、シンプルな問題だったのだと思います。まさに死活問題でした。したがって、何としても、この一連の問題は解決せねばならぬ問題、解決への方途を模索せねばならぬ問題に他ならなかったのです。

 で、よくよく考えれば、単純なことですが、先に述べた嘘つきクレタ人の問題もそうですが、二つの階層が混同されているのでおかしなことになるだけです。

 「自分が死ぬこと」問題も同じです。これも第6章第1節第2項で既に触れましたが、大変重要な講演「言葉と死」において、ひとつの解決策が示されています。

 これも簡単に繰り返しますが、要はこうです。人間の意識には二つある、ということです。それは「言葉としての意識」*と「生命としての意識あるいは生理としての意識」*、この二つのことです。

 

*三浦「言葉と死」/菅野編『村上春樹の読みかた』p.111

 

 つまり、人間の主体は「言葉としての意識」にあって、「生命としての意識あるいは生理としての意識」というのはあくまでもそれを支えるものに過ぎない、ということです。ということは、仮に自分が死ぬことで「生命としての意識あるいは生理としての意識」つまり肉体/身体としての自分が消滅したとしたとしても、「言葉としての意識」つまり精神/意識としての自分は永遠に残るというのです。

 したがって、仮に自殺したとしても、その精神は言葉などに永遠に残る訳ですから、とても全人類に対する死刑宣告などということにはならないでしょう。

 これで、一件落着、拍手! 

 じゃ、長い間、ありがとうございました、これで終了です。お帰りの際は忘れ物に注意してね、じゃあ、さよなら!

 

 ――んな訳ないでしょう!

 つまり、ほんとにそうなんですか。

 「言葉としての意識」は不死だ。――なるほど。

  確かに、人は、言葉を遺して永遠の世界に連なることができます。言葉がある限り、ホメロスも紫式部もシェイクスピアも、いつでもどこでもまざまざとわれわれの目のまえに現れることができ、彼らと自在に対話することも、論難することも、あるいは、場合によってはわれわれの質問にすら答えてくてくれます。

 しかし、それは、あくまでもわれわれこの現在の、この現世に生きている立場での、言語的架空空間においての話です。要はわたしたちの想像、言い方を変えるなら、妄想かも知れないのです。つまり、物理的に死んだ者からすると、いやー、君たちは永遠に生きてますよ、よ言われても、死んでることには違いがない、というか、そんなことを言われても、もう聞く耳がないのです(失礼)

 あるいは、これはどこかでお話ししたことですが、言葉がなくなったら、つまり、ある民族なり、その言葉を話している人間の集団が滅亡したら、そこにいた死者たちはみんな永久に永遠の座を奪われることになります。あるいは全人類が滅亡しても同じことになります。

 「言葉」の世界の豊潤さは認めるにやぶさかではありませんが、「言葉」の永続性と「永遠の生」を結びつけるのは、少なくともわたしたちの日常的な実感からすると、違う感じがしますね。そうは思いませんか。

 もう一つ、これは価値観の問題ですが、逆のケイスですが、物理的に生きていても意識が死んだら、その人は死んだも同然である、という考え方です。いわゆる「脳死」などの問題もさることながら、いわゆる「痴呆症」とか「認知症」とか言われる問題で、どれだけ優秀な頭脳を持っていた人でも、何らかの事態で「自分が自分である」という認識が困難になる、あるいはもうそのこと自体も苦しみに感じない状態に陥った場合、それはもう「死」なのでしょうか。三浦さんはこの問題について次のように言っています。

 

 それでは言葉としての意識とはどういうものか。痴呆の過程が明らかにするように、人間は自分が誰であるかをさえ忘れます。自分が誰であるか分からなくなった自分は、もうその人間ではないのではないか、という疑いか当然のように湧きます。意識とはまず自己意識であって、自分が誰であって、誰々とはこういう関係にあるということ、つまり自分の過去を明確に記憶する自己意識がなくなったのでは、それはもうその人間ではないということではないか。しかし、現在の法律ではそういうことにはならないようです。生理としての意識かあるかぎり、あるいは肉体が存在するかぎりは、その人間はその人間であると見なされている。ほんとうはしかし、そうでないほうが有り難いと思っている人間も少なくない。むしろ、自分が自分でなくなるくらいなら、たとえば植物人間として長生きするよりは、自殺したほうかいいと考えている人間のほうか多いと思います。こういうことをあからさまに言えば差し障りがあるから、誰もあまり言いませんが、差し障りがあることを言ってしまうのが文学だとほくは思っていますので、言います。(三浦「言葉と死」/菅野編『村上春樹の読み方』p.112

 

 皆さんはどう思いますか。

 わたしは違うと思います。言葉としての意識が、仮に死んだように見えても、今現在のわれわれの科学力では、単にそうだというだけで、実際は違うかも知れません。つまり見た眼は単なる物質と変わりがないと思えても、彼らはまさに「身体で考えている」かもれないのです。

 これはわれわれの科学力が発達したら、やがて解決する問題だとかそういうことだけを言っている訳ではありません。今、この段階でも、いや過去においてもそうではなかったのかということです。

 これは三浦さんも『言語の政治学』で言及されていますが、日本には、というか東アジアの大乗仏教圏には「草木成仏」という考え方があります。草木は植物ですが、これは無論動物も含まれるのですが、われわれ人間以外も成仏、仏に成れるというのですが、仏、仏性というのを、死んでから、つまりあの世に行ってから金色に輝く有難い仏様の横に座って、未来永劫にそこで安楽に暮らす、とかそういうことではなくて、意識の高度な働きを持つと考えれば、ありとあらゆる生命体には何らかの意識があると、一旦考えます。ただ、普段はそれがわたしたちには、ただ単に分からないだけなのです。

 もうちょっと極端に言うと、無生物、無機物、器械、機械と言われるものでもそういうものが仮定できる気が、わたしにはしています。この辺はおまけです。

 話を人間界に戻して、もう一度言うと、見た目上の、あるいは科学的な意識の有無にかかわることなく生命あるものはそれ自体として尊重されるべきだとわたしは考えています。

 でないと、事故や病気で脳に障害を持つに至った人々、あるいはそれで「脳死」状態になった人々、狂気に陥った精神「異常者」の方々や痴呆症になってしまったお年寄り、これらの人々は均並みに「言葉としての意識」がない故に「個人」としてはもう「死んでいる」、だから、物理的に殺しても構わないのだ、という議論になってしまいます。もちろん、いや、その通りだよ、そうすべきだ、という考え方があるのも存じていますが、それは、少なくともわたしの立場では間違っていると思います。

 それは、例えば、極端に言えば自言語の通じない異言語の人々も死者、までいかなくてもゾンビのようなものですか。襲われる前に殺しちゃいますよね。あるいは言語を持たない、――つまり、われわれが言語だと思うような言語のパターンを持たない人種はどうしますか。やはりゾンビですか。

 いずれにしても、ここはなにか混乱があるように思います。最初期の「自分が死ぬということ」という主題に捕われ過ぎたと言っていいのか分かりませんが、いずれにしても何らかのボタンの掛け違いがあるように思います。

 奇妙な言い方になりますが、ここは文芸評論家としての三浦雅士と舞踊評論家、あるいは文明評論家としての三浦雅士が分裂しているのではないかと思います。言うなれば「幽霊」という主題に拘泥する文芸評論家と「考える身体」という主題を持ち得た舞踊(文明)評論家との分裂です。この問題はわたしに気力、体力、時の運があればですね、本章の結論で述べたいとは思います。

 ここの分裂の状況をまとめると以下のようになります。

 

【表1994年以降の三浦雅士作品の2系統】

西暦

幽霊系

身体系

両方

どちらでもない

1994

 

『身体の零度』

 

 

1995

 

『バレエの現代』

 

 

1996

 

 

 

 

1997

 

 

 

 

1998

 

 

 

 

1999

 

『考える身体』

 

 

2000

 

『バレエ入門』

 

 

2001

 

 

『批評という鬱』

『青春の終焉』

2002

 

 

 

 

2003

①『村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ』
②「言葉と死」

 

 

 

2004

 

 

 

 

2005

 

 

 

『出生の秘密』

2006

 

 

 

 

2007

 

 

 

 

2008

 

 

 

『漱石――母に愛されなかった子』

2009

 

 

 

 

2010

『人生という作品』

 

 

 

2011

「孤独の発明」本篇

 

 

 

2012

 

 

 

 

2013

 

 

 

『魂の場所』

2014

 

 

 

 

2015

 

 

 

 

2016

 

 

 

 

2017

 

 

 

 

2018

『孤独の発明 または言語の政治学』

 

 

 

2019

 

 

 

 

2020

 

 

 

『石坂洋次郎の逆襲』
 「世界史の変容・序説」

2021

 

①「人間、この地平線的存在」(『考える身体』文庫版)
②『スタジオジブリの想像力――地平線とは何か』

 

 

 

 

 これを見ると、1990年代後半に舞踊体験から来る、「身体論」の考察がこの時期にピークを迎え、その後の論著はこの種の身体論は書かれなくなりました。強いて挙げれば2021年に『考える身体』の文庫化がなされ、そこに長文の新稿「人間、この地平線的存在」が増補されました。あとは2003年の村上春樹論に端を発する「幽霊論」が「孤独の発明」に流れ込むという仕儀となっている訳です。

 さて。では本論に行きます!

 

8 『青春の終焉』の中の小林秀雄

 

1 『青春の終焉』は成功しているのか?

 

 『青春の終焉』は三浦さん、初の長篇評論でした。表紙には印刷されていませんが、中表紙には「一九六〇年代試論」という副題が書かれています。例えば、古屋健三さんは、「青春の終焉」というのであれば、当然世界的な視野でこそ書かれねばならないと、『青春の亡霊』2001年・NHKブックス)との著書を上梓し、三浦さんを批判していますが、無論そんなことは百も承知、二百も合点というところですが、だからこそ、「日本の1960年代」に絞って書けば、行けるとの判断でこの書の連載を始めたのです。恐らく、ここには三浦さん自身が実際に経験した日本の1960年代という「具体的な」手触りや、空気感や、様々な思いを通してこそ、書くに足るものが書ける、との思いがあったのではないかと思います。

 1960年代。三浦さんは1962年に弘前高校に入学し下宿生活を始め、その後、大学進学を意図的にせず、上京し、1969年には青土社に入社し、編集者として活躍を始める、といった時期でした。まさに三浦さんにとってみれば1960年代とは「青春時代」の異名という他はない時代でした。

 幸いにもこの作品は芸術選奨文部科学大臣賞・第13回伊藤整文学賞という二つの賞を受賞し、その後文庫化もされ、広く世間にも受け入れられた作品と言っていいかも知れません。

  ただ、個人的にはいかがなものか、という気がしています。残念ながら。三浦さんは本書成立のきっかけを還暦を迎えた小林がオレの青春も終わったぜ、という言葉に瞠目して書き始めることができた、と或るインタビュー(「「若さ」を軸に解いた社会と文学――三浦雅士「青春の終焉」」/『朝日新聞』2017726日夕刊)に答えていますが、うーーーん、それは、三浦さん自身も書いているように、或る種の全力で生きる、懸命に生きるというような意味で、「青春」なのでしょうか。大家の戯言のようにもわたしには聞こえます。

 そもそも、その後、小林は、ボケたとか、老害とか失礼なことを言われますが、決して手を抜いて書いたわけでも、いい加減に生きたわけでもないでしょう。

 要は言葉のあやとでも言うべきものだったのではないでしょうか。

 そもそも、本書は1960年代に限らず、越境が多過ぎ、馬琴論に至っては、確かに江戸末期からの文学の伝統こそが現代にも流れているのは確かにそうだとは思いますが、これはこれで書くべきで、況や「青春の終焉」との題号からも逸脱していると考えられます。短い批評などに示唆的に書くのであれば話は別だったかも知れませんが。

 後半、「教養の凋落」の問題、「大学の死」の問題など、これらも確かに興味深いのですが、やはり、前半のツー・トップ、小林と太宰を巡る微に入り細に入る詳細な、あたかも熟練の外科医がこともなげに複雑な内臓を切り分けて手術を成し遂げるかのような手つきの冴えが見られる分析と比べると、正直いきなり解像度が落ちてしまったような、――、恐らくそれは三浦さん自身が小林なり、太宰なりをどれほど自身の身になって読み込んできたか、ということの証に他ならないとは思いますが、そんな印象を持たざるを得ないのです。

 それでも、この二人が果たして「青春の終焉」というテーマに値するかというと、やはり、いささか首を傾げざるを得ません。

 なにしろ、いまだに小林にせよ、太宰にせよ多くの読者に恵まれているからです。全集の刊行回数もほぼ同じはずです、多分ね。

 そこで思うのは三浦さんが2017年に発表した『石坂洋次郎の逆襲』の石坂その人こそ、「青春の終焉」に相応しかったのではないか、一連の映画化された青春ドラマの急速な凋落こそ「青春の終焉」の名に相応しいのではなかったかとも思います*。青春小説、青春ドラマとは言いますが、青春批評とは言わない。

 

*論点がずれるかもしれませんが、もう一人挙げるなら、ストーリー漫画原作者・梶原一騎です。彼の代表作たる『巨人の星』と『あしたのジョー』は何度もアニメ化や映画化などでリヴァイヴァルされましたが、その意味では、「青春」という概念を、その後の社会全体に与えた、遺したのはこの作品ではなかったかとも思います。三浦さんは、『青春の終焉』の「あとがき」において、手塚治虫の、後の少女漫画への影響、あるいはその影響を受けた女性の作家たちについて書いていますが、それは確かにその通りで、大変興味深い話ですが、果たして手塚治虫をして「青春」の代名詞にすることはできないと思いますね。それは何故かということを考えるのは大変意味があることだと思います。で、梶原ですが1960年代から1980年代にかけて、「原作の鬼」と称されるほど漫画界で絶大な地位を手に入れるが83年の暴力事件を機に、文字通りに一気に凋落し、社会的に抹殺されたまま87年に、なんと50歳(ウソでしょ! もう、漫画界の小林秀雄ぐらいの偉さっぷりだったんですが)で呆気なく死去。ぜひ、わたしに、地の利、人の輪、天の時があれば、あ、違うな、やる気、元気、鈍器があれば、あ、これも違うな、勇気、体力、時の運、あ、これだ、みんなー、ニュー・ヨーーークに行きたいかあ? があれば、書きます。題して「日本がまだ「青春」だった頃――梶原一騎とその時代」。――うん、無理かな。怖そうだし。ちなみに、主題が違いますが、例の、大著『大山倍達正伝』で知られる小島一志さんが詳細な梶原の評伝『純情――梶原一騎正伝』(2021年・新潮社)を書いてしまったので、更に怪しくなってきました。

 

 しかし、にも関わらず、本書前半は手に汗握る展開で、言葉は良くないかも知れませんが、面白い、と言って過言ではありません。

 簡単に触れておきます。(とか言って、大体長くなる……)

 

2 青春という倫理、青春という美

 

 まず舞台になるのは、かの、週刊誌『朝日ジャーナル』(朝日新聞社)です。『朝日ジャーナル』、『朝ジャー』とか『ジャーナル』って略されていましたが、かつて、若者、まー大学生ですね、大学生ならかならず読む、みたいな感じで言われていた雑誌です。かく言うわたしも学生になってから暫くしてからずっと買っていました。読んでいたかというと大変微妙なところがありましたが1992年に休刊するまで、買っていたと思います。今も実家の押し入れにきっと安らかに眠っているはずです。

 ここのところは、実は小林とは直接関係がないのですが、――そもそも、この『青春の終焉』はどこにも小林秀雄論だとは書かれていません、結果的におよそ3分の1はそうなってしまったということかなと思いますが、三浦さんの、――以前白川静問題で触れた、資料の同時代的読解法の例になるかと思うので、続けますが、こういう具体的な資料を目の前に置くと、三浦さんは無類の強さを発揮するのだとわたしは思います。

 まず、登場するのが三島由紀夫です。三島の「青春の荒廃」という文章ですが、これは文芸評論家・中村光夫の『佐藤春夫論』(1962年・文藝春秋新社)の書評でした。『朝日ジャーナル』1962225日号所載です。

 で、詳細は省略せざるを得ないのですが、――あの、歴史好きでした? あ、そうですよね、まーそうですよね。ま、これは、もしかしたら歴史に限らないかも知れませんが、歴史って、実はどうでもいいようなことまで詳しく説明した方が分かり易くなります。もちろん大局的に言うとこうだ、という視点は必要なんですが、どうして、とかどういう風に、というところから、そもそもこいつはこういう奴で、こんなあだ名を付けれれていて、こんな失敗やあんな失敗を繰り返していたが、……とやった方が絶対に面白いはずなんですね。だから、あんまり省略しちゃいけないんですが、場合によってはやむを得ない。スマソ。

 で、その前提として佐藤春夫vs.中村光夫というバトルがすったもんだいろいろあった上での『佐藤春夫論』の出版という訳だったのです。これが1962年1月、文藝春秋新社からの刊行。その『佐藤春夫論』で中村の言っていることを三浦さんはこうまとめています。ちなみに佐藤春夫の文壇デビュー作は『田園の憂鬱』1919年/1951年・新潮文庫)という作品です。

 

たとえば鷗外の『舞姫』は青春の過失からの脱出の記録だったが、『田園の憂鬱』はそれとは違って「青春の狂気への籠城宣言」にほかならなかったからであるというのだ。つまり、以後もおよそ進歩がなかったというわけである。佐藤春夫は、現実とかかわるわけでもなければ、他者とかかわるわけでもない、ただただ青春の狂気に籠城したまま、以後ひたすら老醜をさらしているだけだというのである。それをそうならしめたのは、作者の作者自身に対する甘え以外のなにものでもないというのだ。(三浦「青春の終焉」/三浦『青春の終焉』p.24

 

中村光夫にすれば、こういう作家が登場しえたということ、持続しえたということじたいが奇怪きわまりないのであり、それは日本近代の歪み以外の何ものでもないということになる。

 歪みはむろん、文学においては私小説の成立として表れた。個性の即興的な表現がそのまま文学でありうるというような考え方は、私小説という土壌が形成されてしまった大正時代だからこそ通用したのであって、他では通用するはずがない。本来は私小説を書くような作家ではなかった佐藤春夫が、時代によって甘やかされたためにどうしようもない作家になってしまった。(三浦「青春の終焉」/三浦『青春の終焉』p.25

 

というような具合に、

 

 中村光夫が、教師のような面持ちで、この二十歳ほども年上の作家を叱りつけることができたのはなぜか。

 いうまでもなく、青春はかくあらねばならぬという確信、青春の規範とでもいうべきものが、この批評家にはあったからである。叱責はそこから発せられている。いや、この批評家にとっては、青春とはじつは規範そのもの、倫理そのものだったのである。(三浦「青春の終焉」/三浦『青春の終焉』p.27。傍線引用者)

 

という前提がまずあって、三島の「青春の荒廃」です。三浦さんは次のように三島を引用します。

 

 青春の荒廃とは何か。三島由紀夫は一気に述べている。

 

 いってみれば簡単なことで、本来夭折すべき作家が生き長らえ、しかもその危険な青春から身をそらせて生きたとみえてじつは果さず、青春の衣裳をそのまま着つづけて(もし夭折していたら美しい屍衣になっていたであろうものを)、おのれの青春に対する盲目的誠実が、ついには、そのまま不誠実と化してしまったドラマを、中村氏は冷厳に分析して、「氏の代表する大正文学の水ぶくれした個性の現代文学への浸透」を弾劾したのである。(三浦「青春の終焉」/三浦『青春の終焉』p.31

 

つまり、

 

 中村光夫との差は明瞭である。

 中村光夫は青春を倫理の問題に還元する。三島由紀夫は美の問題に還元するのである。(三浦「青春の終焉」/三浦『青春の終焉』 p.31

 

 

 中村光夫は、老醜をさらす作家を倫理的に、それも青春にまで遡って、わざわざその青春の倫理に照らして批判するわけだが、三島由紀夫は違う。青春の美に殉じなかったことを惜しみ、にもかかわらす生き延びてしまった姿を憐れむのである。憐れみもまた美の鑑賞のひとつの形態である。批判するまでもないというわけだ。だが、その姿勢は、見方を変えれば、中村光夫以上に痛烈な批判であるというべきだろう。大方の人間にとっては、惜しみ憐れまれるほうが、真っ向から批判される以上に屈辱だからである。(三浦「青春の終焉」/三浦『青春の終焉』 p.p.31-32

 

 この後、更に三浦さんは三島の「佐藤春夫氏についてのメモ」、それも選りによって『自選佐藤春夫全集』(1956年~58年・河出書房)の月報に寄稿したものですが、それを引用しています。

 

 明治以後、西欧とは日本にとつて青春の別名であつた。これを裏からいふと、青年の嗜好に愬へぬ*やうな西欧思想は、ひとつとして輸入されず、又たとへ輸入されても、ひとつとして普遍化されなかつたと云つていい。

 さて、詩人とは、自分の青春に殉ずるものである。青年の形態を一生引きずつてゆくものである。詩人的な生き方とは、短命にあれ、長寿にあれ、結局、青春と共に滅びることである。(『決定版 三島由紀夫全集 第29巻』2003年・新潮社/三浦「青春の終焉」/三浦『青春の終焉』 p.p.32-33より援引)

 

*引用者註。「愬へる」=「うったえる」。

 

 という訳で、この後、皆さんもお存じのように、1970年には、自らの、この考え方に、文字通り殉ずるかのように三島は割腹自殺を遂げることになりますが、かく、これほどまでに人をして巻き込んだ「青春」という言葉、概念、理想、基準、何でもいいですが、「この近代日本の流行語を、そのなかで生きることのできるひとつの座標系に、すなわち批評の基準、人生の基準にまで擬装したのもまたひとりの文学者だった。」(三浦「青春の終焉」/三浦『青春の終焉』 p.35と述べます。

 誰あろう、小林秀雄、その人です。

 と、ここまでで、本文では35ペイジもかかっています。しつこく言いますが、その当時の、或る程度文学を齧っている人たちなら読んでいてしかるべきものをきちんと探し出して来て状況を提示した上で論評する、この方法こそ賞賛されるべきです。

 

3 「三角関係」の「神話」?

 

 或る程度、小林秀雄のことを齧ったことのある人は、少なからずご存じのことですが、初期小林秀雄の「自意識の迷路」の具体的な表れとして、いわゆる「三角関係」、すなわち、小林が、親友・中原中也の「愛人」、――つーか「愛人」ってなんだ*、ということになりますが、一旦ここは流しますが、その愛人の長谷川泰子――って、これも名前は必要なのかとは思いますが、まあいいや、を横取りしてすったもんだがあったという事件です。結局、小林は3年ほど長谷川泰子と同棲したうえで別れましたし、中也はしばらくしてから30歳の若さで亡くなりました。夭折と言ってよいでしょう。

 

 *中也も小林も泰子との同棲の期間は他の女性と結婚しておらず、とすれば「愛人」というよりも「恋人」と言うべきでしょうが、恐らく、その前後の泰子の「男性遍歴」からして、あるいは多くの中也ファン、小林ファンからすると、彼ら二人が何だか弄ばれちゃったとでもいうファン心理から「愛人」と呼ばれているんでしょうか。謎です。

 

 で、問題はどこにあるのか、というと、そもそも近代日本文学史の七不思議のひとつが、小林は、なぜ自らの主題に近接しているはずの漱石を、ほぼ全くと言っていいほど書かなかったのか、というテーマがあって、これは三浦さんも『漱石』などで言及していますが、そのひとつの解答がこれです。

 漱石が再三に渡って「三角関係」をその小説のモチーフに取り上げたのは言うまでもないことですが、その漱石の書いた「三角関係」劇の台本を、自らの実際の人生を以て、上演したことが、先ほど挙げた小林-中也-泰子の三角関係に他ならなかった訳です。実際に自ら上演した、そんな生々しいものを、わざわざ、自ら書く必要はなかった訳です。

 これはしばしば三浦さんも言及していますが、何かを書くということは謎に向かって書くということです。無論、そんなのは人によって違うじゃないか、という人もいるとは思います。最初から結論が、最終場面がまざまざと見えていて、それに向かって書くという批評家や小説家も少なからずいるとは思います。でも、それは恐らく大部底の浅い作品になってしまってないでしょうか。

 人は、自分のことをすべて分かっている訳ではないのです。書くことによって気づくこともありますし、あるいは書いた後ですら、一体何が言いたかったのか、実は自分でも分からない、あるいは気づけない、なんてこともあるが故に文学は、文学に限りませんが芸術作品は豊かさをそこに秘めているというべきでしょう。

 つまり、小林は、漱石については恐らくもう分かったとでも思ったのでしょうか。

 さて、恐るべきはここからです。

 後年、若き俊英・江藤淳が『夏目漱石』(1956年・東京ライフ社/『決定版 夏目漱石』1979年・新潮文庫)でデビューし、大変な意欲作『作家は行動する』1959年・講談社/2005年・講談社文芸文庫)を発表した後、小林の年少の友人とも言うべき大岡昇平が、まず、この『作家は行動する』に難癖を付けます。

 要は、そこに描かれている小林像は実体とは異なる。大岡が身近に接した小林と違う、というのです。そりゃ、当たり前じゃん、という気もしますが、そもそも、『作家は行動する』という、恐らく江藤の批評家としてのその全力量はこの作品にこそ表れていると言っても過言ではないこの作品は、「唯一の」と言ってもよい先行者・小林秀雄を乗り越えるために書かれたものだから、当然と言えば当然なのです。

 しかし、大岡は、どいう訳か、この若き俊英を自らの陣営に、言うなれば「小林組」に取り込もうとしたのかどうかは分かりませんが、自身が収集した小林や中也などの一次資料を貸し与え、それによって小林の実態に即した評伝を書くように、江藤を「操作」します。

 それによって成立したのが、江藤淳の『小林秀雄』1961年・講談社/2002年・講談社文芸文庫)なのですが、ここにあるのは、既にして批評でも何でもなく、資料を単に繋いだだけの、言うなれば、あの江藤にしては凡庸な作品でした。

 この時、小林はまだ壮年です。無論、大岡を通じて、後進の俊才が自身の評伝を書いていることも、また、内容についても知っていたはずですが、そのままにしています。

 つまり、妙な言い方ですが、江藤に自らの「三角関係」劇の上演の次第を克明に書かせた、ということになり、ここに自らの「青春」を「青春の劇」にまで高めた小林の伝説が独り歩きをするようになった、という訳です。

 で、この後、ドストエフスキーの問題に移り、そこから例のごとく、ドストエフスキーとくればカーニバルとなり、そこでいよいよ太宰治が登場し、道化の問題、笑いの問題、女々しさの問題ときて、馬琴が登場するに至る、という道筋です。太宰と小林の関係はなかなか面白いのですが、それはどちらかというと、太宰の側から見られた姿なので、ここでは一旦パスしますが、いずれにしても小林の姿は途中から消え失せてしまいます。

 無論、これはあくまでも日本の1960年代を通してみられた「青春の終焉」の様々な姿を描くことに主意がある訳ですから、あたかも、かの『水滸伝』*のように、いつの間にか途中で主役、焦点人物が変わったとしてもおかしくはない、むしろ意図された姿である、と言ってもいい訳ですが、何やら呆気ない退場の仕方です。

 とりわけ、本書で、ほぼ最後に登場するのは、以前もご紹介した講演の話ですが、小林が実際の講演では笑いを取りにいるのに対して、それを文章に起こす際に徹底的に手を入れて、その「笑い」の要素を消し去ってしまったことに限界を指摘するということで終わっています。

[コラム]~方法的水滸伝~

 

コラム tea for one

 

~方法的水滸伝~

 

  『水滸伝』て読んだことありますか? 面白いですよ。横山光輝の漫画版もあるので未読の方はぜひ読んでみてください。で、この『水滸伝』は、話が後半に行くに連れて、一応、梁山泊の首領たる宋江が主人公ぽくなってはきますが、中盤ぐらいまでは、主役に当たる人物がリレーするように引き継いでいくのですが、――「生物生存機械論」ていうのがあるんですが、リチャード・ドーキンスて言う人が『利己的な遺伝子』(1976年/日髙敏隆・岸由二・羽田節子・垂水雄二訳・40周年記念・2018年・紀伊國屋書店)というめっちゃ有名な本で唱えたんですけど、つまり我々生物が主体だと思っているかも知れないが、そうではなくて遺伝子が実は生存の主体であって、われわれ生き物はその遺伝子を運ぶための単なる乗り物に過ぎない、ていうんです。これの真偽は分かりませんが、まー、仮にそうだとしても、われわれが現実に生きている場で、具体的生きるという現場で、あるいは劇場で様々なドラマを生み出していることは間違いないわけですから、別に困らないけど、とか思いましたが、それと同じように『水滸伝』も物語の遺伝子は確かにあるんでしょうが、現場の配役はどんどんと変わっていくんですね。むろん、全く違和感なく。あとで、そういえばあいつはどうしたんだろう、なんて思うことはありますけどね。でもって、三浦さんの長篇3部作はこれと似ていて、各回で変わる訳ではありませんが、前回までの内容を引き継いで、しばらくすると主役や準主役が変わっていくという形を取っています。とても体系的とは言えませんが、むしろ、非体系的に長文を書くとなるとこういう技を編み出さざるを得なかったのではないかと思う次第です。これをわたしは「方法的水滸伝」と密かに呼んでいます。とてもガチの批評ではこんな用語は使えないんですが(笑)。

 

📓

 

 先に述べた「三角関係」の問題についても、小林の或る意味超絶した、つまり世間離れした自意識を照らし出しはしますが、果たして「青春」の典型と言えるかどうか、いささか疑問に感ずるところではあります。

 では、小林秀雄問題は解決したか?

 そもそも三浦さんにとっては解決済みであるはずの問題ですから、解決したも何もあるはずがありません。

 しかし、われわれの持つ問題の所在からすると、いささかも解決されず、やり過ごされただけだと言わざるを得ません。

 

9 「孤独の発明」本篇の中の小林秀雄

 

1 「孤独の発明」本篇の構造

 

 「孤独の発明」本篇及び、続篇にあたる『孤独の発明 または言語の政治学』成立の経緯については別途、第6章で述べました。ここでは、そこに登場する小林を中心に、一緒に考えていきたいと思います。

 「孤独の発明」本篇は文芸誌『群像』に2010年1月号から2011年6月まで合計17回に渡って連載され、中断ではなく、終了することが明記されているにも関わらず、連載終了後10年にもなるが、未だ単行本として上梓されていない、いわくつきの長篇評論です。

 ここでは基本的には小林秀雄の問題を主として考えていきます。

 連載されたままで、本来であれば未定稿ということになるかと思いますが、やはり内容が錯綜したり、順番に問題があったりします。

一旦整理のために連載中、各回の見出しと、それぞれの回で主として取り上げられている人々の名前を挙げてみます。

 

 

【資料 「孤独の発明」本篇の見出しと取り上げられている主要な人物名】

 

1 「小林秀雄と柳田国男」……小林秀雄・柳田国男

2 「幽霊たち(上)」……小林秀雄・三木清・ドストエフスキー

3 「幽霊たち(下)」……小林秀雄・ドストエフスキー・柳田国男

4 「幽霊の孤独(上)」……中原中也・小林秀雄

5 「幽霊の孤独(下)」……中原中也・小林秀雄・チェーホフ・宮澤賢治・ベルクソン

6 「凝視と放心」……小林秀雄

7 「言語の魔術」……小林秀雄、大江健三郎、ブリス・パラン、ジャン・カヴァイエス

8 「孤独と無限」……小林秀雄、朝永振一郎、アンリ・ポアンカレ、ハイデガー、デリダ、パスカル、吉本隆明 

9 「私と零と無限」……谷川俊太郎、川上弘美、樋口一葉、宇野千代、小林秀雄、三島由紀夫、古井由吉

10 「狂気と恍惚」……ウェーバー、小林秀雄、大江健三郎、ブリス・パラン、

11 「孤独と他者」……レヴィナス、ダヴォス討論(カッシラ―vs.ハイデガー)、木田元、フッサール、ハイデガー、デリダ

12 「理性と彼岸」……木田元、丸山眞男、小林秀雄、岡潔、カント『視霊者の夢』、カッシラ―、

13 「言語的現実」……カッシラ―、小堀桂一郎、デリダ、オースティン、サール

14 「人称の磁場」……寺田透、吉本、サール、吉本ばなな、安部公房、津島佑子

15 「言語の視線」……吉本ばなな、安部公房、津島佑子

16 「再生すること」……大江健三郎、大岡信、中島敦、柳田国男

17 「言語は欲望する」……柳田国男、白川静、宮崎市定、伊藤整

最終回(18) 「現在という謎」……伊藤整、丸谷才一、黒井千次、漱石、ドゥルーズ

 

 これを見る限り、連載第1回の最初から小林は主役として登場し、全く無関係だったのが、全17回のうち7回ほどあるに過ぎません。ほぼ過半は小林秀雄論と考えても間違いないです。切れ目を見てみると第11回から、カッシラ―vs.ハイデガーによる「ダヴォス討論」の話題を中心に哲学的議論が進行するが、第14回からは日本の現代文学の話題に転換して、そのまま終結へ進む。したがって、おおよその見取り図的には以下のようになります。

 

① 小林秀雄・中原中也・柳田国男に見られる「凝視と放心」

 

② 小林のパラン評価に始まる現代哲学から見た「凝視と放心」理論の意味

 

③ 現代日本小説に見られる冥界譚

 

ですが、ことの発端と主題の深化という意味では、③を最初に持ってくることで、話としてはすっきりするのかなとは思います。つまり、こうです。

 

1 現代日本小説に見られる冥界譚

 

2 小林秀雄・中原中也・柳田国男に見られる「凝視と放心」

 

3 小林のパラン評価に始まる現代哲学から見た「凝視と放心」理論の意味

 

 

 そう考えると、実際に身近で手に取ることができる現代の日本文学を入り口にして、ま、出口でもある訳なので、最後にこれが来ている訳だが、残りはほとんど小林を巡る物語、――まさに物語である、に他ならない訳ですね。

 

2 「孤独の発明」という題名

 

 ちなみに題名の「孤独の発明」なんですけど、これは「看板に偽りあり」ではありませんが、少なくとも本篇には、なぜかそれらしいことは書かれていません。ご自身が後に名付けたように「彼岸の論理」と言ったところが妥当なところかとは思います。つまり「孤独の発明  または彼岸の論理」*となるべきですが、むしろ、「小林秀雄 または彼岸の論理」とでもすべきでしょうが、ちょと分からないのですが、三浦さんは、もしかしたら「小林秀雄」という書題を避けたい、というか、必ずしも小林をターゲットにして論じたい訳ではなく、もっと大きな問題を論じたいのだ、という意識があったのかも知れません。

 でもこのように三浦さんは小林について微に入り細に入り、それはまー事細かに論じているのです。一体どういうことでしょうか。

 

*一般的には、書題の主題と副題の書き方は「:」でつなぐか「――」でつなぐかのどちらかですが、一マス空けのこの表記は三浦さん自身の表記法によります。

 

 三浦さんにとって、三浦さん自身が言うように、この「孤独の発明」というテーマは重要だということですが、したがって、これを収拾すべく完結篇たる『言語の政治学』が書かれたのですが、これはこれで、内容、構成などでいささか問題があり、やはり額面通りという訳にはいかなかったのです。なかなか人生難しいですね。

 さらにちなみに「孤独の発明」ですが、言うまでもなく、普通に読書をしている人たちは現代アメリカの作家・ポール・オースターの最初に書かれた小説『孤独の発明』1982年/柴田元幸訳・1991年・新潮社)を容易に想起すると思いますが、本篇にも続篇にもそれについて一言も触れられていません。

 もちろん、三浦さんがこの小説を読んでないはずはなく、実際問題、『村上春樹と柴田元幸ともう一つのアメリカ』には軽く言及されているので、たまたま、タイミングの問題なのか、あるいは何か理由があるのか分かりませんが、そういうことになっています。

 また、本篇第2章・第3章は「幽霊たち」と見出しが付けられていますが、これまたポール・オースターの小説(1986年/柴田元幸訳・1989年・新潮社)が最初に日本に紹介されたものですが、それについても特に言及はありません。

 オースターについての言及がないことの理由は今のところちょっと見当がつきません。――うん、何故でしょうね。

 それはさておき。

 つまり、わたしが思うには要するに、この二作品は、以前ご紹介した講演「言葉と死」を詳細に論じたものです。本篇が「彼岸」つまり「死」を、続篇が文字通り「言葉」を論じたもので、更に言えば、結局のところ、講演「言葉と死」がそうであったように、この二作品は「自分が死ぬということ」の解決篇、完結篇に他ならない訳です。したがって、「孤独」について書こうとした筆者、三浦さんの意図、意識を超えて、これらの「言葉と死」というテーマが意図せざる形で水面下から浮上したのではないかと、勝手に推測しています。

 

3 ことの発端

 

 この「幽霊系」問題の、正確なことの発端はちょっと分かりませんが、わたしが知りえた限りでは、先にも挙げた『村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ』です。恐らく同時期に、あるいはこれに先行する時期に書評などで言及されているかも知れませんが、そこは悪しからず。例えば、川上弘美さんの長篇小説『真鶴』2009年・文春文庫/原著・2006年・文藝春秋)の「解説」には明確に幽霊の話が出てきます。

 要するにこうです。これは「孤独の発明」本篇はそこから始まりますが、村上春樹は何故、こんなに人気があるのか、という問題です。

 村上春樹は世界中で多くの読者を獲得しているのは、何故でしょう? 皆さん、なぜだと思いますか? 実はこれ、春樹さんだけではなくて、後続日本の作家たち、とりわけ女性の書き手ですね、彼女/彼らも、少なくない作品群が翻訳されるようになったということもありますし、その日本語の小説の翻訳への道を地道に開拓したのも春樹さんなのですが、いずれにしても少なからぬ日本人作家が世界市場で、世界の読書界で人気を勝ち得ています。

 かつては「W村上」とも言われましたが*、――龍と春樹ですね、もうそんな時代はとっくのとうに過ぎ去り、今や、なぜか誰もそんなこと言ってませんが、「W川上」の時代となっています。川上弘美さんと川上未映子さんですね。あるいは時代を遡らせると、当然、吉本ばなな(よしもとばなな)さん、小川洋子さん、あるいはもっと遡らせれば、先年亡くなった津島佑子さんとか、ちょっと系譜は異なりますが、というか異なり過ぎますが水村美苗さんなどの名前が次から次へと浮かんできます。

 

*なぜこの当時「W村上」がすんなり通用して、最近なぜ言わないのかというと、これはれっきとした理由があります。この当時、1980年代ですが、かの世界的ハンバーガー・チェインである「マクドナルド」社が、今まで一枚だったハンバーグ・パテをなんと2枚に増強して、「Wバーガー」、そしてチーズも2枚挟んじゃうよっていうのが「Wチーズ・バーガー」ていう画期的な商品を販売し始めた訳です。そんな訳で、世間的に「Wなんとか」というのは大変通りが良かったんですね。

 ――、って言うのは全くの嘘で、この当時、都市で快適な生活を営む男女の若者たちを主役に据えた「トレンディー・ドラマ」というテレヴィジョン・ドラマが人気を博していて、そこにしばしば登場した浅野裕子と浅野温子あつこという二人の人気俳優がいました。彼女たちを指して「W浅野」と呼んだことが背景としてあると考えられます。

 

 ちなみに津島さんは、かの太宰治の娘さんです。でさらにどうでもいいですが、その娘さんが石原燃さんです。太宰は芥川賞は欲しくて欲しくて仕方なく、選考委員の川端康成に難癖を付けたことで有名ですが、佑子さんも残念ながら芥川賞にはノミネートはされましたが、受賞には至りませんでした。で、石原さんも、2020年、「文學界」に発表した小説デビュー作『赤い砂を蹴る』(2020年・文藝春秋)が第163回芥川賞候補作としてノミネートされましたが、惜しくも受賞には至りませんでした。うん、残念。このように三代以上続いた文学一家として、他には幸田露伴一族があります。『五重塔』(1892)の人ね、娘・幸田文は随筆家・作家、孫・青木玉は随筆家、曾孫(ひまご)、ヒマーゴ、カフェ・ドゥマーゴ・青木奈緒、――さんは作家・随筆家です。凄いですね。凄いけど、全く関係なかったね。ハハ(笑)。

 で、話を戻しますが、なぜ人気があるのか?

 分かりましたか?

  もちろん、正解がある訳ではないんですが、三浦さんによると、それは「幽霊」の話、言い換えれば、「冥界下降譚」になっているからだ、というのです。「冥界」というのは「あの世」、「彼岸」、「死後の世界」、「死者の世界」……、どう言っても構わないのですが、いずれにしても「現実世界」、「この世界」、「この世」とは違う世界と関わる、そういう物語の構成になっています。

 一旦、村上春樹の作品に限定しますが、村上さんの作品を読んだことがある人は当然、あ、あれね、という具合にご理解いただけると思いますが、それはデビュー作『風の歌を聴け』から最新長篇の『騎士団長殺し』に至るまで同様です。

 村上さんの長篇作品はほぼ全て二重構造になっていて、何らかの形で向こう側、有体に言えば「死者の世界」と絡むようになっています。

 『羊をめぐる冒険』では、北海道にある、親友「鼠」の別荘を訪れますが、既にして「鼠」は死んでいました。

 完全なリアルな小説とされた『ノルウェイの森』でも、直子が入寮している「阿美寮」は死者の世界を思わせます。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は文字通り、主人公の意識の世界である「世界の終わり」は永久に続く、――ということは永久に死なない不死の世界であるような「死の世界」です。

 挙げていけば切りがないので止めますが、ことほどさように「死者」、「幽霊」、「霊的なもの」が頻出しています。

 そのことの何が人々の心を引きつけるのでしょうか。

 それは、――、ここ重要です、試験に出ます、嘘です、出ません、出ませんが、皆さんの人生にとって重要です、それは、

「この世」に意味がないからです。

皆さんの人生には全く意味がないからです。「神も仏もあるものか」とか言いますが、全くこの世には神様も仏様もいらっしゃらないのです。そう思いません? 

 でも、たいていの人は今時そんなことを真面目に考えたり、悩んだりしないじゃないですか。だって、そんなことをしていたら、誰も真面目に、真面目じゃなくてもいいんだけど、学校に行ったり、会社に行ったりできなくなっちゃいますよね。だから、みんな、基本的にはそこは、マンホールぐらい重い蓋をして、なかったことにしてるんじゃないですか。

 でも、生きてると、体もそうですが、心のどこかが疲れてきますよね。

 すると映画を観たり、小説を読んだり、音楽や芸術作品を鑑賞する訳ですが、先ほど言った理論からすると誤魔化しもいいとこなんですが、でもわれわれは、本来存在しないはずの非現実的な、あるいは反現実的な、あるいは半現実的な世界に触れて、そこから価値を吸い出してきているのだと思います。

 価値の問題はちょっとめんどくさいのですが、価値はそれ自体で価値があるとは言えないですよね。だって、皆さんが仮に、歌を歌ったとする。皆さんはジャイアンとは違うので、自分では上手いかなと思っても、なかなか、それに自足、自分で満足できる人はいませんよね、でも、一緒にカラオケに行った友人から歌、うめーじゃん、て言われたり、カラオケ採点機で高得点をマークしたりすれば、あ、やっぱあたし歌上手いんだ、今度YouTubeにアップしよ、とか思っちゃったりする訳です。

 他人から、他者から言われないと、その人の、その世界の価値は分からないものです。

 つまり、われわれは本来無意味な、無価値な世界に生きざるを得ないのですが、そのこと自体に少なくとも人間は耐えられないようにできている。そこで、この世界とは異なる世界、これも本来存在しないのですが、その世界と触れることでわれわれは自らの意味、価値を感受して生きるよすがにしている訳です。

 無論、この世界に意味がないことに、人間が耐えられないのも、また、本来あるはずもない「あの世」を想像/創造してしまうのも、ひとえに人間が言語を持ち得たからだ、そして、人間が本来ないはずの「死」を恐れるのも、やはり、人間が言語を持ってしまったが故なのだ、ということになります。

 この内容が、講演「言葉と死」に圧縮されて説明されています。

 で、この節の冒頭に戻りますが、『村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ』の「もう一つのアメリカ」ですが、以上のように見てくると、何となくお分かり頂けると思いますが、「異界」、この世とは異なる「彼岸の世界」、言うなれば「死者の世界」ということになります。

 つまり、村上さんや柴田さんがコツコツと翻訳を続けてきたアメリカ文学、主として小説ですね、その世界を指しています。

 

4 「孤独の発明」本篇の3つの柱

 

 さて、いよいよ本題、「孤独の発明」本篇です。つーか、何万年かかっとんじゃ! と、お怒りの方もいらっしゃるとは思いますが、まーそこは平にご容赦を。

 先にもお話ししたように、この論考は、後付けにはなりますが、およそ、3つの柱が立っています。

 

1 現代日本小説に見られる冥界譚

 

2 小林秀雄・中原中也・柳田国男に見られる「凝視と放心」

 

3 小林のパラン評価に始まる現代哲学から見た「凝視と放心」理論の意味

 

 したがって、後に筆者である三浦さん本人が「孤独の発明 または彼岸の論理」としたように、「彼岸」、つまり「あの世」ですね、日本近現代文学における「あの世」考、と言った感じでしょうか。

 順番から言えば、こうなるでしょうか。

 

 ① 最近やたらと「あの世」とか、「あの世」っぽい小説を書く作家が増えてきたなー。村上春樹なんかが世界で広く読まれているのも、そこに理由があるぞ。……これが現代日本文学、まー小説ですが、の側面です。

 ② で、そういえば、これは、今に始まったことじゃないぞ。小林や柳田、あるいは中也だって、「あの世」のことをマジで書いてるじゃん。――、あの、もちろん、三浦さんがこんなしゃべり方をしてる訳ないからね、一応言っとくけど。……これが、まー近代日本文学の側面で、ここがメイン・イヴェントです、わたし的には*

 

*このパターンで言うと、じゃあ、近代以前はどうなんだ、むしろこの「あの世」を作品の根幹に持つのは古代からの日本文学の伝統ではないのか、オリンピック的に言うと「お家芸」ってやつですか、つまり「あの世」こそ、古来よりの日本文学の伝統だということになります。この問題は続篇たる『言語の政治学』に引継がれて詳論されています。

 

 ③ じゃあ、一体、この「あの世」問題つーのは何なんだ、とりわけ、小林の視界はどの辺りまで伸びていたのか、ベルクソンではやっちまったけど、宣長もなんかダメじゃんとかいう奴は多いんだけど、意外にも小林の哲学的な視界はけっこう来てるぞ! ……ここがこの「あの世」理論を現代、――ちょっと前かな? ちょっと古いとか馬鹿にするかも知れないがちょっと前の現代哲学で考え直したぜ、という訳です。

 再三に渡って繰り返しますが、ここではあくまでも小林の側にたって考えていきます。 

 で、ですね、ちらっと見ただけでも結構面白そうだし、なんだか、やばい感じになってますよね。なんで、これの出版を三浦さんが渋っているのか、いささかならず納得できないんですね。

 もうね、謎! というしかない。恐らく、前にも言ったかも知れませんが、もしきちんと完成していたら、三浦さんにとっても最高傑作になるのでなかろうかと愚考する次第です。

 では、②と③に絞って、簡単に、――とか言って、簡単に終わったためしがないが、内容を見ていきましょう。

 

5 「幽霊」体験

 

 小林秀雄における「あの世」、「幽霊」と言えば、誰しも想起するのは中絶したベルクソン論「感想」に登場する小林の死んだ「おっかさん」が巨大な螢*になって現れる、という場面です。

 

*話がウルトラ逸れますが、この螢が霊魂だとすると、かの村上春樹の『ノルウェイの森』の初期形は「螢」ですが、それも霊魂、――この場合はその表徴ということも、突然浮かんできますね。余談です。

 

 この「感想」は、先にもお話ししたように、雑誌『新潮』に発表された切りで、単行本としては刊行されていない訳ですから、このエピソードが広く知れ渡っているというのも、なにやら謎めいていますね。

 ちょっと見てみましょう。ベルクソン論「感想」の冒頭、第2段落の例の、霊の部分です。行きます。

 

 母が死んだ數日後の或る日、妙な經驗をした。誰にも話したくはなかったし、話した事はない。尤も、妙な氣分が續いてやり切れず、「或る童話的經驗」といふ題を思ひ附いて、よほど書いてみようと考へた事はある。今は、たゞ簡單に事實を記する。佛に上げる鑞燭を切らしたのに気附き、買ひに出かけた。私の家は、扇ヶ谷の奥にあつて、家の前の道に添うて小川が流れてゐた。もう夕暮であった。門を出ると、行手に螢が一匹飛んでゐるのを見た。この邊りには、毎年螢をよく見掛けるのだが、その年は初めて見る螢だつた。今まで見た事もない樣な大ぶりのもので、見事に光つてゐた。おつかさんは、今は螢になつてゐる、と私はふと思つた。螢の飛ぶ後をきながら、私は、もうその考へから逃れる事が出來なかつた。ところで、無論、讀者は、私の感傷を一笑に附する事が出來るのだが、そんな事なら、私自身にも出來る事なのである。だが、困つた事がある。實を言へば、私は事實を少しも正確には書いてゐないのである。私は、その時、これは今年初めて見る螢だとか、普通とは異って實によく光るとか、そんな事を少しも考へはしなかつた。私は、後になって、幾度か反省してみたが、その時の私には、反省的な心の動きは少しもなかつた。おつかさんが螢になつたとさへ考へはしなかつた。何も彼も當り前であつた。從つて、當り前だつた事を常り前に正直に書けば、門を出ると、おつかさんといふ螢が飛んでゐた、と書く事になる。つまり、童話を書く事になる。後になって、私が、「或る童話的經驗」といふ題を思ひ附いた所以である。(小林秀雄「感想」/『小林秀雄 百年のヒント――生誕百年記念「新潮」四月臨時増刊』2001年・新潮社・p.p.16-17から援引)

 

 という訳なのです。つまり、何が言いたいのかと言うと、小林はマジでおっかさんの幽霊が螢になって現れたのだ、とマジで、繰り返しますが、思っているのです。恐らく自然にそう思っているのです。

 これは例の「信ずることと知ること」の冒頭に登場するユリ・ゲラーという超能力を持つ青年もこともなげに事実だと、小林は思っているのです。恐らく小林はユリ・ゲラー本人はともかく超能力的なものの実在は強く信じていたのだと思います。

 幽霊っていますかね? 超能力はどうですか? ユリ・ゲラーは壊れていた時計を動かす、というのとスプーンを曲げるという、一体それをしてどうなる? というような超能力をテレヴィジョンで披露していました。まだご存命です。

 まー、どこに境界を引くのか、結構難しい問題ですが、いずれにせよ、仮にここが小林の、実は本拠地であるとすれば、「自意識の迷路」など、まさに単なる「表面」的な、「表層」的な、もう少し強く言えば「上っ面」だけの問題に過ぎない、ということになります。 

 ただ、その意味でも、小林の幽霊への実在感と三浦さんが考えている、現代作家に見られるような幽霊の重要性は、その意味でも、いささか位相を異にしている気がします。

 三浦さんは言葉が重要だとします。言葉があるが故に、人間だけが自らの死を恐れ、死後の世界を想像/創造し、幽霊をも召喚しますが、その現代的な表れが小説に出ているのだという考えです。

 とすれば、死後の世界も幽霊も人間が生きるために言葉を作り、その言葉によって仮構されたものに他ならない訳です。つまり実際に存在している訳ではない。

 ここ、明確に違いますよね。もしかしたら小林がこの三浦さんの話を聞いたら、いや、それは浅薄な考えだなあ、と一蹴したかも知れません。――かも知れない、という話です。

 でも先を急がずに、三浦さんの本文に戻りましょう。

 「孤独の発明」本篇、連載第一回、冒頭の第1章は前振りで、村上春樹は何故人気があるのかという話から現代日本文学の「冥界下降譚」の話。

 第2章。ここでも、というより本連載において、無類の力を発揮するのが、再三に渡ってご指摘してきた、三浦さんの「同時代的資料読解法」だが、すべてをご紹介する訳にはいかぬが、最初だけ。

 いまとなっては誰も知らない(?)『文藝通信』の無署名コラムから話が始まっています。『文藝通信』は、字面からなんとなくそんな感じもするが文藝春秋社から刊行されていた小冊子です。よくもまあ、こんな冊子を探してきたものだと感嘆せざるを得ません。驚嘆と言ってもいいぐらいです。題名は「芥川龍之介二態」。芥川と小林、もう一つは芥川と深田久弥とのエピソードが書かれているらしいです。深田久弥は『日本百名山』1964年・新潮社)の人ですね。

 小林が恐らくたった一回だけ芥川の書斎を訪れた際の話です。多分、そのとき同席していた誰かが書いたものと思われます。このとき、小林はまだ旧制一高の学生だったとあります。今の都立日比谷高校ですね。

 

 小林秀雄は左手を懐手にして、あんまり面白くもなささうにその話*を聞いてゐるといきなり芥川龍之介が振り向いて、三角形の眼で真正面に小林を凝視みつめながら、

「君は、神様を信じてゐますか?

 と、訊いた。

 この時の小林秀雄の返答ははつきりしないが、 

「僕も君位の年には、神様を信じてゐたがね」

 と、どうやら少し詠嘆的に、芥川龍之介が喋ったところをみると、小林秀雄は、神様を信じてゐるといったものらしい。(無署名「芥川龍之介二態」/『文藝通信』1934年3月号/三浦「孤独の発明」本篇・1・p.275から援引)

 

*再引用者註。良寛の掛け軸の真偽の話。

 

 で、この後、宣教師が船の甲板から小用をしているとき、そこから落ちて溺れ死んだ話を芥川が話して聞かせる。

 

 会話はそれから幽霊の話に進んで、芥川龍之介は外国の本で読んだ珍しい怪談を二つ三つ話した。だが話手は話の芸術的感興を巧みに盛り上げるだけで、話の真偽は、良寛和尚の筆跡のやうには問題にしなかつた。すると小林秀雄が、右肩を切り落すやうに前に下げて、彼の母が見たといふ幽霊の話を始めた。芥川龍之介の話し方は、立板に水といふ形容の相応はしい、知らず識らず相手をその声の中に包むやうな調子だが、小林秀雄は、鋭い声で相手にかかはらず話を刻み込む独り言のやうな話し方なので、座は忽ち幽霊話に相応しい森としたものになつた。小林秀雄の話した幽霊の話といふのは夏蚊帳の中で、彼の母が亡くなつた夫の姿を見るといふやうな、至極平凡な話だつたが、話手までが、彼の母のやうに確然と幽霊の実在を信じてゐるやうな調子で、どうやら小便の為に溺れた宣教師も、幽霊になり得る可能性を証明してゐるやうな具合であつた。小林秀雄はそれから帰るまで、黙つてバツトを喫のんでゐた。(無署名「芥川龍之介二態」/『文藝通信』1934年3月号/三浦「孤独の発明」本篇・1・p.p.275-276から援引)

 

 という次第で若年の頃から、明らかに小林は霊的存在に関心を持っていたのである。という具合に様々な文献や資料を駆使してこの連載は展開していきます。ちなみに最後に出てくる「バツト」、「バット」ですが「ゴールデン・バット」という煙草の銘柄のことです。安価な大衆向け製品でしたが、芥川や太宰、中也、あるいは南方熊楠など文学者にも愛好者がいて、作品にも登場しています。

 

6 「忘我」体験

 

 まずこような霊的体験から入っていきますが、途中、三木清とのエピソードも大変面白いのですが、ここは話が逸れるので省略します。

 じゃあ、何故、小林はこともなげに幽霊の実在を信じたのか、ま、小林がそう思ったのですから仕方ないのですが、結局は自身に同種の、つまり霊的な、といったら語弊がありますが、言うなればこの世ならぬ世界と大変近しい関係にあったということです。それを三浦さんは漱石の忘我体験とドストエフスキーのそれから読み解いていきます。

 小林とドストエフスキーの関係は言うまでもない訳ですが*、漱石はどうなんだ、ということになりますが、無論、小林は漱石について頑なに口を閉ざしてきました。その意味については先に述べた通りです。いずれにしても、小林―ドストエフスキー―漱石とくれば、三題噺のようですが、日本の文学愛好家たちの御馳走フルコースです、いや違うな、フルコースではなくて、ステーキ、寿司、鰻重、みたいなもんですか。これ、いっぺんに食べたらお互いに殺し合いますよね。そういうレヴェルでのお話しです。

 

*小林は思い付きのように散発的にドストエフスキーを論じています。旧判の全集の言い方で言うと、伝記的な側面に絞った『ドストエフスキーの生活』と、各個の作品論である『ドストエフスキーの作品』ですが、現行の全集では、とりわけ後者については初出順でバラバラに収録されています。以前は全部まとめた『ドストエフスキイ全論考』(1981年・講談社)というのが出ていました。また『生活』の方も新潮文庫に入っていましたが、どうも絶版のようで、いずれも古書店か図書館を探してください。『全論考』についてはぜひ、もともとの版元である講談社から文芸文庫で出してもらいたいものです。

 参考までに、この、小林にとってのドストエフスキーの意味については、種々論考が書かれていますが、文芸評論家の山城むつみさんの、――ちなみに男性です、『小林秀雄とその戦争の時――『ドストエフスキイの文学』の空白』(2014年・新潮社)が大変参考になります。

 

まず漱石の「硝子戸の(うち)」、第39章から引用します。

 

 私の冥想は何時迄坐つてゐても結晶しなかつた。筆をとつて書かうとすれば、書く種は無尽蔵にあるやうな心持もするし、彼にしようか、是にしようかと迷ひ出すと、もう何を書いても詰らないのだといふ呑気な考も起つてきた。しばらく其所で佇ずんでゐるうちに、今度は今迄書いた事が全く無意味のやうに思はれ出した。何故あんなものを書いたのだらうといふ矛盾が私を嘲弄し始めた。有難い事に私の神経は静まつてゐた。此嘲弄の上に乗つてふわ\/と高い冥想の領分に上つて行くのが自分には大変な愉快になつた自分の馬鹿な性質を、雲の上から見下して笑ひたくなつた私は、自分で自分を軽蔑する気分に揺られながら、揺籃の中で眠る小供に過ぎない (夏目漱石「硝子戸の中」/三浦「孤独の発明」本篇・2・p.p.316317から援引。傍線再引用者)

 

 

大部アブナイ人のようにも思えますが、愚かな自身を雲の上から見つめて「揺籃の中で眠る小供に過ぎない」と言ってますね。

 

 然し私自身は今其不快の上に跨がつて、 一般の人類をひろく見渡しながら微笑してゐるのである。今迄詰らない事を書いた自分をも、同じ眼で見渡して、恰もそれが他人であつたかの感を抱きつゝ、矢張り微笑してゐるのである。(夏目漱石「硝子戸の中」/三浦「孤独の発明」本篇・2・p.317から援引。傍線再引用者)

 

三浦さんは、この最後の「一般の人類をひろく見渡しながら微笑して」という記述に注目して「神秘体験とさえ言っていいように思われる。記述が比喩でも寓意でもない、生々しい体験そのものを描いているように見えるからだ。」(三浦「孤独の発明」本篇・2 ・p.317としています。どうですか。まだぴんと来ませんね。

 

 これに続けて、「きわめて似ていると思われる記述」としてドストエフスキー「ペテルブルグの夢――詩と散文」を、――さあ、ここがポイントです、小林の「『白痴』について Ⅰ」から引用しています。

 

遂に、この国土は、頼りないものであるにしろないにしろ、その悉くの住民とともに、凡ての住居、乞食の巣窟も輝やく宮殿も引きくるめて、みな幻の様な不思議な夢に過ぎない、青黒い空指して、蒸気のうちに溶けて消えて行く夢かとも思はれた。突然或る奇妙な観念が私のなかに目覚めた。私は慄然とした。心臓は沸き立つ血潮にあふれ震へ、血潮は今まで知らなかつた途轍もない感情の大波のやうに身内にうねつた。この瞬間、私の心は何かを今まで心の奥に漠とした前兆としてかくれてゐた何かを認識した様な気がした。今まで知らなかつた、たゞわづかに朧ろげなヒントにより、神秘的な表象によつて思ひめぐらしてゐた新しい世界を、私の眼が貫いた様な気がした。この時以来自分の真の生存がはじまったのだと私は考へてゐる……(ドストエフスキー「ペテルブルグの夢――詩と散文」 /小林「『白痴』について Ⅰ」/三浦「孤独の発明」本篇・2・p.317から援引 p.317

 

 さらに「『罪と罰』についてⅠ」と「『罪と罰』についてⅡ」からです。

 ほぼ同じ内容を書いています。これが「Ⅰ」。

 

「彼は二十コペイカ(乞食と間違へられて彼がもらったもの――小林註)銀貨を手に握りしめて、十歩ばかり歩いてから、顔をネヴァ河の方へ、宮殿のある方へと向けた。空には一片の雲もなく、水はネヴァ河には珍しく、殆どコバルト色をしてゐた。(中略――三浦註)この壮麗なパノラマからは、いつもきまつて、何んとも言へぬ冷気が、彼の心へ吹き込んで来た。彼にとつては、この荘厳な光景、唖で聾なある精神に充たされてゐた(傍点三浦)……その度に、彼はこの気むづかしく謎めいた自分の印象に驚いて、自分で自分を信ずる事が出来ないまゝに、その解決をば、遠い未来へ預けて置いたものである。ところが今彼は急に、是等の古い問題と疑惑とをはつきり想ひ起した。そして彼には自分が今それを思ひ出したのも、決して偶然でないやうな気がした。(中略――三浦註)彼は一寸笑ひたいやうな気もしたが、同時にまた痛い程胸を圧しつけられた。何処か深い水底に、下の方に、やつと見える位の彼の足許に、今やすべての過去の俤おもかげも、以前の思想も、以前の問題も、以前の題目も、以前の印象も、これ等のパノラマも、彼自身も、この他ありとあらゆる物が、見えつ隠れつしてゐるやうに思はれたのである。……彼は何んだか自分が何処か高い所へ飛び去つて、すべてがその眼界から消えて了つたやうな気もした。(後略――三浦註)」(小林「『罪と罰』についてⅠ」/三浦「孤独の発明」本篇・3・p.243から援引)

 

これが「Ⅱ」です。

 

「彼は二十コペイカの銀貨を掌に握りしめて、十歩ほど歩いてから、宮殿の見えるネヴァ河の流れへ顔を向けた。空には一片の雲もなく、水はコバルト色をしてゐた。それはネヴァ河としては珍らしい事だつた。(中略――三浦註)いつもこの壮麗なパノラマが、何んとも言へぬうそ寒さを吹きつけて来るのであつた。彼にとつては、この華やかな画面が、口もなければ耳もないやうな、一種の鬼気に充ちてゐるのであつた(傍点三浦)彼はその都度われ乍ら、この執拗な謎めかしい印象に一驚を喫した。そして自分で自分が信じられぬまゝに、この解釈を将来に残して置いた。ところが、今彼は急にかうした古い疑問と怪訝けげんの念を、はつきり思ひ起した。そして、今それを思ひ出したのも、偶然ではない気がした。(中略――三浦註)彼は殆ど可笑しいくらゐな気もしたが、同時に痛いほど胸が締めつけられるのであつた。どこか深いこの下の水底に、彼の足元に、かういふ過去の一切が――以前の思想も、以前の問題も、以前の印象も、目の前にあるパノラマ全体も、彼自身も、何も彼もが見え隠れに現れた様に感じられた……彼は自分が何処か遠い処へ飛んで行つて、凡百のものが見る見る中に消えて行くやうな気がした……(後略――三浦註)(小林「『罪と罰』についてⅡ」/三浦「孤独の発明」本篇・3・p.244から援引)

 

 元は、無論、同じ『罪と罰』です。同じ箇所ですが、翻訳、というのか文章の表現が違うの、分かりますか。三浦さんの推測によれば、「Ⅰ」は小林がフランス語訳を元に私訳したものかもしれない。「Ⅱ」は、基本的には、その頃出回っていた、三笠書房版『ドストエフスキー全集』の米川正夫訳に従っているようだと、これも推測しています。

 問題はなぜ、同じ個所の引用をするのに別の訳を用いたのか、というところです。翻訳が上手くなったのでしょうか。

 恐らく、小林は「Ⅱ」を執筆するに当たって「Ⅰ」を参照しなかったんではないか、つまり、

 

 いずれにせよ小林は、手近な訳を読み、要所についてはフランス語版を参照したのだと思われる。小林にとっては、『罪と罰』の該当箇所だけが問題なのであって、訳文は誤訳がない限り二の次であった。少なくとも、「『罪と罰』についてⅡ」を執筆するとき、自分の書いた「『罪と罰』についてⅠ」を参照しなかったことは疑いを入れない。一字一句にこだわっていない以上、訳を変える必要はない。にもかかわらず変えているのは、同じ問題を論じた自身の文章を読み返していないことを公言しているようなものだ。

 原稿を書いても本になってしまえば読み返さない、自分の書くものに不満を持ち、この次はこの次はという気がいつもあるので、終ってしまった仕事にはもう興味がないのだと、小林はあるところで述べている。文庫や全集に採録される際の文章へのこだわりはむしろ逆の事実を告げているようにも思われるが、本人の意識としては旧作は顧みないということだったのだろう。いずれにせよ明らかなのは、少なくとも「『罪と罰』についてⅡ」は、「『罪と罰』についてⅠ」の延長上に構想されたのではないということである。そうではなく、言ってみれば、何もかも忘れて、同じ相手にもう一度、真剣勝負を挑んでいるのである。前回、同じ箇所を同じように引用したことさえ忘れているように見える。(三浦「孤独の発明」本篇・3・ p.245

 

では、一体この事実は何を意味しているかということが問題です。

 

 その結果、小林のこだわりだけが浮き彫りになる。どういうこだわりか。引用のなかの傍点を付した部分がとくにそうだが、これはフッサールをはじめとする現象学者たちが現象学的還元を称した体験とほとんど同じである。要するに世界から意味が剥奪される瞬間の体験だ。意味が剥奪される瞬間というのは、むろん、意味が付与される瞬間と表裏である。これが小林のこだわっている場所なのだ。

 「この国土は、頼りないものであるにしろないにしろ、その悉くの住民とともに、凡ての住居、乞食の巣窟も輝やく宮殿も引きくるめて、みな幻の様な不思議な夢に過ぎない、青黒い空指して、蒸気のうちに溶けて消えて行く夢かとも思はれた」という、ドストエフスキー若年の体験は、手を替え品を替えしてその小説に繰り返し現われるが、それはまた意味が沸騰するように溢れ出る瞬間でもある。「彼の足元に、かういふ過去の一切が――以前の思想も、以前の問題も、以前の印象も、目の前にあるパノラマ全体も、彼自身も、何も彼もが見え隠れに現れた様に」感じられる瞬間なのだ。 (三浦「孤独の発明」本篇・3・ p.245

 

  小林のドストエフスキー論は、読んだことがある人は分かりますが、必ずしも、ドストエフスキーの作品そのものの解説になっている訳ではありません。本来であれば、というか批評の流儀にもよるでしょうが、その小説の持つ構造であったりとか、登場人物の関係の意味であったりとか、その批評を読んで、その当該の小説作品がよく分かる、あるいは未読の読者が、ああーそれなら読んでみたいとか思わせられればOK! なんじゃないかと思いますが、多分全くそういうことはない。言葉はよくないが、些末な、と思えるような箇所ににこだわって論が展開しているようにも思えます。

 それは、――もう何度も同じ話をしている気がしますが、小林が自身の経験を、たまたま、ドストエフスキーの作品に仮託して論じているからです。だから、極端に言うと「小説の良し悪し」(三浦「孤独の発明」本篇・3・ p.246は関係ないのです。

 つまりは、「小林はドストエフスキーのなかに自分の同類を見出したのである。」(三浦「孤独の発明」本篇・3・ p.246)、とこうなる訳です。それがいわゆる「神秘体験」に他ならない訳です。

 

7 時が消える

 

 では、この「神秘体験」とは一体何だったのでしょうか。

 ドストエフスキーは『死の家の記録』を書くときに、自らの『聖書』熟読という体験を隠したと、小林はしていますが、そのことによって、「時は消えるという事実」が明らかになったと小林はしています。

 

 「罪と罰」の終末で、作者は、ラスコオリニコフを、苦しい黙想の裡に、シベリヤの曠野に遣した。そして、時が歩みを止め、アブラハムの時代は、この最新式の殺人者にとつても過ぎ去つてはゐないと注意した。福音書が監獄で開かれた際も、時はやはり消えたであらう。これは単なる比喩ではない。もし時代を超えて直ちに過去に推参する詩人の直覚力がなかつたなら、古典とは何物であらうか。人間の心は自然に還り得る様に歴史にも還りのだ。(小林「『白痴』についてⅡ」/三浦「孤独の発明」本篇・3・p.250から援引。傍線部再引用者)

 

当然、これはドストエフスキーの癲癇の発作のときの感覚です。一種、この世とは異なる別種の世界の開顕とも言えます。

 

 ラスコーリニコフが「自分が何処か遠い処へ飛んで行つて、凡百のものが見る見る中に消えて行くやうな気がした」ように、自己とは飛翔するものなのだ。飛翔し、何かに取り憑くものなのだ。いや、自己とはむしろその取り憑き、すなわち憑依現象なのだと言っていい。自己とはひとつの関係であるとはそういうことである。

 私という現象は幽霊という現象と違ったものではない。そうでなければ、人間は幽霊という表象を発明しなかっただろう。かつては夢も幽霊も集団で見ていたのだと、柳田は述べている。だが、ある段階から人は、夢も幽霊も個人で見るようになった、と。 つまり、孤独になったのである。孤独を発明したのだ。(三浦「孤独の発明」本篇・3・ p.255

 

 では、この忘我体験、時が消える体験と、そもそもと幽霊問題はどうつながるのでしょうか。

 

8 放心と凝視

 

1 「いちぢくの葉」引用の謎 

 

 さて、いよいよ、ここに、影の主役とでも言ってよい、中原中也が登場します。影の主役ってとっても重要ですよね。

[コラム]~影の主人公/「影」~
中原中也氏


 






コラム tea for one

 

~影の主人公/「影」~

 

 「影の主人公」は、闇が深いというようなことも含意しつつーの「もう一人の主人公」ということです。漫画の『巨人の星』でも、主人公・星飛雄馬の大リーグボール1号、2号を打ち込んで飛雄馬をどん底に追いやる花形満という影の主人公の存在が極めて重要であることは言うまでもありません。――分かんないか? あるいは『科学忍者隊 ガッチャマン』のコンドルのジョーとかね。声がささきいさおさんで渋かったね。――あ、これは分かる?

 あと、『千と千尋の神隠し』。あれは主人公が二つのの名前を持っているということの重要性もさることながら、影の主人公という意味では顔なしですよね。顔なしの変貌の意味も重要だとは思いますが、話が逸れまくるので、今度別の機会に。

 年寄りがやっちゃいけない三つって「説教」と「自慢話」と「思い出話」らしいんですが、これヤバい奴ですかね? 

 もっと言えば「影」そのものが重要ですね。

 村上春樹さんの『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「世界の終り」に「僕」と切り離された、文字通り「影」が登場します。この場合は「自我」とか「自意識」とかの比喩として「影」が使われているのでしょうが(つまり、本体には強い「自我」がないのです。これ重要です)、やはり、この「影」なくしては、この物語は成立しません。

 そう言えば、村上さんが国際アンデルセン賞を受賞した時に、言及していたのは、アンデルセンの「影」という、童話というよりも寓話と言った方がいいでしょうが、結構ダークな作品です。柴田元幸さんが編集している文芸誌『MONKEY』のVol.112017年・Switch Publishing)に受賞スピーチとアンデルセンの「影」の両方収録されているので、図書館とかで探してみてください。それとは別に『影』は絵本としても出版されています(ハンス・クリスチャン・アンデルセン『影』1847年/長島要一訳・ジョン・シェリー画・2004年・評論社)。

 この問題については別稿(仮題)「影の履歴書」で触れる予定です。

📓

 

 

 

 正直、わたしは、これまで、中原中也という人間が、中也の詩がよく分かっていなかった、と言わざるを得ません。申し訳御座いませんでした、と緊急謝罪会見を開きたいぐらいです。三浦さんのこの連載を読んで、――実際、この連載では、さほど中也は登場する訳ではありません。せいぜい連載第4回、第5回と続く「幽霊の孤独」(上)・(下)の2回分ぐらいです。ですが、瞠目するとは、全くこういうことかと驚嘆しました。

 他の人はどう思うかわたしには分かりませんが、三浦さんの文章を読んでいると、まさに驚く、驚嘆する、驚倒するとでもいいような経験をすることがあります。

 皆さん、目ー悪いですか? コンタクト・レンズをしている人もいらっしゃるとは思いますが、――わたし、コンタクト駄目なんですよ、なんで、異物を人体の一部に、それも粘膜に入れられるんですかね。ちょっと謎なんですが、それはいいとして、目が悪い人は経験あると思いますが、最初に眼鏡をかけたり、コンタクト・レンズを入れたりしたときに、え! 世界ってこんなにクリアだったの? めっちゃ鮮明ジャン! くっきり、さっぱり、ヴィジュアルじゃん! て思った人が多いと思いますが、それと同じなんです。

 三浦さんの批評を読むと、世界の見え方が変わって、驚くのです。

つまり、今まで普通に見ていたと思い込んでいたものが、実は何も見ていなかったことに気づいてい驚くのです。

 小林の言葉に「諸君は未だいっぺんも海や薔薇をほんとうに見た事もないのだ」(小林秀雄「私の人生観」/三浦『青春の終焉』p.211から援引)というのがありますが、すぐれた批評は三浦さんに限らず、そういう側面を持っていると思います。

 

 さて、本題です。

 まず、1967年に刊行開始となった『中原中也全集』(全5巻別巻11967年~71年・角川書店)の「内容見本」に小林が「中原の詩」という短文を寄稿している。そこで、小林はこう書いている。

 

 中原のいゝ全集が出ると言ふ。何か書けと言はれて、詩集を読み返す。思ひ出が群がり起る。中原にも「思ひ出」といふ詩がある。いろいろ思ひ出を歌った末、「ぼんやり俯き、案じてゐれば、僕の胸さへ、波を打つのだ」と言ってお終ひにしてゐる。尤もな事だ、単純で真実な言葉だ、と私は思ふ。

 中原は、詩人でありながら、言葉による装飾といふものを、まるつきり知らなかつた。生きて行く意味を感じようと希ひ、その希ひだけに圧倒され、圧倒されていろいろな形を取る心を、その都度率直に写生した。それは、お手本の上に、薄紙を乗せ、お手本の輪郭をなぞる無心な子供の手つきに似てゐる。不思議な事だ。それが、天賦としか言ひやうのない彼の詩才であったとは。私の中原の思ひ出のなかには見付からず、現に、眼の前に、私が、それを見てゐるとは。(小林「中原の詩」/『中原中也全集』「内容見本」1967年/三浦「孤独の発明」本篇・4・p.p.305-306

 

 三浦さんは、小林は詩が分かってないんではないか*とどこかに書いていましたが、先ほども言ったように小説そのものの良し悪しは関係ない、と同じようなことだと言えます。

 

*「小林はランボーの詩集の訳者として名を馳せたが、ほんとうはまったく詩というものを理解していなかったのではないか」(三浦「孤独の発明」本篇・4・p.308

 

 つまり、三浦さんは、究極、小林は思想家なのだと、「小林秀雄論」*で書いていますが、人もあろうに、詩人である中也に対しても同じように見ていることが分かります。「言葉による装飾」など関係ないのです。「生きて行く意味」の「圧倒」的な強さだけが文学作品には問題なのだ、と言っているのです。個人的なことですが、この下りは涙なしには読めません、ああ、全くそうだな、と天を仰ぐしかありません。

 

*「小林秀雄は文芸評論家として生きたが、その作品は文学というよりはむしろ思想に属していたといってよい」(「小林秀雄論」/『小説という植民地』p.224

 

 

 しかしながら、結局これは「様々なる意匠」と同じことですから、小林は終始一貫しているのです。

 この引用の後、小林は中也の「いちぢくの葉」を引用しています。

 

夏の午前よ、いちぢくの葉よ、

葉は、乾いてゐる、ねむげな色をして

風が吹くと揺れてゐる、

よわい枝をもってゐる……

 

僕は睡らうか……

電線は空を走る

その電線からのやうに遠く蟬は鳴いてゐる 

葉は乾いてゐる、 

風が吹いてくると揺れてゐる

葉は葉で揺れ、枝としても揺れてゐる

 

僕は睡らうか……

 

(中原中也「いちぢくの葉」/三浦「孤独の発明」本篇・4・p.306から援引)

 

 初出は小林が編集していた『創元』第1集です。『創元』についても今後詳細な研究が俟たれることですが、この第1集は例の「母上の霊に捧ぐ」との献辞を持つ「モオツァルト」の初出でもあります。小林はこれに、吉田満の「戦艦大和ノ最期」、大岡昇平の「俘虜記」をも収録しようとしたが、GHQ、連合国軍総司令部、つまり占領軍の検閲で果たされなかったことにも三浦さんは言及して(三浦「孤独の発明」本篇・4・p.306、「全体に追悼の色がきわめて濃い」(三浦「孤独の発明」本篇・4・p.307)とも書いています。1946年、つまり敗戦の翌年の12月に刊行されているのです。

 さて、問題は先の、中也「いちぢくの葉」です。小林の引用は、なぜか、全3連あるうちの、その第3連の第1行目で打ち切られているのです。中也の詩を知悉するものからすると、こりゃ変だ、となる訳ですが、そうでもない、一般の読者からすると、最後の下りが、「僕は睡らうか……」で終わっていても気づかない訳です。なにしろ、最後が「……」ですから。

 三浦さんにしたがって、第3連全体を挙げておきます。

 

僕は睡らうか……

空はしづかに音く(*)、

陽は雲の中に這入(はい)つてゐる、

電線は打つづいてゐる

蝉の声は遠くでしてゐる

懐しきものみな去ると。

(中原中也「いちぢくの葉」/三浦「孤独の発明」本篇・4・p.308から援引)

 

*「音く」は誤植。三浦さんは「暗く」、「青く」、「杳く」などが考えられるとしている(三浦「孤独の発明」本篇・4・p.308)。

 

2 「思ひ出」引用の謎 

 

 さらに、奇妙なことがあると三浦さんは言います。先ほどの内容見本から引用した箇所のの前の部分で、中也の「思ひ出」という詩を小林が引用しています。

 

「ぼんやり俯き、案じてゐれば、僕の胸さへ、波を打つのだ」

 

(中原中也「思ひ出」/三浦「孤独の発明」本篇・4・p.305から援引)

 

引用というものはそもそもそういうものだと言えなくもないが、三浦さんはこう指摘する。

 

 不可解なのはしかし「いちぢくの葉」だけではない。

 同じように、文中に最終連の末尾二行のみが引用されている「思ひ出」も、なぜこのような文脈で言及されなければならなかったのか、まったく不可解なのである。「いちぢくの葉」以上に不可解だと言っていい。(三浦「孤独の発明」本篇・4・p.308

 

 どういうことでしょうか。中也の「思ひ出」の全14連のうち、最後の3連を引用してみます。

 

(かつ)て煙を、吐いてた煙突も、

今はぶきみに、たゞ立ってゐる

雨の降る日は、殊にもぶきみ

晴れた日だとて、相当ぶきみ

 

相当ぶきみな、煙突でさへ 

今ぢやどうさへ、手出しも出来ず

この(ぼう)(だい)  な、古強者(ふるつわもの)  が

時々恨む、その眼は怖い

 

その眼怖くて、今日も僕は

浜へ出て来て、石に腰掛け

ぼんやり(うつむ)き、案じてゐれば

僕の胸さへ、波を打つのだ

 

(中原中也「思ひ出」/三浦「孤独の発明」本篇・4・p.309より援引)

 

 どうですか。こうやってことさらに提示されてみると、相当不気味な詩であって、到底小林の言うように、「単純で真実な言葉だ」とは言えないし、詩の全体を読めば、そもそもここには「いろいろな思ひ出」など書かれていません。

 三浦さんはこう断定します。「ほんとうは、恐怖が歌われているのである。」(三浦「孤独の発明」本篇・4・p.310)と。では何の恐怖なのか。

 「死」の恐怖、「死の世界」への恐怖なのです。――ハイ、そこ、「キャー」っとか言わない。「出たー!」とか叫んじゃダメ!

「思ひ出」は「海に面して、放心しながら前方を凝視している」として「寒さそのものが潜在的な主題となっているため、魂が離れたような印象がいっそう強められている。」(三浦「孤独の発明」本篇・4・p.311)

と解釈しています。

 

 詩はどんどん寒くなってゆく。寒さのなかで工場が死の隠喩に変容することは、後半が「煉瓦工場は、その後廃れて、/煉瓦工場は、死んでしまつた/煉瓦工場の、窓も硝子も、/今は毀れてゐようといふもの」(傍点引用者)で始まることに示されている。死こそが主題なのだ。後半第一連が「今は毀れてゐようといふもの」で終わるのは、それが想像上の情景であることを示している。そのことは後半第三連に「沖の波は、今も鳴るけど/庭の土には、陽が照るけれど/煉瓦工場に、人夫は来ない/煉瓦工場に、僕も行かない」と明記され、この情景のなかに「僕」が存在しないとされていることにも明らかである。(三浦「孤独の発明」本篇・4・p.312

 

 小林の引いた詩句を含む最終連「その眼怖くて、今日も僕は/浜へ出て来て、石に腰掛け/ぼんやり俯き、案じてゐれば/僕の胸さへ、波を打つのだ」は、したがって、もしも「浜」が煉瓦工場のある岬を指すとすれば「僕」は幽霊であるということになるわけだが、そうでないとすれば、「浜」は別な場所であり、「僕の胸さへ、波を打つ」ようにさせる「その眼」は、想像された死そのものであるということになる。生の最中に眼前で死へと変容する煉瓦工場を見てしまった「僕」は、「その眼怖くて」「ばんやり俯き、案じて」いるほかなくなってしまったのである。

 「思ひ出」とは、死の世堺の思い出なのだ。(三浦「孤独の発明」本篇・4・p.312

 

 怖くないですか? これは、もちろん、三浦さんが「自分が死ぬということ」という主題に囚われているから、そうとしか読めないんだ、という批判もあろうかとは思いますし、わたし自身、中也の専門の研究者でもないので、詩的な判断はできかねますが、こうやって言われると、さもありなん、そうとしか読めなくなってしまいますし、そう読んでこそ、この詩の意味、中也の詩の意味がまざまざと摑み穫れる気がします。

 

 さて、まず「思ひ出」の意味です。なぜ、小林は通常の意味での「思い出」ではなく、脈略のない形で引用したのか。

 

 近代批評の祖は詩が分からなかったということで一件落着とするものも少なくない。だが、そうではないと考えることもできる。しかしその場合はただひとつ、小林にとっての思い出も、中也と同じように死の思い出、恐怖の回想にほかならなかった場合だけである。(三浦「孤独の発明」本篇・4・p.313)

 

3 「放心と凝視」 

 

 さて、次に、では「いちじくの葉」の引用が途中で打ち切られているのは何故なのか。

 三浦さんは、小林が中也について論じている文章6篇と、小林が編集していた『文學界』と『創元』に掲載した中也の詩、都合8篇を子細に検討したうえで、「放心と凝視」こそ、小林が中也に見出した主題にほからないことを発見しています。

 

 描かれているのは、明らかに、放心しながらの凝視である。放心によって世界から離れ、凝視によって世界から意味を剥奪しているように思える。そのために、すべてが終わってしまったように感じられ、いまや何もかも夢のようだと言っているのである。(三浦「孤独の発明」本篇・4・p.314 

 

  ひとつ例を挙げた方がいいと思いますが、中也の「朝」という、いかにも中也という感じの詩篇です。

 

雀の声が鳴きました

雨のあがつた朝でした

((ねぎ)) が欲しいと思ひました 

 

ポンプの音がしてゐました

頭はからつぽでありました 

何を悲しむのやら分りませんが、

心が泣いてをりました

 

遠い遠い物音を

多分は汽車の汽笛の音に

頼みをかけるよな気持

 

心が泣いてをりました

寒い風に、油煙まじりの

煙が吹かれてゐるやうに

焼木杭((やけぼっくい))や霜のやう僕の心は泣いてゐた

 

(中原中也「朝」/三浦「孤独の発明」本篇・4・p.315

 

三浦さんはこう解釈しています。

 

  いかにも中也の詩という趣だが、いったい何がそう感じさせるのか突きつめてみると、これも放心と凝視にあるということが分かる。「心が泣いて」というようないわゆる甘たるい修辞にあるわけではない。「僕」は「僕の心」を掌握しているわけではない。目覚めて、身も世もないような悲哀感に包まれている自分を見出し、悲哀感の理由も分からずに、ただそれを見つめているのである。自分を離れた自分が、自分を見つめている。(三浦「孤独の発明」本篇・4・p.315

 

では、以上の前提で、「放心と凝視」とは一体何なのでしょうか。

 

 

 放心と凝視が入眠と覚醒に際して起こりやすいことは生理の必然である。中也の詩に、入眠と覚醒に取材した詩が多い理由だ。そしてまた、間断なく降る雨や、遠い物音、遠い鳴き声に反応した詩が多い理由である。(三浦「孤独の発明」本篇・4・p.315

 

 さて、「いちじくの葉」引用の謎の解決篇です。

 

 小林がなぜ、「いちぢくの葉」で第三連の一行目までを引用したのか、これで理解できるように思われる。小林は、「僕は睡らうか……」の暗示する入眠幻覚にもっとも強く反応したのである。無意識にであれ、その一行を強調したかったのだ。それは柳田の『故郷七十年』の入眠幻覚を思わせる挿話、神隠しに遭いやすい資質を示す挿話に敏感に反応したのと同じだ。

 とすれば、放心と凝視は、小林の思い出の核心にも潜んでいなければならないはずである。

 小林は、中也の詩は生活に密着している、中也は詩人ではなくむしろ告白者なのだと一貫して述べている。だが、その「生活」とは「ドストエフスキイの生活」というときの「生活」であって、むしろ「生」というべきものなのだ。その「生」こそがその中核に放心と凝視のからくりを潜めているのであって、そのことをまっすぐに歌うことこそが「告白」なのである。それが小林の言う「生活」と「告白」なのだ。金と女が「生活」なのではない。懺悔が「告白」なのではない。思い出もまた同じように考えられなければならない。(三浦「孤独の発明」本篇・4・p.316

 

 小林にとって思い出とはおよそ甘美なものではありえなかった、むしろ苦痛なものだったと思わざるをえない書きぶりである 。群がり起こる思い出は、確かに「ぼんやり俯き、案じてゐれば、僕の胸さへ、波を打つのだ」と言って終えるほかないものだった。中也が煉瓦工場に死を見たように、小林もまた思い出の重大な局面で死を見ていたからである。中也の「波を打つ」胸に向かって「尤もな事だ、単純で真実な言葉だ、と私は思ふ」というのもまた、同じように、それこそ「単純で真実な言葉」だったのである。 (三浦「孤独の発明」本篇・4・p.317

 

 卓抜なる解釈と言わざるを得ないですね。文学作品をただ単にテキストとして、漫然と、あるいは恣意的に読んでいるだけはこのような読解ができようはずがありません。三浦さんの書斎には、――いや、きっと書斎に籠って執筆なんていうのは、多分ないのではなかろうかとも思いますが、恐らく編集部の机や、カフェなどで目の前に何冊もの書籍や資料が置かれて、自身の手で原稿用紙のマス目を、熱病にでも憑依かれたかのように埋めていく姿が目に浮かびます。――すいません、これは、わたしの勝手な想像なので、全く違うかも知れませんが。

 中也論については一旦、山頂は過ぎました。お疲れサマー・サンデー・モーニング! ここから中也論の下りです。

 

9 幽霊

 

 連載第5回は「幽霊の孤独」の(下)ですが、中也が遺した言葉、そして、そのことから、いかに小林が中也の影響、それも決定的な影響を受けていたかを示します。

 

1 「三人姉妹」老軍医チェプトィキンの台詞

 

 一つ目は、大岡昇平の中也についての評伝『在りし日の歌』1994年・角川書店)から三浦さんが引用されているこういう言葉です。「おれがいまここにいるのはというのはとんでもない間違いで、ことによると、おれという人間は全然存在していないのかも知れないぞ」という言葉、というよりも台詞です。これは無論、チェーホフの「三人姉妹」の副人物、というより端役でしょうが、老軍医チェプトィキンの台詞です。中也はその劇の中ではさほど重要とも言えないその台詞を皆がいる前で独白していた、との小林の報告を紹介しています。

 この台詞の正確な全体は以下の通りですが、中也は要点だけ抽出したとも言えます。

 

  ことによるとおれは、人間じゃなくって、ただこうして手も、足も、頭もあるような、ふりをしているだけかも知れん。ひょっとするとおれというものは、まるっきり存ありゃしないで、ただ自分が、歩いたり食ったり寐たりしているような、気がするだけかも知れん。(泣く)おお、いっそ存在せんのだったらなあ! (泣きやんで、陰気に)ええ、勝手にするがいい。(チェーホフ『三人姉妹』1901年/神西清訳・1967年・新潮文庫/三浦「孤独の発明」本篇・5・p.253から援引)

 

「人間じゃな」かったら一体何なのだ、ということになりますが、その台詞をあたかも自分のことだとして中也は、嫌がらせのよう諳んじてみせたのでしょう。

 

2 「退屈者の手帖」

 

 まず、読んでみます。同棲、――それにしても「同棲」って古いな、今なんて言うんだろう? 昔、同棲って流行ったんですよ、なんでだろ、なんか理由があんのかな。ま、それはともかく、同棲している男の書いた日記「退屈者の手帖」を女が読むシーンです。

 

 女 さう? (読む)「湯槽ぶねの中では如何なる人間も、自分を忘れていない。いゝえ、私がせめてもの気晴らしに、嫌な湯槽の中をさへ慕つて来たから思ふことなのであらう。」―― (少し早口になる)私は自分が向ふへ歩いゐるのか、自分が向ふから蒼白い顔で歩いて来てるのか分らない時がある、――十字路で、みんなの元気な顔、殊には出遇つて互に喜ばしさうな挨拶を交はしてゐる人達をみる時。」―― 「胃散を飲んで始めて知つた、私が胃病患者であつたことを。『ぢや如何してそれを飲まうとしました?』訊ねた人がある。『そんな疑問は起りません。私の顔は蒼ざめ、指は此の通り、握った砂の半分はサラサラとわけもなく落ちさうな程です。』」――「嘗て私は、橋の上を通りかゝつたとき、橋の上では人間が、みんなニヒリスチックになるものだと考へた、思つた。」――まあ、あなたつて退屈な方ね!――奥さんを早くお持ちなる方が好いわ。 (三浦「孤独の発明」本篇・5・p.254。傍線再引用者)

 

 大部、イっちゃってますね(笑)。多分、お疲れのようなのでしばらくゆっくりお休みされた方がいいかも知れませんね、と言いたいところです。

 ――なんでもかんでも思いついたことを言うのはどうかとは思いますが、これ、雰囲気的に、つげ義春の漫画、例の「ねじ式」(1968)なんかと似てますね、雰囲気的にね。もちろん影響関係で言えば、つげが中也の影響を受けたということになりますが、どうでしょうか。多分影響とかそういう問題ではないんでしょうがね。

 で、これは、中也が、なんと17歳の時に書いた戯曲「夢」です。ちなみにこの段階で、中也は、まだ17歳でしたが、俳優の卵・長谷川泰子との同棲を始めています。なんて奴だ、とも思いますが、中也は30歳で亡くなっていますから、仮に当時の成人、――当たり前か? 成人男性の平均寿命を60歳とすると、――すいません、この数字、適当です、中也と比べると丁度2倍ですから、簡単には言えませんが、34歳の時に同棲を始めたということになりますから、言うなれば、人の2倍速で中也は生きていたことになります。夭折した、後に天才と称される人々は総じてそうなのでしょうが、中也は全く生き急いだ感がありますね。

  話を戻すと、傍線を引いた「私は自分が向ふへ歩いゐるのか、自分が向ふから蒼白い顔で歩いて来てるのか分らない時がある」というのはドッペルゲンガー、いわゆる分身の術ですが、自己の「影」と遭遇する訳です*

 

*ドッペルゲンガーの問題は臨床心理学者・河合隼雄の『影の現象学』(1986年・思索社/1987年・講談社学術文庫)は学問的にはどうかとは思いますが、――そもそもこれは、いわゆる「現象学」とは全く関係ありませんが、読物としてはとても面白いです。否定している訳では全くありません。

 

「私の顔は蒼ざめ、指は此の通り、握った砂の半分はサラサラとわけもなく落ちさうな程です。」ここで「サラサラとわけもなく落ち」ていくのは「握った砂」ですが、感覚で言うと、その前の「私の顔」こそが「サラサラとわけもなく落ち」ていくのであり、さらに言えば、その「私の顔」は「私自身」のことですね。これは来てます、来てます。

 

3 「詩人座談会」

 

 同じような例ですが、もちろん中也の全集には掲載されてはいますが、これまたよく探したものだ、という感じがします。雑誌『詩世界』1935年1月号に掲載された「詩人座談会」です。この座談会に中也は遅れて参加したためか、ほとんどしゃべっていませんが、最後辺りにポツンと呟きます。引用文中の植村と岡本はそれぞれ植村諦、岡本潤で当時は有名な詩人でした。レアルはリアルのことです。

 

 植村 そんなレアルがあるか。それではみんな自分の考へた通りに書いてゐるといふだらう。それぢや自然主義もロマンチシズムもみなレアルになる。主観が厳密な客観の批判に堪へ得るところにレアルがある。

 中原 が、自分といふものは目がさめたらゐたんですからね。

 岡本 それもレアルだ、あれもレアルだなどといふやうな考へ方には反対だ。それはレアルでなく幽霊だ。さういふ考へ方からロマンチシズムなんていふのが出てくるんだ。

 中原 それでは問題がレアリズムかロマンチシズムかになる。

 司会者 では余り長くなるのでここらで今回は打切りたひと思ひます。 (三浦「孤独の発明」本篇・5・p.257。傍線再引用者)

 

 この中也の突出具合は凄いですね。まさに気づいたら自分だったというのは、或る種のサイエンス・フィクション、例えば異星に辿り着いたたった一人の地球人か、逆にたった一人で地球に不時着してしまった異星人を想起させます。もうほとんど宇宙人と同じですが、この文脈で言えば、まさに岡本潤がいみじくも述べているように「幽霊」ということになります。

 この座談会にも出席していた中也の友人で、詩人の草野心平に次のような有名な詩があります。皆さんもどっかで聞いたことがあるんじゃないでしょうか。「空間」全文です。

 

中原よ。 地球は冬で寒くて暗い。
ぢゃ。 さやうなら。

 

(草野心平「空間」/『歴程』第6号)

もちろん、あの世に行った中也を弔う詩なんですが、生きているときからあたかも中也は宇宙空間に漂っていた印象を残します。まさに中原中也は宇宙人というべきか、幽霊のような存在だった訳です。

 

 

10 ベルクソン論「感想」はなぜ中断されたのか?

 

1 自意識の迷路vs.伝統の深さ

 

 小林の代表作は何かと言えば、無論、多くの人たちが『本居宣長』だと言うでしょう。しかし、では、一体、あの大著とも言うべき『本居宣長』とは一体何なのか、そもそもあそこには何が書かれていたのか、分かったような分からないような、そんな感じを持つ人も多いと思います。

 では問題作は何ですか、と言えば、それは間違いなく、途中中断を余儀なくされたベルクソン論「感想」ではないかと、これまた多くの人たちが答えるのではないかと思います。

 と考えれば、ことの順序として言えることは、「感想」で乗り上げた問題、壁を、その後10数年の歳月をかけて、『本居宣長』によって、なんとか乗り越えることができたということでしょうか。

 さらに、ことの発端を思い出して欲しいのですが、そもそも、小林はデビュー作「様々なる意匠」などの初期の評論で「自意識の迷路」、いわゆる「自己言及のパラドックス」と格闘していたわけですが、それを十分戦い切らずに、日本の古典、日本の伝統的価値と言った「深さ」の方に逃げたのだと、三浦さんは否定していました。

 一旦、滅茶苦茶図式的に言えば、次のようになるのでしょうか。

 

 

【表 小林秀雄における作品の2系統】

時期

西暦

自意識の迷路系

日本の伝統系/幽霊系

《戦前》

1929

「様々なる意匠」

 

1935

「私小説論」

 

1939

『ドストエフスキーの生活』

 

1942

 

「無常といふ事」

アジア太平洋戦争(大東亜戦争)敗戦

1945

 

 

《戦後》

1946

「モオツァルト」

 

1949

 

「私の人生観」

1952

『ゴッホの手紙』

 

1958

『近代絵画』・ベルクソン論「感想」連載開始(~1963年)

 

1959

 

『考へるヒント』

1977

 

『本居宣長』(1965年~1976年連載)

 

 

このうち、完全な初期作品として「私意識の迷路」との格闘を繰り広げていたのが、1935年の「私小説論」までで、1939年以降の「ドストエフスキー」、「モオツァルト」、「ゴッホ」、「近代絵画」と言った、或る意味では、その「私意識の迷路」を観ないように、直視しないように、現場の日本の文芸作品ではなく、この手の外国の、有体に言ってヨーロッパの文学や音楽、美術といった西欧の芸術が対象として選ばれているのでしょうか。で、その果てにベルクソンが来る訳ですが、結局、それの執筆に難渋し、挙句の果ては連載を中断せざるを得なかった訳ですから、これは小林も困ってしまったのではないでしょうか。

 ところが、戦争中の或る時期、突如関心を持つに至った古典論、「無常といふ事」の系譜があります。つまり、自分のことを自分の枠内で考えても仕方ないのだ、そんなことで何も分かりはしないのだ、じゃあどうすればいいか、昔の人たちに聞いてみよう、昔の人たちの知恵を虚心に、つまり「無私の心」で学んでみよう、ということになり、まー、話としては一応通じていますね。

 そう考えると、先に、「自意識の迷路系」に含めていた「ドストエフスキー」から『近代絵画』まで、あるいはベルクソン論「感想」まで含めてもいいのかも知れませんが、これはむしろ「自意識の迷路」からの脱出を目指す「西欧芸術(哲学)系」を別建てする必要があるかも知れませんが、方向としては「日本の伝統系」と実は全く同じ「幽霊系」に属するのではないかと思います。

 で、その極点に『本居宣長』が来ることになります。

 その『本居宣長』が成功しているかどうかは、また別に論じる必要がありますが、流れとしてはこうなります。この下りはわたくしが勝手にまとめさせていただきました。

 どうですか。ま、話としては分かるな。で、それで? という感じですかね?

 さて、この流れの急所は何でしょうか。なぜ、小林はかくまで「自己言及」問題にこだわったのでしょうか。それは、今われわれの立場で言えば、三浦さんは何故にそこまで、「自分が死ぬということ」にこだわるのか、あるいはなぜそこまで小林にこだわらざるを得ないのか、という問題と通底しているからです。いわゆる、――つーか誰もいわゆってないけど、「文学的ドミノ倒し」です。何かが倒れると自動的に他の全てのドミノも一斉に倒れるという訳ですね。

 

2 中也の影

 

 ということで、急所はどこか。中也ではないでしょうか。中也こそ、この小林問題とでも言うべきものの解決、――解決という言い方は語弊がありますが、解決を予想されるもの、解決とされるべき場所にあるだろうもの、――言葉がちょっと、足らなくてご迷惑をお掛けしておりますが、ま、そういうことです。

 三浦さんはこう言っています。

 

 『感想』の主題はこれまで述べてきたことである。要するに放心と凝視である。表題を変更したほうがいいほどだ。たいたい、第一回で「経験が私に対して過ぎ去つて再び還らないのなら、私の一生といふ私の経験の総和は何に対して過ぎ去るのだらう」と洩らすだけではない、第六回では「一種の放心を、自然は、私達に許し、実用的行動の地盤から、私達を離脱させる時のある事を、誰も経験によつて知つてゐる」とまで断わっているのだ。『感想』のもっとも白熱した部分が「デジャ・ヴュ」すなわち「既視感」を論じることになるのは必然だった。(三浦「孤独の発明」本篇・5・ p.263。傍線引用者)

 

となる訳ですから、ここで、中也論で繰り返された「放心と凝視」という主題が浮かび上がってくるのも予想されることです。では何故にこの「放心と凝視」という主題が反復されるのか。

 

小林にとってそれは、ベルグソンの核心以上に自身の核心に踏み入ること、そしてそれ以上に、中也の核心に踏み入ることだったのである。(三浦「孤独の発明」本篇・5・ p.263。傍線引用者)

 

つまり、ベルグソンと言いつつ、そこに自身の姿を見てしまう、そしてその奥に中也の姿を見ることで、自身の姿を再度見ることになります。しかしながら、――と、三浦さんはこう付け加えます。

 

 問題は、小林自身がそのことに気づいていなかったということだけだ。(三浦「孤独の発明」本篇・5・ p.263

 

 では、三浦さんの言う小林「自身の核心」、「中也の核心」とは一体どういうところにあるのでしょうか。三浦さんはこう言います。

 

 『感想』が白熱するのは第三十回からだ。主題は、漱石が一九一六年元旦の朝日新聞「点頭録」に書いたことと寸分も違っていない。すなわち時間の問題、現在と過去と未来の問題である。漱石がこだわった問題にウィリアム・ジェイムズが肉薄し、ベルグソンが肉薄したことは言うまでもない。同じ問題に小林も肉薄しようとしたのだ。肉薄してはじめて、それが放心と凝視の問題であることに気づくのである。人は、ぼーっとしているとき、あるいは、危機に際して我を忘れているとき、時間の秘密のもっとも近くにいるのである。(三浦「孤独の発明」本篇・5・ p.p.263-264

 

3 漱石「点頭録」

 

 ここで言われている漱石の「点頭録」というのは、先に、やはり漱石の「硝子戸の中うち」に言及する際に、その直前に三浦さんが引用しているものです。その時は、時間の関係ですっ飛ばしましたが、やはり、三浦さんにとって、とても重要な文章なんだと思いますが、何回か言及されますね。

 せっかくですから、ちょと確認しておきましょう。これがけっこー、なげーんだ。

 書き出しはこうです。

 

 また正月が来た。振り返ると過去が丸で夢のやうに見える。何時の間に斯う年齢としを取つたものか不思議な位である。(夏目漱石「点頭録」1916年/三浦「孤独の発明」本篇・2・ p.315から援引)

 

 で、問題の箇所として三浦さんが引用しているのがここです。

 

 これをもつと六づかしい哲学的な言葉で云ふと、畢竟ずるに過去は一の仮象に過ぎないといふ事にもなる。金剛経にある過去心は不可得なりといふ意義にも通ずるかも知れない。さうして当来の念々は悉く刹那の現在からすぐ過去に流れ込むものであるから、又瞬刻の現在から何等の段落なしに未来を生み出すものであるから、過去に就て云ひ得べき事は現在に就ても言ひ得べき道理であり、また未来に就いても下し得べき理窟であるとすると、一生は終に夢よりも不確実なものになってしまはなければならない。

 斯ういふ見地から我といふものを解釈したら、いくら正月が来ても、自分は決して年齢を取る筈がないのである。年齢を取るやうに見えるのは、全く暦と鏡の仕業で、其暦も鏡も実は無に等しいのである。 

 驚くべき事は、これと同時に、現在の我が天地を蔽ひ尽して儼存してゐるといふ確実な事実である。一挙手一投足の末に至る迄此「我」が認識しつゝ絶えず過去へ繰越してゐるといふ動かしがたい真境である。だから其処に眼を付けて自分の後を振り返ると、過去は夢所どころではない。炳乎として明らかに刻下の我を照しつゝある探照燈のやうなものである。従つて正月が来るたびに、自分は矢張り世間並に年齢を取つて老い朽ちて行かなければならなくなる。

 生活に対する此二つの見方が、同時にしかも矛盾なしに両存して、普通にいふ所の論理をしてゐる異様な現象に就いて、自分は今何も説明する積はない。又解剖する手腕も有たない。たゞ 年頭に際して、自分は此一体二様の見解を抱いて、わが全生活を、大正五年の潮流に任せる覚悟をした迄である。(夏目漱石「点頭録」1916年/三浦「孤独の発明」本篇・2・ p.p.315-316より援引)

 

 何だか、「六づかしい」ことを言っているようですが、現実のこの世にあって、あるのかどうなのかの怪しい過去や現在、あるいは、この「私」という「夢」のような存在を以て生きるしかないじゃん、人間だもの、金之助、ということです。三浦さんは「この短文がそのまま『歴史哲学』になっているような気がする」(三浦「孤独の発明」本篇・2・ p.316と述べていますが、この『歴史哲学』1932年)は小林のライヴァルでもあった、哲学者・三木清の著作で、それをも凌駕していると三浦さんは言っているのです。言うなれば漱石はここで「歴史もまた夢にすぎないのだ」と言っているということになります。これに続けて、三浦さんはこう解釈しています。

 

 漱石はさらに一歩進めて、過去も 未来も夢ならばこの現在も夢、とすればこの私という現象さえも夢であるべきことを示唆している。だが同時に、夢かもしれないこの現在の私の圧倒的な現実性に驚いてもいるのである。そして、夢と現実のその両方を抱いて生きてゆくほかないのが人間だと結論づけている。

 夢と現実のその両方を抱いて生きてゆくほかないその場所が、歴史も発生すれば、幽霊も発生する場所なのである。(三浦「孤独の発明」本篇・2 ・p.316

 

という訳で、小林が「感想」で最も追究したのが、この「夢と現実のその両方を抱いて生きてゆくほかない」「人間」だった訳で、まさにこの「夢と現実のその両方を抱いて生きてゆくほかない」「人間」とは、まずもって、小林にとっては中也以外の誰でもなかったのだと思います。

 

4 「偽物の再認」=「デジャ・ヴュ」=「既視感」

 

  例えば、ということで三浦さんは「感想」の次の一節を引きます。

 

「偽物の再認」は、これらの異常の一つである。生活への一般的注意の一時的な衰弱であり、意識の眼が、もはや自然な方向を保たず、見ても無益なものを気まぐれに注視する場合である。だが、生活への注意といふ言葉を、どういふ意味に取つたらよいか。「偽物の再認」に到達するのは、放心のどんな種類か。注意とか放心とかいふ言葉は漠然としてゐるが、この特別な場合、もつとはつきり定義出来ないものか。主題が曖昧なのだから、決定的な正確を期するわけにはいかないが、やってみよう。(小林「感想」第31回/三浦「孤独の発明」本篇・5・p.264。傍線部再引用者)

 

 この場合の「注視」というのは、無論、三浦さんの言葉で言えば「凝視」ということになります。また冒頭の「偽物の再認」というのは、三浦さんによれば「デジャ・ヴュ」、つまり「既視感」のことです。あ、なんかこれ一回前に見たことあんだけど、というあれですね。

 ちなみにわたしがこの「デジャ・ヴュ」という言葉を覚えたのは、小学校6年生の時で、そのころやたらと読んでいた、今は亡き平井和正さんの、ウルフガイ・シリーズ第1作『狼の紋章(エンブレム)1971年・ハヤカワ文庫SF)、「紋章」と書いて「エンブレム」ですから、ここ大事、それの冒頭で、教師・青鹿晶子が主人公・犬神明を見て、「デジャ・ヴュ」じゃないかと思うところです。どうでもいいですね。

 話しを戻しますと、三浦さんは先の小林の引用に続けて、「中也の詩のほとんどが既視感を歌うことによって人間の秘密に迫ろうとしたものであることは繰り返すまでもない。」(三浦「孤独の発明」本篇・5・ p.264)としています。

 三浦さんの導きで二つ中也の詩を確認しておきましょう。

 一つ目は「冬の長門峡」です。

 

 

長門峡に、水は流れてありにけり。

寒い寒い日なりき。

 

われは料亭にありぬ。

((く))みてありぬ。

 

われのほか別に、 

客とてもなかりけり。

 

水は、((あたか))も魂あるものの如く、

流れ流れてありにけり。

 

やがても密柑((みかん))の如き夕陽、  

欄干にこばれたり。 

 

あゝ! ――そのやうな時もありき、

寒い寒い  日なりき。

 

(中原中也「冬の長門峡」/三浦「孤独の発明」本篇・4・p.310より援引)

 

 どうです。滅茶苦茶分かり易い詩ですね。――なんだ、酒飲んでるだけじゃん、ただの酔っぱらいだよー、って言うかも知れませんが、実は皆さんが思うほどには簡単な詩ではありません。

 最後の「あゝ! ――そのやうな時もありき、/寒い寒い  日なりき。」というのは、三浦さんによれば、回想してる訳じゃないんです。そうじゃなくて、その場にいてその目の前の情景を「ああ! ――そんな時もあったな」って思ってる、というんです。つまり、現在がもう瞬間的に過去になっている訳ですが、つまり、「デジャ・ヴュ」、「既視感」です。そりゃそうなんですけど、普通の人は、そんな風に感じたりはしない訳ですし、もしそんなことがあれば、結構暮らすの大変ですよね。

 つまり、「この詩が捉えているのは、そういう離魂病とでも言うべき瞬間なのだ。」*としたうえで、「まるで自分自身が登場している映画を遠くから眺めるような目つきで、現実の人生をやり過ごしてきたのではないか、と思わせるのだ。」*つまりは「放心しながら前方を凝視しているのである。」*と、こうなる訳です。

 

*三浦「孤独の発明」本篇・4・p.311

 

 もう一つ挙げてみましょう。小林が中也を追悼するために『文學界』に掲載した中の一篇「少女と雨」です。

 

少女がいま校庭の隅に((たたず)) んだのは    

其処( (そこ)) は花畑があって菖蒲((しょうぶ)) の花が咲いてるからです

 

菖蒲の花は雨に打たれて

音楽室から来るオルガンの 音を聞いてはゐませんでした

 

しとしとと雨はあとからあとから降つて

花も葉も畑の土ももう諦めきつてゐます

 

その有様をジツと見てると 

なんとも不思議な気がして来ます

 

山も校舎も空の下もとに

やがてしづかな回転をはじめ

 

花畑を除く一切のものは

みんなとつくに終つてしまつた 夢のやうな気がしてきます

 

(中原中也「少女と雨」/三浦「孤独の発明」本篇・4・p.314より援引)

 

  これまた異常に平易な印象を与えます。題名からしても、言葉の意味や読みかたを補ってあげれば、小学生でも理解できそうな詩ですね。少女が雨の中、菖蒲の花のそばにいる様子を「ジツと見てると」「やがてしづかな回転をはじめ」る、というのも、子供騙しの、人によっては幼稚な比喩だと取るかも知れません。わたしは好きです。というのはそういう経験があるからなんですが。

 でも、これまた、三浦さんの解釈にかかると、相当奥が深いと言わざるを得ないのです。

 

  小林の「偽物の再認」の説明をそのままこの詩に当てはめてみる。

 この詩は、しとしとと降ってくる雨を凝視することによって、「生活への一般的注意の一時的な衰弱」を引き起こし、「意識の眼が、もはや自然な方向を保たず」、まさに「見ても無益な」花や葉や畑の土、さらに山や校舎といったものを「気まぐれに注視する」ことになり、「花畑を除く一切のもの」が「みんなとっくに終ってしまった」「夢のやうな」つまり「現在の思ひ出」のような気がしてくるというその気分を歌うことによって、人間的時間の秘密に迫っているのである、それが人に詩的快感を与える理由だ――見事な解説ではないか。要するに小林は、ベルグソンを介して中也の詩を解説しているようなものなのだ

 しかも、小林自身、同じ体験を、ほかならぬ中也とともに、鎌倉の妙本寺境内で、海棠の花が散るのを眺めながら、味わっていたのである。「あれは散るのぢやない、散らしてゐるのだ、 一とひら一とひらと散らすのに、屹度きつと順序も速度も決めてゐるに違ひない、何んといふ注意と努力、私はそんな事を何故だかしきりに考へてゐた」というのかそれだ。

 小林は『感想』のなかで、ほんとうは、中也と自分には分かりきったことを書いているのである(三浦「孤独の発明」本篇・5・ p.265。傍線部引用者)

 

 

5 ベルクソン論「感想」はなぜ中断されたのか?

 

 したがって、問題は中也の詩がいかに優れているか、人間存在の根源に通底しているか、ではなくて、小林がいかに中也の影響下におかれていたか、というよりも中也と小林は同じ経験をしていたために、なおかつ中也の夭折のため、そう思えるということなのだが、そこのところである。三浦さんは中也の小林への影響を次のようにまとめます。

 

 小林は幸か不幸か、人生のほとんど出発点において中也と出会ったわけだが、中也の資質は小林が考えていた以上にその批評に大きな力を及ぼしたと言っていい。根源的なところで似ていたからである。

 

(中略)

 

 ドストエフスキーにせよ、モーツァルトにせよ、ゴッホにせよ、小林が論じた対象にはつねに中也の影が寄り添う。そのように切り取られているのだ。小林自身の影と言っても同じことだが、しかし浮かび上がる姿は中也にいっそう近いと感じさせる。

 

(中略)

 

本人が気づこうが気づくまいが、疑いないのである*。『感想』は実質的に中原中也論になっているのだ。(三浦「孤独の発明」本篇・5・ p.266

 

*引用者註。この一文は厳密に言うと、「現実を離れた心」が中也のことを意味していることを指しているが、大局こうとっても差し支えないだろうと考え、その直前の議論を省略して、そのまま引用しました。

 

 しばしば、小林は何を書いても、結局小林自身のことを書いていると揶揄されますが、それはそれで間違いないところですが、実のところ、小林は何を書いても、結局中原中也のことを書いているのだ、ということになりそうです。

 さて、以上のように考えてくると、では、何故、『感想』は中断せざるを得なかったのも薄々分かったような気がしてきます。

 三浦さんは明確にその理由は書いてはいませんが、恐らく小林自身が、「感想」の中心テーマ、つまり、小林自身が真に書きたいと思っていたこと、心の底で、解明せねばならぬ謎こそ、中也のことであり、中也との経験であり、中也の詩であると認識できていれば、「デジャ・ヴュ」、「既視感」を論じた後、――それも螺旋階段のように何度も何度も同じ内容を反復した後、――つまり、何度も反復してしまうのは言い切れていない、謎の中心に至った、その解答を明確に示し得た、という実感が得られなかったからだと思いますが、科学史の話になり、アインシュタイン、ハイゼンベルグの話になり、三浦さんの言葉で言えば「内的な衝迫を失い、中断される」(三浦「孤独の発明」本篇・5・ p.266ことになります。要は、ぶっちゃけて言えば、やる気がなくなったわけですね。というと身も蓋もないわけですが、小林自身がベルクソンを通じて、実は中也のことを書いていると分かっていれば、それ相応のところで打ち止めにすればよかったのですが、もともとベルクソン論だったのかという問題もありますが、均衡を失い、まー収拾が付かなくなったということでしょうか。気持ちは分かります。

 まさに、自分は自分のことほど分かってない、分かり得ない、ということでしょうか。

 で、そこで、気を取り直して中也論に向かえばよかったのですが、何しろ、ご本人は気づいていないのですから、『本居宣長』に向かって10数年も格闘することになる訳ですが、これまた、三浦さんによれば「中也の影」がそこに浮かび上がってくることになります。怖いですね。

 

11 『本居宣長』には何が書かれているのか?

 

1 「内的視力」へと収斂する「放心の経験」

 

 小林秀雄畢生の大著とも言うべき『本居宣長』とは一体何だったのか。

 大変大きな問題だと言えますが、一言で言ってしまえば、これまた同様の言い方になります。三浦さんはこう断言します。

 

『本居宣長』全五十章もまた、『感想』と同じように、凝視と放心の現場に肉薄しようとした小林なりの軌跡と言っていい。(三浦「孤独の発明」本篇・6・p.350

 

と言われても、ん? そうなのかな、と思う人も多いと思います。

 そもそも、この『宣長』には前史があります。多くの先行研究云々ということもありますが、一旦問題になるのは政治学者の丸山眞男だと三浦さんは見ています。

 丸山の考えを簡単に図式的に言えばこうなるでしょうか。荻生徂徠の「作為」の思想vs.本居宣長の「自然」の思想です。例のごとくちょっと表にしてみましょう。

 

【表 丸山眞男に見る「責任」/「無責任」の思想

(三浦「孤独の発明」本篇・6・p.352の記述による)】

荻生徂徠

本居宣長

「作為」の思想

「自然」の思想

責任の思想

無責任の思想

中心

中心の不在

 

天皇制

 

天皇の、天皇への無限責任

 

小林秀雄

 

「実感信仰」

 

  つまり、ことほどさように「小林は日本における無責任の思想の典型と見なされているので」(三浦「孤独の発明」本篇・6・ p.352す。小林からするとお門違いも甚だしい、無責任なのはどっちなんだということになるかも知れません。

 これは、以前、三浦さんが引用していて、それについて言及したと思いますが、大江健三郎さんたちが、投獄されていた、韓国の金芝河キム・ジハさんを救済せよとの運動を念頭に、「責任が取れるのか」と批判したことをさり気なく思い出します(本書第5章第2節第1項参照)

 いずれにしても、この丸山の批判に対して、大っぴらな形での反論というのはなかったのですが、例えば、後に『考へるヒント2』1977年・文藝春秋)に収録された「学問」、「徂徠」、「弁明」、さらには『本居宣長』そのものが、丸山に対して投げかけられた再批判とも考えられると三浦さんは指摘します。

 と言っても、小林のことですから、まともに反論した訳ではありません。

 三浦さんはこう言います。

 

丸山は、聖人に作為すなわち制作者を見出した徂徠に、日本の思想を根本的に変革する可能性があると考えたのである。(三浦「孤独の発明」本篇・6・p.352

 

 無論、小林も学説史の流れを押さえています。先行研究も十分熟読していたでしょう。その上で、丸山の批判の流れには小林は乗らなかったのです。続けてこう言います。

 

 小林もおおよそはこの見方を踏襲している。けれど、宣長の思想の核心を言語論に認め、その独創を説くことに集中している点が大きく違っている。そしてその独創を支えるのが凝視と放心にほかならないと、小林は考えた。

 凝視と放心を中心に据えるこの考え方のほうが、じつははるかに独創的であったと言うべきだろう。言語とは何かと問うのも言語である。小林は批評家として立ったときからこの逆説に捉えられていた。凝視と放心がこのの核心にあるらしいと感じていたからこそ、中也に惹かれ、ドストエフスキーに囚われたのである。「感想」においてそれがひとつの着想として前面に迫り出してきたことは先に述べた。学者にはありえないことである。その後に『本居宣長』が位置する。(三浦「孤独の発明」本篇・6・p.353

 

 さて、その要諦はどこにあるのかと言いますと、「字義」、つまり文字の意味ですね、これを忘れることが重要だという、いささか人を喰った話になります。

 小林がまず、伊藤仁斎が「白骨の観法」を実践していたことに触れ「言わば字義を忘れる道を行つたと言える」(小林『本居宣長』/三浦「孤独の発明」本篇・6・p.353より援引)と述べていることを三浦さんは紹介したうえで、いよいよ徂徠の話になります。仁斎、徂徠は師弟関係ですね。

 「白骨の観法」というのは、当時流行ったらしいのですが、どんなきれいなお姉さんでも、あるいはイケメンのお兄さんでも、やがては醜い老婆、老爺に、そしてその後は白骨の死体へと変わるということを、そのきれいなお姉さん、イケメンを目の前において観じるという、いささかマゾ的な奴ですが、要は世の中は無常である、どんどん変わってしまって、常に同じ状態であるものはこの世に存在しない、形あるものは崩れる、永遠だと思っていてもその瞬間に存在しなくなる、そういうものだということを観ずる訳ですね。

 そりゃそうなのですが、そんなこと言ったら、一体何のために生きてるんだ、ということになりますが、ま、偉い人達は、あまりそういうことは考えないようですね。ま、いいんですが。

 で、そのこの世は全て幻じゃん、といったことの究極が、四書五経の注釈、――四書五経というのは、細かく言うと、いろいろ面倒なことになりますが、儒教の経書の中で特に重要とされる四書と五経の総称のことで、四書は『論語』・『大学』・『中庸』・『孟子』、五経は『易経』・『書経』・『詩経』・『礼記』・『春秋』なんですけど、つまり仁斎たちがプロでやっていた「膨大な研究の蓄積もまた幻にすぎない」(三浦「孤独の発明」本篇・6・p.354ということを知ることが大事なんだ、ということになります。それが「字義を忘れる」(三浦「孤独の発明」本篇・6・p.354ということに他ならない訳です。つまり、文字を見てはいるんですが、その文字の意味が頭に入ってこない時って、ときどきあるじゃないですか。それです。

 つまり、なんていうんですかね、例えば格闘技の選手が勝とう、勝とうとか思ったら駄目で、まずは勝負を忘れる、いまここに試合場にいるということも忘れる、虚心に、あるがままに、相手と自分の戦い、いや戦いとも言えぬような身体と精神の動き、絡み合いに身と心を任せる、そこには勝敗を超えた何かが待っている、とか言われても、そんなことできないですよね。なんか要するにそういうことです。

  まー、そこで徂徠が登場します。徂徠の『答問書』の一節です。小林はそれを、もちろん原文で引いていますが、三浦さんは同じ箇所を現代語訳で引用されていますが、それをさらに三浦さんが要約したものを挙げておきます。

 

 連日長時間にわたって朗読する小姓の前で四書五経をじっと眺めていたら、ぼーっとしてきた。すると、日頃見慣れていた文字が違って見えてきた、そのために、文字の連なりのなかから子供のような疑問が湧いてきたというのである。まるで笑い話だが、意味するところは深い。しかも徂徠の人柄を偲ばせる。 ユーモラスで暖かい。 (三浦「孤独の発明」本篇・6・ p.355

 

 まさに「凝視と放心」そのままですね。この徂徠の『答問書』を引いた後、小林はこう述べています。

 

 例へば、岩に刻まれた意味不明の碑文でも現れたら、誰も「見るともなく、読ともなく、うつら\/と」詠ながめるといふ態度を取らざるを得まい。見えてゐるのは岩の凹凸ではなく、確かに精神の印しだが、印しは判じ難いから、たゞその姿を詠めるのである。その姿は向うから私達に問ひかけ、私達は、これに答へる必要だけを痛感してゐる。これが徂徠の語る放心の経験に外なるまい。古文辞を、たゞ字面を追つて読んでも、脚註を通して読んでも、古文辞はその正体を現すものではない。「本文」といふものは、みな碑文的性質を蔵してゐて、見るともなく、読むともなく詠めるといふ一種の内的視力を要求してゐるものだ。特定の古文辞には限らない。もし、言葉が、生活に至便な道具たるその日常実用の衣を脱して裸になれば、すべての言葉は、私達を取巻くそのやうな存在として現前するだらう。こちらの思惑でどうにでもなる私達の私物ではないどころか、私達がこれに出会ひ、これと交渉を結ばねばならぬ独力で生きてゐる一大組織と映ずるであらう。これが、徂徠の「世ハ言ヲ載セテ以テ遷ル」といふ考への生れた種だと合点すれば、歴史の表面しか撫でる事が出来ないのは、「古書に熟し不レ申候故」であるといふ彼の言分も納得出来るだらう。(小林『本居宣長』/三浦「孤独の発明」本篇・6・p.355より援引。傍線部再引用者)

 

 こりゃ、もうネタバレっていうか、用法間違ってますけど、まさにここですね、ネタは上がってるんだ、ていうか、これも用法が間違ってますけど、要するにここです。

 すなわち「「内的視力」へと収斂する「放心の経験」」(三浦「孤独の発明」本篇・6・ p.355ですね。

 ぶっちゃけ、これって、ブルース・リーが『燃えよドラゴン』1973年・香港アメリカ合作)で言った「考えるんじゃない、感じろ」と同じじゃんと言ったら言い過ぎですか? ま、いいんすけどね。

 結局のところ、「『本居宣長』を最後まで読んで引き返してみれば、徂徠の放心をめぐる記述が、『本居宣長』全体の核心に位置することが分かる。」(三浦「孤独の発明」本篇・6・p.356ということになります。

 

2 「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ」

 

  さて、であるにしても、つまり、『本居宣長』の中心テーマが「凝視と放心」だとしても、中也はどうなったんだ、ということになります。

 そうですね。

 なんかあれみたいですけど、小林の冒頭部分なんですが、割と多くの人たちは、――すいません、印象論です、数えた訳ではありませんが、宣長の遺言書、――自身の墓の指示ですね、ここから書き始められて、最後もそこに戻るという構造になっているんですが、『宣長』冒頭と言えば、その遺言書の話から持ってくる人が多いような気がする、――気がするだけです。

 実際、三浦さんもこう書いています。

 

 『本居宣長』は、自身の墓を指図する宣長の遺言書から書き始められている。最初のこの死をめぐる記述が、最後の、同じように死をめぐる記述、とりわけ『答問録』の宣長の言葉「此世に死ぬるほどかなしき事は候はぬ也」をめぐる記述で終わっていると見ていい。(三浦「孤独の発明」本篇・6・p.353

 

 もちろん、本題としてはそうなのですが、実際には小林が、民俗学者・国文学者の折口信夫を訪問する話から始まっていることは子供でも分かることです。ま、子供は小林の本など読みませんが。

 で、そこの下りで折口が小林にこう言うシーンがあります。

 

「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」(小林秀雄『本居宣長』)

 

 というのがポツンとあって、遺言書の話になる。これは一体何か? この一行は一体何を意味しているのか? このことに触れた方っていらっしゃるんですかね。実は何人かいるんですが、わたしの不勉強この上ないのですが、わたしの知る限りでは当時批評家だった柄谷行人さん、詩人・思想家の吉本隆明さんは宗教人類学者の中沢新一さんとの対談で、また折口の最後の弟子とも目される岡野弘彦さんなどが触れています。

 わたしとしても、この『源氏物語』への、この冒頭での、なおかつ折口の言葉として触れられていることは極めて重要ではないかと思っています。

 つまり、『宣長』本文の中でも『源氏』について触れたところは大変重要なんだぞ、という意味ではないでしょうか。

 では、『源氏』と言ったら何ですか。そりゃ、光源氏ですよね、まー主人公ですからね。お読みになったことあります? まー、長いしね、種々現代語訳も出てますから、ぜひお読みになってください。あの、実は漫画も、――そうそう、そうなんです、大和和紀やまとわきさん、あの『ハイカラさんが通る』を描いた方ですね、その方が『あさきゆめみし』(1979年~1993年・全13巻・講談社コミックスmimi)との題で『源氏物語』全巻をほぼ忠実に漫画化されています。現代語訳でも大変だ、という人は是非こちらを。漫画だと言って馬鹿にしてはいけません。大変な高密度で『源氏』の世界を再現されています。もう一つは、現代語訳でも途中で討ち死にされる方が多くいらっしゃるのですが、なんと言っても、『源氏』は最後まで読まなければ駄目なんです。最後までぜひ読み切って欲しい。漫画だと、或る一定のスピードで読み進めることが可能です。きっと最後まで読める筈です。とにかく面白いですから。

 そこで、『源氏』なんですが、主人公は確かに光源氏なんですが、なんつーか、超ウルトラ・デラックス・エクゼクティヴ・スーパー・マンな訳ですよ。ま、そこがいいんじゃない、ということになるんですが、なんて言うんですかね、サイボーグみたいで、おめーはほんとに人なのか、とかも思う訳です。

 臨床心理学者の河合隼雄さんも同じようなことを言っていて、実は主人公は作者の紫式部だとまで言ってますが*、まー要するに感情移入が難しいということなんでしょうね。

 

*河合隼雄『紫マンダラ――源氏物語の構図』(2000年・小学館・p.2

 

 ところが、これは多くの方々が仰ってると思いますが、『源氏』の最後の10章は、光が死んだ後の話で「宇治十帖」と言います。後日談のようなものですから、オマケみたいなもんじゃんて思うかも知れませんが、豈図らんや、ここに至って物語の本題に入る訳です。むしろ作者・紫式部はここが、とりわけ、ここの女主人公である浮舟の運命こそ書きたかったのでは思わされます。これは読めば分かりますが、本篇と「宇治十帖」はもしや、別人が書いたのではと思わされるほど、色調というか、トーンが違います。こういう言い方が正確かどうか分かりませんが、人物の心情や個性に彫があってとても近代小説の印象を残します。それに比べると、本篇は崖かなんかに描かれた壁画のような、あるいは絵巻物のような感じもします。この問題は、これはこれで、極めて重要な問題なので、生きていたら、あ、わたしがね、生きていたら別稿にて論じたいと思います。

 それで、この「宇治十帖」なんですが、光の息子である薫大将と、匂宮(におうのみや)と、これは女性ですが、浮舟との愛のトライアングル、つまり、三角関係ですね、――ま、この辺も近代的な恋愛を想起させてしまうところですが、だって、父ちゃんの光は夜な夜な次から次へと女をとっかえひっかえ渡り歩いていたわけですが、後の正妻となる紫の上に至ってはまだ幼女の時に光が拉致してくる訳ですから変態的犯罪者ですよね。ま、時代が時代だったというか、ま、これライオンとかチンパンジーの群れの話なんだと思うと、うん、まー、しょうがないいね、動物だからってなりますけど、「人間だから  光源氏」。

 あの、これは見た訳じゃなくて聞いた話なので、あれですが、かつてSグループの創業者、S議長もされてましたT氏は、なんだか同じようなことをされていたようです。――ま、聞かなかったことにしてください。

 ところが、薫も立場的に全く同じことをしてもいいはずなのに、――ま、それ以前にいろいろやってるんですが、浮舟を知ってからと言えば、薫は浮舟オンリーなんです(厳密に言うとそうでもないが、そう読める)。でなおかつ匂宮というライヴァルまでいる始末です。凄くないですか。この世代間格差はどういうことなんでしょうか。

 そもそも、薫も匂、――どんな名前やん? も同じ意味ですから、双子のようなものです。あるいは同一の人格が別の人格として、あたかも光と影のように、表と裏のように現れているとも考えられます。ここも詳しくは別稿で。

 で、そんなこともあり、浮舟は二人からの熱烈なラヴ・コールにどちらか一人を決めることができないのです。でもって、結局、なんだかんだあって、浮舟は投身自殺をするのですが、お坊さんに助けられて、お寺に引き取られて、欲望を全きするこの世はダメじゃ、ダメじゃと言いたいのか、あー? というところで全巻完結となるんですが、もー、これは凄いです。泣きます、嘘、泣きません、泣きませんが、読んだ後、なんか心が右斜め45度ぐらいに捩れます。で、うーーん、なんかなー、とか呟きます。まー、そういう物語なんですが、小林はこれをどう読んだのでしょうか。

 多分、『宣長』連載開始の頃、小林は保守の領袖のように思われていたわけで、宣長、国学、『古事記伝』、日本の伝統の復活とかそういう勇ましいというか、きな臭いというか、そういう文脈で捉えられていたかも知れませんし、今でも小林をそっちの方向の人で、そっち側で担ごうとしている方々もいると思います。ま、否定はしませんが。

 でも、そじゃくて、宣長は『源氏』ですよ、ということは、そういう勇ましい方向の話ではなくて、むしろ、女々しい話であって、それがすなわち「もののあはれ」ということなんじゃないですか。参考までに先ほど言及した、中沢新一さんと対談での吉本さんの発言を引いておきます。 

 

 吉本 宣長の言う「もののあはれ」を小林秀雄は馬鹿にしていない。『本居宣長』の冒頭に、折口信夫の自宅をたずねたときに「本居さんはね、やはり源氏(物語)ですよ」と言われたと書いています。それはそうだと思います。やはり、宣長の源氏論といえば、「もののあはれ」を最上位に置く。だから、確かに宣長のいうとおりであって、折口信夫も同じなんですが、それをより文学的な意味で論理的に「何と言っても『もののあはれ』が第一だよ、文学はこれだよ」と言いたかったんだと思います。そして、小林秀雄も自分自身のしごとの総決算として、当然「もののあはれ」へと向かう。(吉本隆明『親鸞の言葉』2019年・中公文庫)

 

 もちろん、小林にとっても、「宇治十帖」こそ『源氏物語』の中心であって、「もののあはれ」を最も体現したものだったのです。三浦さんは小林の「宇治十帖」への関心の具合、それも強烈なそれを以下のように展開しています。

 

 『源氏物語』は「宇治十帖」あってこそ、と考えるものは少なくない。宣長は「宇治十帖」もまた紫式部の作であると断言しているが、当然だろう。「宇治十帖」を読むと、『源氏物語』が、古代物語の世界から中世、近世を駆け抜けて、現代小説の世界にまで達していると思わざるをえない。小林は正宗白鳥の「宇治十帖の如きは、形式も描写も心理も洞察も、欧州近代の小説に酷似し、千年前の日本にかういふ作品の現はれたことは、世界文学史の上に於て驚嘆すべきことである」という言葉を引いている。

 小林自身そう考えていたことは、浮舟について語り始めるやいなや『源氏物語』にじかにのめり込んでしまうことからも分かる。当然のことながら、それまでは宣長の論の紹介に主眼が置かれているのが、浮舟だけは小林自身が身を乗り出すようにして描いているのである。宣長の船からいっしか式部の船に乗り移ってしまっている異常な執心といわなければならない。(三浦「孤独の発明」本篇・6・p.361。傍線引用者)

 

 これは何故でしょうか。

 もちろん、白鳥が言うように「宇治十帖」が作品として優れていたからに他なりませんが、果たしてそれだけでしょうか。これはもちろん人によって観方は異なるでしょうが、三浦さん的には「浮舟だけは小林自身が身を乗り出すようにして描いている」と見えるのですが、少なくともわたしにもそう読めます。確かに「異常な執心」と言える事態ですね。一体ここに何があるのか?

 そこで、三浦さんは小林が注目している箇所として「手習てならい」から次の一節を掲げます。

 ちょっと、話が前後して恐縮ですが、「宇治十帖」のラストが「(ゆめ)浮橋(うきはし)」で、ここで全てが終わるのですが、そのひとつ前の章が、この「手習」です。手習いというのは一般的には習字、その稽古、そこから転じて、お稽古事一般を指します。

 前章「蜻蛉(かげろう)」で入水自殺をしたものの、横川の僧都に助けられ、僧都の妹の尼に庵に引き取られている下りです。

 

 夜半(よなか)ばかりにやなりぬらんと思ふほどに、尼君しはぶきおぼほれて起きにたり。灯影(ほかげ)に、(かしら)つきはいと白きに、黒きものをかづきて、この君の()したまへるをあやしがりて、(いたち)とかいふなるものがさるわざする、(ひたひ)に手を当てて、(母尼)「あやし。これは(たれ)そ」と、執念(しふね)げなる声にて見おこせたる、さらに、ただ今食ひてむとするとぞおばゆる。鬼のとりもて来けんほどは、ものおぼえざりければ、なかなか心やすし、いかさまにせんとおぼゆるむつかしさにも、いみじきさまにて生き返り、人になりて、また、ありしいろいろのうきことを思ひ乱れ、むつかしとも恐ろしとも、ものを思ふよ、死なましかば、これよりも恐ろしげなるものの中にこそはあらましか、と思ひやらる。(紫式部『源氏物語』/三浦「孤独の発明」本篇・6・ p.362より援引)

 

と引いても、にわかには理解が難しいと思うので、同じ箇所の与謝野晶子の現代語訳を載せておきます。ちなみに、『源氏』の現代語訳は10種類前後あるとは思いますが、青空文庫で読めるのは与謝野源氏だけです。

 

 夜中時分かと思われるころに大尼君はひどい(せき)を続けて、それから起きた。()の明りに見える頭の毛は白くて、その上に黒い布をかぶっていて、姫君が来ているのをいぶかって()(たち)はそうした形をするというように、額に片手をあてながら、
「怪しい、これはだれかねえ」
 としつこそうな声で言い姫君のほうを見越した時には、今自分は食べられてしまうのであるという気が浮舟にした。幽鬼が自分を伴って行った時は失心状態であったから何も知らなかったが、それよりも今が恐ろしく思われる姫君は、長くわずらったあとで蘇生(そせい)して、またいろいろな過去の思い出に苦しみ、そして今またこわいとも(おそろ)しいとも言いようのない目に自分はあっている、しかも死んでいたならばこれ以上恐ろしい形相(ぎょうそう)のものの中に置かれていた自分に違いないとも思われるのであった。(与謝野晶子『全訳源氏物語』 下巻・1972年・角川文庫/ウェブサイト『青空文庫』より援引)

 

ん? ここ? 何これ? という感じがしますが、わたしもします。

 ですが、小林はこう言っています。

 

 これだけの文章でも、熟視するなら、この全く性格を紛失して了ったやうに見える浮舟を、生き生きと性格附けてゐるのは、式部の文体そのものに他ならぬと合点するだらう。浮舟が、痛切に明瞭に感じてゐるのは、「生き出でたりとも、怪しき不用の人」といふ意識なのだが、式部の表現のめでたさが証してゐるのは、むしろ、小さな弱い浮舟を取って食った、作者の大きな強い意識そのものの姿である。浮舟は、それから逃げられない。こんな女にも生きる理由がある、と作者が信じてゐなければ、「手習」も「夢浮橋」も書かれた筈がない。浮舟は、この、自分には定かならぬ理由によつて、たど/\しい自己表現を強ひられるのだが、「手習」といふ象徴的な題名の示す通り、彼女の述懐も、詠歌も、読経さへ、無心な子供の「手習」の如き形を取らざるを得ない。そして、浮舟自身は何にも知らないが、この「女童のごとく、みれんに、おろかなる」女の(ココロ)は、世間に生きる理由を、よく心得た大人達の、「(ココロ)のあるやうを」「くもりなき鏡にうつして、むかひたらむがごと」き姿をとつてゐるのである。(小林『本居宣長』/三浦「孤独の発明」本篇・6・ p.362より援引。傍線部再引用者)

 

3 浮舟と中也

 

 ここも一読すんなり納得できるわけではないのですが、「手習」という「象徴的な題名」に誘発されたためでしょうか、「無心な子供」、あるいは「女童」という言葉で浮舟が象徴されています。

 これはあるいは偶然というかこじつけなのかも知れませんが、中也の詩は、小学生が書いたような、ということはありませんが、少なくとも字面だけは小学生、子供でも理解できる、そういうオウプン・フィールドの詩でした。

 そして、さらに、この浮舟を論じた『本居宣長』第十五章、すなわち連載第十五回ですが、これは1967年の『新潮』10月号に掲載されたものです。実はこの年のこの月、先にご紹介した『中原中也全集』の内容見本がリリースされた時と一緒のときなのです。三浦さんはこう言います。

 

だが、両者の類似は執筆時期が同じだったからだ、などと言ってはならない。逆だ。 

 小林自身、中也と浮舟の類似に気づいて驚愕したのである。だからこそ、中也を語っては「お手本の輪郭をなぞる無心な子供の手つき」といい、浮舟を述べては「無心な子供の『手習』の如き形』という、まったく同じ形容を採用したのだ。書いてしまえば無意識などありえない。小林自身、むしろ明らかにしたかったのである。「不思議な事だ」とは、まさに文字通りのことであっただろう。

 小林の眼前で、おそらくはほとんど不意を打つように、中也が浮舟を照らし出し、浮舟が中也を照らし出してしまったのだから。(三浦「孤独の発明」本篇・6・p.p.363-364 

 

 つまり、『本居宣長』の中心的なテーマは「凝視と放心」に他ならない、そして、実はそのテーマは若き日に喪った親友、と言ってよいかわたしには分りませんが、中原中也の詩から受け取っていたものだった、と簡単にまとめれば、以上のような次第になります。

 さて、では、そのことをどう考えるか、ということになります。

 まとめてみれば、なーんだ、そんなことか、と仰る方もいるでしょう。だから何なんだ、という訳ですね。

 一つは、実はこの「凝視と放心」、約めてしまえば「幽霊」の問題として、現代文学に現れているぞ、ということになりますが、そりゃそうかも知れないけど……という訳で、現代文学の側から言えば、勝手にどうぞ、というところかも知れません。小林なんかもうかんけーねーよ、ということですね。

 いやいや、ま、かんけーねーかも知れませんが、実はこの問題、結構奥が深いのです。

 小林は小さな林と書きますが、いやとんでもない、結構大きな森でした。ヤバいす。マジヤバいす! この小林と名付けられた大きな森の、さらに奥へと進んでいきたいと思います。

 

 

12 大江健三郎-ブリス・パラン-カヴァイエス-ゲーデル

 

1 大江健三郎

 

 ここで、満を持して大江健三郎さんが登場します。大江さんは言うまでもなく、日本人で二人目のノーベル文学賞1994年)を受賞された方ですが、現段階で言えば、2013年の長篇小説『晩年(イン・レイト)様式集(・スタイル)  (講談社)を最後に新作の発表がなく、まさに「最後の小説」となっていて、翌2014年には生存者であるにも関わらず岩波文庫から『大江健三郎自選短篇』が発刊されました。そういう規定があるのかどうか知りませんが、岩波文庫は原則「古典」「スタンダード」となるものが収録される訳で、その意味では生存者のため、未だ評価の定まっていない作品のために岩波現代文庫がある訳なので、既に「古典」とお墨付きをもらったようなものです。さらに2018年から19年にかけて、第3次小説作品集となる『大江健三郎全小説』全15(講談社)が刊行されるに至っては、あー、こりゃ、もうけつまくって(失礼)、引退ということなんだな、と思っています。もうね86歳ですからね。

 で、大江さんと小林は東京大学のフランス文学で先輩、後輩の関係にありますが、政治思想的には正反対の位置にいると考えられてきました。

 丁度小林が亡くなったとき、1983年3月1日のことですが、どの文芸誌も追悼の特集を組んだり、追悼特集号を出しました。その中の1つ、『新潮』に大江さんは「「運動」のカテゴリー――小林秀雄」という追悼文を寄稿しています。

 1980年、正宗白鳥の文学碑が、岡山に建つ機会に小林、安岡章太郎、そして大江さんの3人が講演旅行をした思い出話から始まっています。ちなみに小林の絶筆は「正宗白鳥の作について」という評論でしたが、そもそもは若気の至りなのか、分かりませんが、1936年にトルストイの家出の評価を巡って白鳥との間で「思想と実生活論争」という論争が起こっていました。

 さて、問題は次の下りです。

 

 小林氏はそれまで安岡氏と機嫌よく話していられたが、今度は僕の方に向かれて、言語論の話をされた。また自分はこの現実世界の事物は実在せず、実在するのはそれらを認識するこちらの意識だ、という考え方をはじめている、といわれた。後半については、僕がよくフォローできぬのを見てとって、話を続けることはされなかったが。 

 (中略)

 この旅のすぐあと、小林氏からブリス・パランの “Recherches sur la nature et les fonctions du Langage(ガリマール刊)他がとどき、僕は小林氏の話された言語論の――それはつまり僕が言葉の端ばしにのぞかせたにちがいない構造主義者の言語論への、大きい展望に立つ批判だが――根拠を納得した。僕は渡辺先生や学者である友人の影響もあり、原書には徹底して傍線を引き、書きこみをする。とくに僕の語学力ではそうしなければ、後日利用できぬから。小林氏の読まれた本に辞書からの書きこみは一切なく、わずかな箇所に、肉太の万年筆の線があった。そしてそうしたどの箇所も、すぐさま小林氏の文体をとって脳裡にきざまれる文章なのであった。(大江健三郎「「運動」のカテゴリー――小林秀雄」/三浦「孤独の発明」本篇・7・p.p.310-311より援引。傍線再引用者)

 

 

2 ブリス・パラン

 

 つーか、ブリス・パランて誰やねん、という人が大半だと思いますが、大丈夫です、(いや、だいじょばないか?)わたしもよく知りません。

 問題になっているのは「この現実世界の事物は実在せず、実在するのはそれらを認識するこちらの意識だ」という考え方ですが、つまりは言葉で、言葉の意識で世界を見ているということですね。いや、そんなこと言ったって、今目の前のこのレジュメのプリントだって、あるじゃん! 何だかよく分からない文字が書かれているノートだってあるじゃん! 右手にいつもあるスマフォだってあるじゃん! て思いますよね。わたしだってそう思います。そりゃそうなんです。でもね、今言ったのは全部名前が付いていることに気づきましたか。つまり、名前が付いているから、存在し、われわれは認識し、使用も、あるいは破壊もできる訳ですね。

 ところがですね、(と言ってホワイト・ボードに以下のものを描き始める)これ何ですか?

 

【図 「これ何ですか?」】



 

 これ何ですか? 

 ――やだなー、これは「ジュptsttてじょ」、じゃないですか。知らないんですか。全くもー。

 ――というのは冗談で、こんなものはないです。もし、これが道端に落ちていても、何も思いませんよね、つまり、存在しないと同じなのです。でも、これにきちんと名前を付けてあげたら、まー、何に使うか分かんないですが、存在するんです。

 ま、でもよく見ると崩れかけたド〇え〇んに見えなくもない。いや、畑仕事を途中で突如挫折して、人生の諸問題を考え始めた麦わら帽子を被った農夫のようにも見えるぞ、ってロール・シャッハ・テストか?

 てなわけで、さっきの小林の考えを滅茶苦茶平たく言うとそういうことになります。

 で、さっきの誰やねん、と言ったブリス・パランに戻りますが、日本語に翻訳されているのは小林が大江さんに送った本ともう一冊のたった2冊だけです。小林が送ったのは、直訳すると『言語の性質と機能についての研究』ということになりますが、『ことばの思想史』(三嶋唯義訳)という邦題で1972年に大修館書店から刊行されています。

 実際問題、パランの名前はジャン・リュック・ゴダールの映画『女と男のいる舗道』1962年・フランス)に「哲学者」という役で出演していることの方が有名かも知れません。三浦さんもその台本を引いて、展開していますが、そこは端折ります。

 そもそも、先のパランの『言語の性質と機能についての研究』、つまり『言葉の思想史』ですが、1942年に刊行されたものですから、言っちゃなんですが、めっちゃ古いやん、というものだった訳です。小林が大江さんに送った実物が古かったかどうかではなくて、――ま、実際古かったんでしょうが、言語学史的に見て、そりゃないだろうというぐらい考え方が古かったはずなのです。ところが大江さんは「納得した」と言っているのです。三浦さんはこう言っています。

 

 大江は、「僕は小林氏の話された言語論の――それはつまり僕が言葉の端ばしにのぞかせたにちがいない構造主義者の言語論への、大きい展望に立つ批判だが――根拠を納得した」と書いているが、この納得については多少の説明を要する。パランの本が刊行されたのは、四二年、実存主義が流行の兆しを見せはじめた頃のことであって、当時は構造主義など姿かたちもなかったからである。 

 おそらく大江には、はじめは小林の語る言語論が古臭いものに響いたに違いない。そこには、ソシュールはもとより、レヴィ=ストロースも、バルトも姿を現わさないのである。だからこそ、小林の説を拝聴しながらも、「構造主義者の言語論」を「言葉の端ばしにのぞかせた」、つまり遠慮がちにではあれ批判的な言辞をものしたのである。

 大江は、七〇年代、岩波書店の組織した、哲学者の中村雄二郎や文化人類学者の山口昌男らを中心とするサロン「例の会」の常連だった。山口昌男はレヴィ=ストロースの、中村雄二郎はミシェル・フーコーの代理人のようなものである。そこでは構造主義とポスト構造主義が常識だったのだ。『テル・ケル』の若い愛読者が『NRF』の老いた愛読者に対面したようなものだ。いや、小林の語る思想は、それよりもさらに古い、極端な観念論に響いたに違いない。だが、小林が送ってくれたパランの本を読んで、大江は構造主義はもとより、ポスト構造主義さえも、あらかじめ批判されていたに等しいことを知り、その言語論に納得したというのである。大江の書いているところを素直に読めば、そういうことになる。(三浦「孤独の発明」本篇・7・ p.318。傍線部引用者)

 

 つまり、古めかしいと思っていた、時代遅れだと思っていたところ、意外に新しかった、いや新しいというよりも、より根源的だったと目を啓かれた、ということでしょうか。

 ちなみに引用文中にある『テル・ケル』も『NRF』もフランスの批評誌です。文脈的にお分かり頂けると思いますが、前者が新しくて、後者が古いですね。『テル・ケル』は「あるがまま」という意味、『NRF』は「La Nouvelle Revue Françaiseですから「新フランス評論」ということです。どうでもいいですが、読み方は「エヌ・アール・エフ」ではなくて、「エヌ・エル・エフ」あるいは「エネレフ」と読みます。知ってるとちょっとかっこいいですね。ま、だから、日本風に言うと、『ゲンロン』を読んでいる読者と、例えば、岩波の『思想』を読んでる読者とは話が嚙み合わないとかそういうことです。

 

3 ジャン・カヴァイエス、あるいはクルト・ゲーデル

 

  さて、このパランの『ことばの思想史』ですが、実はある書物からの影響、刺激によって書かれたものです。もちろん、どんな書物にも、そういう影響関係はありますが、パランの場合はいささか異色です。数理哲学者ジャン・カヴァイエスの『公理的方法と形式主義』1938年)がそれです。1934年フランス哲学会でのカヴァイエスの報告「数学的思考」についてもパランは註の中で明記しているそうです。

 では、このカヴァイエスの著書は何をどういう風にパランに影響を与えたのでしょうか。三浦さんはこう言います。

 

 カヴァイエスの『公理的方法と形式主義』は、単刀直入に言えば、三一年に発表されたゲーデルの不完全性定理への、きわめて素早い、そして的確な反応にほかならなかった。そしてパランの『ことばの思想史』は、表向きにはいっさい述べていないが、ゲーデルの不完全性定理こそ、言語論の核心に潜む問題であることを論証しようとした書物にほかならなかった。これが、小林がパランに惹かれた理由であり、『感想』を書き、『本居宣長』を書いた理由であったと思える

 小林がどの段階でパランの原書を手に入れたかは分からない。洋書の輸入が解禁になった戦後の早い時期だろうが、いずれにせよ事実はどうにでもなる。小林の仕事の意味を理解するに、カヴァイエスに対するパランの反応を傍において考えるのが好都合ならば、いずれそれが事実になるだろう。パランが『ことばの思想史』を刊行した頃、小林は『無常といふ事』を書いていた。西行の「まどひきてさとりうべくもなかりつる、心を知るは心なりけり」は、それらエッセイの中心となる歌である。心で心を知ることはできるか、は、言葉で言葉を知ることはできるか、という問いと同型である。(三浦「孤独の発明」本篇・7・ p.319。傍線引用者)

 

 さあ、段々分からなくなってきましたね、ま、そこ、ちょっと頑張ろう。

 ここの下りは、カヴァイエスについては一旦措いておいて、ゲーデルの「不完全性原理」が問題なのです。

 あの、エッシャーって知ってますよね。そう、あの不思議絵の人ですね。堂々巡りになるやつです。これとかそうですね。

 

【図 エッシャー「相対性」(1953年)】



 

 丁度今を遡ること40年ほど前(ゲロゲロ)1980年代初頭ですが、何故か多くの学生たちが何だか難しい本を突然読み始めました。世に言う「ニューアカ」、「ニュー・アカデミズム・ブーム」ですね。その時、いろんな本が売れたり、読まれたりしたんですが、その中の一冊のダグラス・ホフスタッターという人が書いた『ゲーデル・エッシャー・バッハ』(1979年/1985年・野崎昭弘・はやしはじめ・柳瀬尚紀訳・白揚社)というやたら分厚い本があって、そこそこ売れたようです。つまり、バッハは一旦措くとして、ゲーデルの言っていることは、このエッシャーと似ていると考えると、一旦比喩的には分かり易いと思います。

 本当はやたら複雑で、簡単には言えないんですが、そこを簡単に言ってしまうと、或ること「AはBだ」を証明しようとすると、では「Bとは何か?」を証明することになり、「BとはCだ」、では「Cとは何か?」、「CとはDである」となり……という具合に、ある有限の条件のもとではAが何なのかを証明できない、ということをゲーデルが言ったというもので、1931年に発表後、数学界はもとより、というよりも、数学界は余り事の重大さを受け止めておらず、むしろ、哲学や文学などの人文学の世界に多大な影響を与えたものです。

 要は以前も紹介したように、これは嘘つきパラドックスと同じ構造を取っている訳ですから、位相を一つ上に上げた第三者、例えば神様とかですね、これを持ってこないと自己言及の迷路に沼るという訳です。

 

4 「批評」ではなく「感想」

 

 したがって、繰り返しになりますが小林にとってみるとまさに事の発端からこの問題にぶつかっていて、それが晩年に至るまで引きずられていたことが分かります。

 何かを考えたり、思ったりする自分の心がある。この自分の心を、自分の心で何か判断することはできるのか。

 あるいは、なにか作品を批評する。同じ人間の作ったものを、同じ人間の視線で批評できるのか、とまーそういうことですね。

 それができるのは結局「神様」だけではないか、と。

 小林は、志賀直哉の「小説の神様」に準なぞらえて、「批評の神様」と尊称されたり、揶揄されたりしましたが、小林的には、いや、とんでもない、もう入れません、ということかどうか分かりませんが、自らの批評の何篇かを「批評」ではなくて、「感想」と題したのも、それなりの故あってのことではないかと思います*

 

*小林の「感想」については、文芸評論家の島弘之さんの『感想というジャンル』(1989年・筑摩書房)という先行論著がありますが、最近お見かけしないなと思っていたら、惜しくも56歳という若さで、2012年にお亡くなりになっていました。大変、残念なことです。ご冥福をお祈りいたします。

 

 ちなみに、小林が「感想」という題名で文章を書いたのはおよそ20篇あります*が、もちろん、この中に、例のベルクソン論も入っています。

 

*純粋な「感想」という題名のみだと17篇となります。題名がいささか異なる①③④以外は全集内容見本に従って、冒頭のフレイズを掲げました。

193011月(ただし題名は「我まゝな感想」)

193012月(毎月雑誌に…)

1935年1月(ただし題名は「選後感想」)

1938年7月(ただし題名は「従軍記者の感想」)

1940年4月(社会主義の…)

1941年1月(或る日、僕は、正倉院…)

194810月(芥川氏の作品は…)

1950年1月(相州の…)

195011月(ジイド全集に…)

1951年1月(一年の計は…)

1951年1月(武蔵野夫人を…)

1951年1月(「群像」の正月号に…)

1951年1月(「中央公論」の正月号の

1955年4月(先日、ディズニーの…)

1955年9月(私は、書いて…)

195711月(現代人を…)

1958年(終戦の翌年…)「ベルクソン論」

1967年6月(先輩や知人の…)

1967年9月(「牛部屋の臭ひ」と…)

1978年1月(「玉勝間」の中に…)

 

 

  で、最初に、この「感想」という題で書かれた文章は、われわれが知りうる限りでは193012月の『時事新報』に発表されたものです。小林が「様々なる意匠」で文壇デビューしたのが前年1929年の9月のことですから1年半後ということですが、もうこの段階で、小林は「批評」に対して、どちらかと言えば肉体的な批判、というか愚痴のようなものを並べています。面白いので、いくつか引いてみます。

 

  毎月雑誌に、身勝手な感想文を少し許ばかり理窟ぽく並べ並べして来ている内に、いつの間にか批評家という事になって了しまった。批評家などと(いや)な名称である(小林秀雄「感想」/『小林秀雄全作品』2「ランボオ詩集」・2002年・新潮社・p.213。傍線部引用者)

 

 もう、開口一番がこれです。小林の時代もそうだったのかはにわかには判断が尽きませんが、そもそも「批評家」とか「評論家」というのは、自分では具体的には何もせず、他人の振舞の揚げ足を取る人のことですね。それは確かに「厭な名称」です。「感想」、あるいは「感想文」の用例の起源がいつ頃にあるのかも、ちょっと分かりかねますが、少なくとも古語辞典には「感想」という言葉は載っておらず、漱石などにその用例があるところを見ると明治の半ばから末ごろには今と同じような使用法だったようです。また「感想文」というと、現在のわれわれの感覚で言うと、学校などで行われている「読書感想文」などを想起しますが、これも起源が不明で、小林の頃、既にそのような習慣があったのかどうかも不明ですが、――すいません、今度迄に調べておきます、小林の口調から推測すると、子供じみた「感想文」を少しばかり理屈を並べて難しくしてみたが全く嫌な仕事だ、ということになります。自分の書いているのは要は児戯に類するとでも言いたげです。したがってこうなります。

 

 私は嘗かつて批評で身を立てようなどとは夢にも思った事がない、 今でも思ってはいない。文芸批評というものがそんな立派な仕事だとは到底信ずる事は私には出来ぬ(『小林秀雄全作品』2・p.216。傍線部引用者)

 

とまで言うのです。これは小林の実感だったでしょうね。なぜ、そうかと言えば、

 

 人を((ほ))めても、くさしてもあと口はよくないものである。批評は己れを語るものだ、創作だ、などと言ってみるが、所詮得心のいくものじゃない。あと口をよくしようなどとは思わぬ、今によくなるだろうとも思わぬ。人の事を兎とや角かく言う事がそもそもつまらん事なのだ(『小林秀雄全作品』2・p.217。傍線部引用者)

 

 

 「くさす」というのは「腐す」で、人のことを悪意を持って貶けなす、貶おとしめることです。他人のことを褒めても貶しても、いずれにしても他人のことをあれこれ言うこと自体が下らない、という訳です。つまり批評そのものが下らん、と言っているに他ならない訳ですが、じゃあ、という訳で開き直って「批評は己れを語るものだ」という小林の、ほとんど名刺代わりというか、代名詞とも言うべき有名なフレイズが出てきますが、それすらも「得心」、つまり納得がいかないとまで言っているのです。

 それは何故なのか? ある対象があって、それがいいとか、悪いとかいうのが何故これほどまでに難問を含んでしまうのか、という問題なのです。

 ふざけたような文章ですが、――どういう文脈で、どういう形で掲載されたものかは分かりませんが、掲載紙である『時事新報』は、今となっては知る人も少ないでしょうが、かの福澤諭吉「大先生」の創刊になるもので、戦前の「東京五大新聞」*の一つと呼ばれていた由緒正しい「家柄」の日刊紙でした。それにしては随分な書きぶりですね。

 

*「東京五大新聞」は以下の5紙。東京日日新聞、報知新聞、時事新報、國民新聞、東京朝日新聞(森銑三『明治東京逸聞史』1・1969年・平凡社・p.147)。

 

 いずれにしても、小林はこんなやけっぱちの書き振りでも当然のことながら、事の次第はよく分かっていました。

 

 言葉というものは口を洩れてこの世に記号として存在した瞬間に、この言葉を発言した肉体との縁は切れるのだ。縁が切れるから各人様々な意味をこめて喋しやべった言葉は、結果として区別のつけられぬ同じ文字として眼前にある始末になる。この面倒な事実が文芸批評家の前にある。批評される作品は、その作者に関する真理とその読者に関する真理と、二つの完全に溶け合わない世界をいつも提出している。作品を眺めて正直にものを言おうとすれば、どうしてもこれに引っかかる。だからこそ文芸批評とは何かという議論は絶えまいし、又言うは易やすく行うは難かたいなどという昔乍ながらの格言が百千の理窟よりは批評家にとって一番教訓的な言葉になるような仕儀にもなる。(『小林秀雄全作品』2・p.p.216-217。傍線部引用者)

 

  一旦発表された言葉、文章は著者の元を離れて、フラットな活字の世界に入る、つまりテキスト、テクストですね。だからそうなっちゃえば、もう何を思おうが、それについて何を言おうが、読者の勝手ということになります。こうなりゃこっちのもんだ、へっへー、という訳ですが、しかしながら、ほんとに作者は死んでいるのでしょうか? 無論、作者が考えた構想やら主題などあてにはなりません。しかし全くのゼロ、ということはないはずです。作者は、作品いついてこう語っているが、実はそこで語らえていないことが重要だという論法は小林のよく使う技ですが、でもそういうことですよね。

 ま、そんなこんなを考えたりしていると、批評するのは簡単だけど、実際に作品を書くのは大変なんだ、という事実の前に沈黙せざるを得ないのですが、それを言ったら批評だって立派な作品であって、書くのは大変なことになってしまいます。

 というような堂々巡りが蜿蜒とここに生じて、もう批評じゃないよ、「感想」で十分だ、というようなことになりますが、この小文の最後は以下の一文で終わっています。

 

 どうなる事やら。(『小林秀雄全作品』2・p.217

 

 全く人を喰った話ですが、小林、弱冠28歳の率直な気持ちだったと思います。

 

13 ポアンカレ-パスカル-中原中也

 

 話しが逸れました。それ過ぎたと言ってもいいかもしれません。戻します。

  何の話だったか。そうそう、ゲーデルの「不完全性定理」ですね、このことがあったが故にパランの『ことばの思想史』にも関心を持ち、「感想」も『宣長』も書かれたのだ、というところでした。

 さて、この下りも佳境に入ってきました。連載では第8回となりますが「孤独と無限」という章見出しが掲げられています。実は蜿蜒と同じ内容が繰り返されている訳ですが、わたし個人の感想を言うとこの連載第8回が本連載のピークです。超ウルトラ極端に言うと、ここで終りでも差し支えなかった。

 むろん、それ以降が下らないという訳ではありません。構成上の問題ですね。テーマは全く同じで「凝視と放心」なのですが、――後に、三浦さんは、仮に、ということで本連載、つまり「孤独の発明」本篇を「孤独の発明 または彼岸の論理」としましたが、実際には、どかで話したと思いますが、正直、「孤独」色は薄いです。したがって「小林秀雄論――凝視と放心」としてもよかったかなとは思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[コラム]~人は「孤独」が好きなのではないか?~

 

コラム tea for one

 

~人は「孤独」が好きなのではないか?~

 

 本連載の続篇に当たる『孤独の発明 または言語の政治学』の冒頭の「まえがき」には、――おそらく、というか、当然と言うべきか、連載終了後、単行本化に際して書かれたものだろうから、「孤独」の定義(?)についての圧縮した記述が足早に書き連ねられていますが、正直言って、あまり面白くないのですね、つまり、三浦さんにとってみても、そうだったのではないかと思いますが、分かり切っていることを、つまり答えが出ていることを、書かれても、記述の、あるいは批評の運動が止まってしまう訳です。でも、ま、しかし、書いてあることが正しければ、それでいいんじゃない、て思われる方もいるでしょうが、極端に言えば、文芸批評ですから、つまり学問をやってる訳ではないので、内容の正誤、真偽というのは二の次、三の次な訳です。もちろん、明らかに間違っていることや、人を意味なく愚弄するような発言などは、「基本的には」NGでしょうが、それも第一に来るわけではありません。まず、面白くないとだめです。

 もちろん、この場合の面白いというのはいろんな意味を含めて言っているのですが、言うなれば文章にエロスがなければ文芸批評というのは死ぬのだと、わたしは勝手に思ってます。ま、言うは易しってやつですね。

 で、それはともかく、わたしの読解力が足らない故だと思うのですが、三浦さんの「孤独」論のいささかなりとも瑕瑾かきんとも言うべき点は、「孤独」、「寂しさ」、「悲しさ」に人は何故心魅かれるのか、という問題が抜けている気がするのです。だって、独りぼっちってやですよね、友達とか、彼氏/彼女がいないのって辛いじゃないですか。でも、多くのドラマや物語、あるいは歌の歌詞だってそうですが、そういう状況を、別にいいとしている訳ではないでしょうが、それを好んで見たり、聞いたりする人が多いが故に、その状況が再生産されます。何故? 人は、実は「孤独」が好きなのではないでしょうか? もちろん、これには理由なり、背景なりの考察が必要ですが、またまた話が逸れまくるので、別稿にて。

 ちなみにわたしは「孤独」大好きです。アハ。

 

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 で、結論、というか、言われていることは同じなので、同じです、はい、次の話題に行きます、としても話は通るのですが、そんなんであれば、文学やってる意味ないじゃないですか。とにかく具体的な文章を、あるいは筆者の人となりを味わってこその文学じゃないですか。「ウ~~ン、文学」。ここでチャールズ・ブロンソンのあの渋い顔を浮かべながら、顎を右手で押さえながら「ウ~~ン、文学」。はい、皆さんも一緒に、「ウ~~ン、文学」。――もう何言ってるか分かんないですね(笑)。

 さて、そんなわけで、本節では3人の方にご登場いただきます。

 

1 カントールの「実無限」、及びポワンカレ『科学と方法』

 

 まず一人目が科学哲学者アンリ・ポワンカレですが、その前に数学者ゲオルク・カントール(またはカントル)が登場します。日本の数学者、というよりも算数・数学の教育者である遠山(ひらく)の『無限と連続』(上下・1952年・岩波新書)にも登場しますね。カントールは集合論で有名ですが、そこで彼は実無限、要するに数えることのできない無限を数学の世界に呼び込んだわけです。三浦さんはこう紹介しています。

 

 カントルもまた実無限という考え方を提唱し、それにもとづいて集合論を展開するわけだが、そのために十九世紀末から二十世紀にかけてさまざまなパラドクスが生まれることになった。数学界を騒然とさせた論争のほとんどは、この無限の孕むバラドクスをめぐるものであったと言っていい。カントルは数学を大きく拡張したが、その拡張によって数学の基盤の危うさが露わになったのである。数学基礎論はその結果生まれたようなものだ。(三浦「孤独の発明」本篇・8・p.284。傍線部引用者)

 

 ポワンカレはこのカントールの実無限という考え方に否定的でした。実際、このカントールの考え方を進めていった人々は次々とパラドクスと直面することになります。例えば、哲学者バートランド・ラッセルの「エピメニデスのパラドクス」がそれですが、言うまでもなく、これは「嘘つきパラドクス」、つまり「自己言及のパラドクス」のことです。長文ですが、ポワンカレの『科学と方法』1908年/1926年・吉田羊一訳・岩波書店)から、彼の主張に耳を傾けてみましょう。

 

 真に分析論理学の原理に基礎をおく証明は、命題の系列から成るであろう。前提をなす命題は同一判断或は定義であって、他の命題はこれから次から次へと演繹される。しかしながら、各々の命題とその次の命題とを結びつける連鎖はたゞちに認められるけれども、最初の命題から如何にして最後の命題に達し得たかはから如何にして最後の命題に達し得たかは一目のもとには見難い。されば、ともすれば人はこの最後の命題を新しい真理と見做そうとする。しかしながら、もしも次ぎ次ぎにそこに現われる種々の語句をその定義で置き換えて、もしこの操作を出来得るかぎり隈なく行なったならば、最後に残るのはもはや同一判断のみとなり、すべては素晴しい重複語法(トートロジ)に帰してしまうであろう。されば論理学は直観によって培われるのでなければ、ついに何等の果も結ばずにおわるのである。

(中略) これは何故であろうか。それは彼等の定義は非確定的であり、上に指摘した如き隠れた循環論法を蔵するからである。非確定的な定義は、確定した用語に置き換えることはできない。かゝる条件のもとに於ては、数学的論理学はもはや不毛ではなく、実に二律背反を生むのである

 かゝる非確定的なる定義の生じた所以は、実無限の存在を信ずることからおこる。その意味を説明しよう。かゝる定義のなかには、上に引いた例のなかに見られる如く、すべてという語が現われる。すべてなる語は有限箇の対象に関してはきわめて明確な意味を有する。対象の数が無限の場合に於てもなお明確なる意味を有するためには、実無限が存在することを必要とするはずである。しからざれば、すべてのかゝる対象は、その定義に先だって与えられるものとは考えられなくなり、かくてもし概念Nの定義が対象Aすべてを基とすれば、対象Aのなかに概念Nそのものを用いずには定義出来ないようなものがあるかぎり、Nの定義は循環論法によって汚されることもあり得るのである。(アンリ・ポワンカレ『科学と方法』/三浦「孤独の発明」本篇・8・p.p.285-286より援引。傍点和訳原文、傍線再引用者)

 

 お分かり頂けますか? 例えばこうです。「猫(A)動物(N)である。」と言っておけば問題はない訳です。目の前に毛の生えた魚が好きな生き物を連れてきて、これは「猫」と言います、これは「動物」の一種です、と言えば、ああ、そうですかとなります。問題はない、No プロブレムですね。

 ところが、これを「すべて猫(A)動物(N)である。」とやるとおかしな話になる訳です。例えば、ドラえもんは猫型ロボットですから、猫の一種だと主張するかも知れない。でもドラえもんは動物ではないですね。つまり、対象Aのなかのドラえもんを概念N{動物}ではない、と定義したうえで、「動物でないドラえもんは動物ではない」という命題になってしまって、なんだよ、同じことじゃんかよ、となってしまうやんけ、これを「素晴しい重複語法トートロジ」とか「循環論法」とポワンカレは呼んだわけです。

 同じように、ここにジバニャンを連れてきます。ジバニャンは猫ですが幽霊なので……、て同じことです。

 つまり、対象Aの「猫」がロボットだったり、幽霊だったりと「非確定的」に「無限」になっているが故に、「かゝる」事態になるのだとポワンカレ先生は怒っているのですね。

 で、この次に何を例に出すと思いますか?  

 ――猫娘です(笑)。

 つまり、こうです。三浦さんはこう言います。

 

苦虫を嚙み潰すようなポワンカレの顔が思い浮かぶが、語られているのは、要するに「すべての」といった語を含む――無限集合という概念が必然的に抱えこまざるをえない――全称命題は、自己矛盾を孕みやすいということだ。自己言及になってしまうからである。(三浦「孤独の発明」本篇・8・ p.286。傍線部引用者)

 

 ポワンカレの『科学と方法』は1908年に刊行されました。山本修訳で和訳が出たのが1925年のこと、その翌年1926年に吉田羊一訳で岩波書店から刊行されていますが、小林がこれを直接読んだかどうかは分かりませんが、ブリス・パランの知的背景となっていたカヴァイエスの知的背景になっていたものこそがこのような数学や、物理学の根本問題であったことは十分押さえておくべきでしょう。

 小林は講演と並んで、数多くの対談もこなしていますが、とりわけ、後世に残ると世評の高いものが、数学者・岡潔との対談「人間の建設」1965年)であり、もう一つは理論物理学者・湯川秀樹との対談「人間の進歩について」1948年)ですね。この二つの対談は、いろいろとネタが豊富に埋まっているのですが、そもそも、これはよく言われることですが、小林が、科学の、当時における最先端の知識、情報に積極的に目を配らせていたことによって成立したものです。もちろん、相手側も相当な文学的素養を兼ね備えていたわけですが。

 

2 パスカル『幾何学の精神について』

 

 あらかじめ言っておきますがここも同じです。同じこと、つまり小林の「自己言及のパラドクス」がいかなる射程迄延びていたのかを右から、上から、遠くから、あるいはクロウズ・アップで映し出しているのです。蜿蜒と螺旋階段を登っていて、あるいは降りていて、もう地上からは見ることすら困難な位置にまで至ったのですが、でも、そこにいるのです。そこにいることは間違いないのです。Google MAPで場所を表示しても平面上の位置は変わってない、何も変わってない、と人々は言うのです。

 それは小林がそうであったように、三浦さんの批評も全く同じ形をしているのです。

 三浦さんはこう言っています。

 

 小林の思想に発展はない。あるとすれば成熟のようなもので、それは最初に描かれた輪郭がゆっくりと彩色されてゆく過程なのだ。小林の言葉で言えば、それは「言葉の魔術の構造を自覚する」過程にほかならなかった。(三浦「孤独の発明」本篇・8・ p.289

 

 小林が、論壇デビュー作「様々なる意匠」から一貫して変わらなかったように、このことはいみじくも三浦さんにとっても同じことで、やはりデビュー作『私という現象』から一貫して、同じことを何度も何度も手を変え品を変え、倦むことなく究明し続けてきた、といってもよいでしょう。まさに、吉本隆明が小林を評して言った「ひとははじめに驚いたものしか情熱をこめて解明しようとはしないものである。」*と言った言葉は、本来の吉本が言おうとしたことに反するのですが、至言と言うべきです。

 

*吉本隆明「小林秀雄の方法」/『國文學――解釈と教材の研究』196111月号・學燈社/『吉本隆明全著作集』7・1968年・勁草書房/三浦「孤独の発明」本篇・8・ p.295より援引。

 

 さて、パスカルです。いやー、ちょうどよかった、めっちゃパスカルわー、とか言うと泉下の、――泉下っつーのは死者の国、あの世ですね。なんで、泉下っていうかというと、あの世は黄泉(よみ)の国って言うじゃないですか、なんか地下に泉があるらしいっすよ、黄色は土の色ですね、その下にあの世、黄泉の国があるわけで、死んで眠っているご本人もゲキオコですかね?

 以前、ご紹介した、小林が大江さんに送ったというブリス・パランの『ことばの思想史』ですが、三浦さんによれば、これ、すなわち「『ことばの思想史』は要するにパスカル論である」(三浦「孤独の発明」本篇・8・p.292とのことで、続けてこうも言っています。

 

実際、パスカルの的確な引用に満ちている。とりわけ『幾何学の精神について』の引用は的確だ。現代風に言えば「幾何学の精神」すなわち「数学の精神」である。幾何学で代表されていた領域が、数学で代表されるようになったのが近代なのだ。(三浦「孤独の発明」本篇・8・p.292

 

 であれば、三浦さんの所論を外すことになるかも知れぬが、『幾何学の精神について』とは、射程距離を相当広く取れば「近代の精神について」と言い換えてもさほど間違っている気がしません、て思ってるのはわたしだけか?

 で、パスカル、ブレーズ・パスカルですが、何となくフランスっぽい気もしますが、――つまり、何となく軽い感じがするじゃん、て、めっちゃ根拠うすー、ですが、そのまんまフランス人です。

 あの台風が来ると耳にするヘクトパスカル、昔はミリバールと言っていましたが、圧力の単位ですね。1パスカル(Pa)1平方メートル (m2) の面積につき1ニュートン (N) の力が作用する圧力のこと、ヘクトは100倍です、だから100パスカルが1ヘクトパスカルのことです。

 というような物理学から、哲学と様々なことに手を拡げまして、なんと39歳の若さで黄泉の国へと旅立ちました。

 「人間は考える葦である」という有名な言葉が書かれているのは、彼が生前書き遺した膨大なメモの束を死後、まとめた『パンセ』、フランス語で「思考」という意味ですが、そこに収録されています。

 小林にとってみると、初期における、ベンチ・マークでもあり、ライヴァルでもあった、哲学者の三木清のデビュー作である『パスカルに於ける人間の研究』1926年・岩波書店/1980年・岩波文庫)の存在が大きかったかもしれません。

 で、話を戻して、パスカルの『幾何学の精神について』。そこで彼は、先に引用したポアンカレと同じようなことを言っています。無論、パスカルの方が先です。

 

 確かに この方法はすばらしいと思うが、絶対に不可能である。なぜなら、最初の用語を定義しようとすれば、それの説明に用いる先行の用語を想定しなくてはならないし、同様に、最初の命題を証明しようとすれば、それに先行する他の命題を想定しなくてはならないのは明らかだからである。そんなわけで、ついに、初源のものにたどりつけないことは、はっきりしている

 だから、さらにもっと追究を進めて行くならば、わたしたちは、もはや定義不可能な基本的な用語と、証拠として用いるのにこれ以上明白なものはどこにも見出せないほどの原則に、当然たどりつけるはずである。だが、この点から見ても、人間はどんな学問においても、絶対に完璧といえる秩序に達して、そこで議論を進めることは、本性の上からも、また将来ともに、不可能であるように思われる。(パスカル『幾何学の精神について』 田辺保訳/三浦「孤独の発明」本篇・8・ p.292より援引。傍線部再引用者)

 

 全く同じことですね。さらに、パスカルが言っているのは、究極の原点(オウ)のようなもの、究極の絶対因、絶対的な原因ともなるべき、そのような「秩序」、order というものはないんだよ、ということです。絶対なんか絶対ないから、という訳ですね。しばらく置いて、次にパスカルはこう言っています。

 

 「ある」ことの定義をするについても、同じような不条理におちこまずにはすまない。なぜなら、あるひとつの語を定義しようとすれば、どうしても「それは……である」という語をもってはじめなければならない。この語が実際にいいあらわされるか、言外に含まれるかは別として。だから、「ある」ことを定義するにも、「……である」といわねばならず、したがって、定義の中に定義される語を用いることになる。 (パスカル『幾何学の精神について』 田辺保訳/三浦「孤独の発明」本篇・8・p.293より援引)

 

 ここも、先ほどご説明したことと寸分も違いはありません。

 さて、問題はここからです。

 急転直下ですが、パスカルは、そこまで言ったうえで、こう述べます。

 だから、いいんじゃない! て。

 いやー、ぼく、全然ブサイクで、お金もなくて、なんか勉強も運動もダメなんですよ、だから全くモテないんすよ、どうしたらいいすかね? てパスカル先生に相談したところ、「だから、いいんじゃない!」て、言われたということです。要するにそういうことです。

 え!? て思うじゃないですか。そんな馬鹿な! そんなバナナ! そんなバハマ! て思うじゃないですか? あ、思わないか。

 三浦さんの導きに従って、パスカル先生の言い分にもう少し耳を傾けてみましょう。 

 

 パスカルはさらに、時間も運動も数も空間もじつは定義できないのだと述べた後に、「こういうすべての真理は、証明できないのだが、それでもやはり、幾何学の基礎であり、原理である。だが、それらの真理の証明をできなくさせている原因が、それらがはっきりしないためでなく、きわめて明白であるためであるのと同様に、こんなふうに証拠が欠けているのは、欠陥ではなく、むしろ完全さなのである」と続けている。(三浦「孤独の発明」本篇・8・p.293。傍線再引用者)

 

 確かに前段は分からないこともありません。「時間」、「運動」、「数」、「空間」、こういった基本的な概念が、仮に定義できないとしても、それなしで科学的な議論を進めることはできません。したがって、定義はできないが基礎・原理とすべきものは確かにある、というのは経験的にも推測可能です。

 しかしながら、後段ですね、そう言った科学上の基礎的な概念を定義すること、証明することを不可能にさせているのは、それらがはっきりしない、証拠が欠けている訳ではなくて、つまり何らかの欠陥によるものではなくて、それらの基礎的な概念が、明白であり、完全だからだ、と言っているようにわたしには思えますが、合ってますか?

 もう一回言いますよ。「時間」とか「空間」を科学的に証明できないのは、それらに問題があるのではなくて、むしろ完璧だからだ、ということになります。

 分かりますか? つまり、ですね、これはですね(笑)、――笑いながら言ってはいけませんが、つまり、神様のことじゃないですか? 皆さん、仏教徒? え? 分からない? あ、そう。まそうですよね。実感が湧かないかも知れませんが、ここは別に仏様のことと考えてもいいんですよ。

 つまり、神も仏もあるものか、とかよく言いますが、これはむしろ、神様、仏様、助けてください! どうして、こんなヤバいときに助けてくれないんですか? と神様仏様に「強制」というか脅しをかけているんですが、まー、でも、ぶっちゃけ神様とか仏様がいらっしゃることを証明することは難しいですよね、でも、だから神様、仏様に欠陥があるのではなくて、むしろ、逆で、神様、仏様は完璧だ、パーフェクトだ、マジスゲー! なのですが、それをわれわれ人間の言葉や振舞で表すにはあまりにもこちら側の能力に問題がある、つまり能力不足ということです。

 例えば、こういうことでしょうか。未知数xがあって、普通の大人なら、条件が揃ってるなら、方程式を使えば簡単に解けることを知っています。

 ところが数や計算の初歩を習いたての小学1年生ぐらいの子どもに方程式を見せたり、その話をしてもちんぷんかんぷんですよね。その子供の持ち得る力では、表現することはもとより、認識することすら困難です。つまり、その子供にとっては、その方程式の世界は存在しないに等しい訳です。でも、実際に方程式は存在しますよね。われわれ大人は計算間違いすることはあるかも知れませんが、普通に使いこなしています。

 これと同じです。方程式が神仏の世界、子供が人間です。

 さ、という訳で、めでたし、めでたし。やったね、今日のオレ、頑張ったよ、さ、帰ろ、帰ろ、ってなりますか?

 これでOK牧場ですか? OKストアですか? 皆さん、納得しましたか? あ、そうなの? スマソ、オレは納得できませんねー。

 だっていいですか、われわれの能力が仮に劣っているいるにせよ、だからそのことで、つまりそのことが起因で、完璧な世界が存在するとは言えないじゃないですか。われわれの表現能力が劣っているのと同様に、神様とか「時間」なんかの基礎概念も何らかの意味で劣っているかも知れないじゃないですか。

 あるいは、そこにはなんらかの因果関係なりの関連性はない、ないよ! という考え方もあり得ます。

 われわれの能力は劣っている。完璧な世界がある。両者は関係ない。つまりパラレル・ワールド、並行世界です。でも、これ意味あります? 少なくともわれわれには何らの影響がない、関係ないですからね。

 という訳で、この辺りで、イヤー、やっぱキリスト教の伝統のある国は違うわ、ついてけへんわw、となってきます。

 ヤバいすね、なんか、暗雲立ち込めてきたよ。

 で、開き直って、さらに追い打ちをかけるとですね、こうなります。三浦さんは、パランの議論を引き取って、こう述べています。

 

パスカルは言語と数学の基底に潜む悪循環あるいは不確実性こそ人間の自由を保障するもの、いやその本質であると述べているのだと、パランは説いているのだ。(三浦「孤独の発明」本篇・8・p.293

 

  いやー、もう訳わからん、なんで、「悪循環」とか「不確実性」が「人間の自由」とか「人間の本質」になっちゃう訳ですか。分かりますか?

 で、ですね、三浦さんはこの下りのついてはそのまま「流して」(失礼!)書いています。われわれ一般の下賤な衆生のためにお教えいただくことは叶いませんでした。多分、ここは、三浦さんにとっては当たり前のことなので、スラスラ行かれたのではないかと推測しますが、われわれは困ります。下賤な衆生ですから。

 したがって、ここはわたしの解釈です。と言っても三浦さんの考え方とさほど遠くにあるとは思っていませんが。

 よし、じゃ、行くよ。

 あのですね、プラトンの対話篇とか読んだことありますか? 『パイドロス』とか『プロタゴラス』とか面白いよね。で、ですね、ちょっと、具体的な作品名とか、内容を忘れてしまったのですが、すいません、ま、大体、ソクラテスっていうおっさん、つーかじーさんが出てきて、若いのにちょっかい出す訳ですね、あー、チミ、チミ、「正義」とは一体何かね? とか、「勇気」とはどういう意味なのかね? とか、――この辺適当です、で、どんどん問い詰めていって、つまりソクラテスは自分では何も答えないくせに、というか、だからこそ、人にどんどん質問ばかりする訳です。で、最終的に相手が答えられなくなると、ほらね、われわれは知ってるつもりになっているだけで、全く何も知らないのだ、と言って大体終わる訳です。おいおい、なんだそれ、何も解決してねーじゃねーか、と皆さんがお怒りになるのもごもっとも。つまり、ほんとに知るためには、一旦「無知の知」、自分は何も知らへんのや、ということを知っているということが、本との「知」のためには必要なんだということが言いたいのでしょうか。

 で、何が言いたいかというと、例のごとく前置き長過ぎなんですが、そこで俎上に載せられる「正義」や「徳」やらなんやらの概念の再検討がしばしば行われるのですが、語源探査がよく導入される訳です。この言葉は元々、これこれの意味であって、実は厳密にいうと三つの側面があることに気づいたかね、クレイトポン、と来るわけです。も一回言いますが、例は適当です。

 でもですね、それはおめーギリシャ語(それも古代ギリシャ語)だから、そうなるんであって、他の言語だったら、違くね? って若き日のわたしは思ったのだよ、クレストパネス。――適当です。

 そもそも、言葉の、訳語の射程範囲がずれてませんか、というのもあったりします。例えば「徳」。「徳」って日本語だと、「道徳」とか「人徳」とか、「徳が高い」とかで使いますから、なんやら精神的なグレイドがアップされている状態のような意味ですよね。ところが、この「徳」に当てられている古代ギリシャ語は「 αρετή  アレテー」と言って、そのもの持つ特殊な能力のことですから、鳥の「アレテー」は空を飛ぶことです、魚の「アレテー」は水中を泳ぐことです、とこうなる訳です。

 つまり、哲学、なり思想なり、あるいは広く一般に価値、倫理、考え方、こういった何らかのプラス・マイナスの判断を伴うような基準のようなものは、その言語によって左右されてんじゃねーか、ってわたしは思ったんです。

 でも、その言語はどっから来たかというと、その場の環境・風土ですよね。もちろん、だから、どういった処にお住まいですか、といったことが言語内容を左右して、それが人間の考えることすらも左右するという、当たり前っちゃ、当たり前のことを、かつて、考えたのですが、これは、まー、これっきりでした。

 ここでのポイントは言語の内容・形式などによって考え方が変わるのではないか、ということです。つまり、絶対的な善悪なんかないよ、というのはここではオマケです。

 さて、戻します。

 三浦さんは、先の引用に続けてこう言っています。 

 

 パスカルは、言語に潜む悪循環、数学に潜む悪循環を指摘するとき、つねに無限の感情を手放さない。「証拠が欠けているのは、欠陥ではなく、むしろ完全さなのである」と言い切る直前にも、時間、運動、数、空間といった証明できない真理こそ「自然の大いなる驚異」であると述べ、「その驚異の中でも特に大きいものは、すべてのものの中に見出されるふたつの無限、大きい方の無限と小さい方の無限とである」として、無限大と無限小を具体的に説明している。

 この説明がさらに敷衍されて、『パンセ』の有名な断章一九九「人間の不釣合い」(中略)にいたることは言うまでもない。広大な宇宙のなかで人間は極微の粒子にすぎない、だが、その極微の人間のさらに極微の血液の一滴のなかにもまた広大な宇宙が広がっているのである。この無限の感情は、多くの人間を震撼させた。(三浦「孤独の発明」本篇・8・p.p.293-294。傍線引用者)

 

 ここで言われている「無限大と無限小」について言えば、話としては、納得できますが、一体どういうことでしょうか?

 このパスカルの下りに入る前にポアンカレの話がありました。恐らく、パスカルの、この感情は、わたしには、神の存在こそが裏側から照らし出していると思いますが、ポアンカレは、パスカルと同じようなことを語っていて、恐らく、このパスカルの結論には首肯できなかったのではないでしょうか。いささか文章を戻ります。三浦さんの言葉です。

 

ポアンカレも、その後に続くブラウワーも、数学が言語に汚染されることを極度に恐れた。だが、数字が言語でないと言えるだろうか。零と無限は数字ではない。言語である。とすれば、現代数学はその可能性の両端を零と無限、すなわち言語によって押さえられているのだ(三浦「孤独の発明」本篇・8・ p.p.286-287。傍線引用者)

 

 ブラウワーはオランダの数学者。

 ここにヒントがあると思います。つまり零と無限が「言語」である、ということです。先のパスカルの引用に出てきた「無限大と無限小」も、当然同様に「言語」です。

 いいですか。

 零ってありますか? もちろん、紙の上に「0」という数字、つまり言葉ですね、それを書くことはできますが、それは零そのものではない。だって、零は存在しないことですから、実際には存在しないのです。いいですか、零は実際には存在しないのです。でも数字/言葉の「0」を使うこともできるし、それがないと、現在では困りますよね。存在しないけれど、言語的に存在することでわれわれは「0」の世界を自由に操ってますね。これって、「無限」も「無限大」も「無限小」も同じではないですか。そんなものはないのです。多分ね。存在しないけれども、言語的に存在することで、われわれは「自由」になり、なおかつ、この言語を自在に操るということがわれわれ人間の「本質」なのではないでしょうか。したがって、「時間」も「空間」も「数」も「運動」も、そして「神」や「仏」も実際には存在しないのです。ただ言語的に、われわれ人間の、人類の、「言語的仮想空間」にだけ存在するのですが、われわれは、もう、それらなしに生きることは困難になっている訳ですから、映画の『マトリックス』(ラリー・ウォシャウスキー、アンディ・ウォシャウスキー監督・1999年・アメリカ)ではありませんが、われわれは、この「言語的仮想空間」の中で暮らしているということになります。

 あー疲れた。ご理解いただけましたか?

 じゃあ、全部嘘じゃん、ということになりますが、確かに小林は「見ろよ、あんなものはみんな嘘っぱちなんだぜ、と、縁側から見える海を手で指しながら」言った、という話を三浦さんは引いています(三浦「孤独の発明」本篇・7・p.311が、しかしながら、その「嘘っぱち」である海の美しさに心を震わせるのも事実なのです。パランを通して、パスカルが言うように「嘘」であるところの言葉の「美」や「真実」に心を奪われるということこそ、人間が人間たる「本質」を示し、人間の「自由」を保障するものではないでしょうか。

 で、なければ、誰が詩など詠うでしょうか、誰が詩など読もうとするでしょうか? 

 

3 中原中也「言葉なき歌」

 

 「詩」とは何ぞや、などという大それた問いに答えようなどという不遜な気持ちは、これっぽっちもありませんが、わたし個人の「感想」の一つだと思って聞いていただければとは思いますが、「詩」とは何でしょう。――「詩」の「根本」は、形式的には「比喩」表現を持ち、内容的には「孤独」に類する感情を持つものではないかと、勝手に思っています。

 今までの議論に竿を差して言えば、「孤独」という気持ちも本来存在しないものです。現実的には、ただ一人存在する、という物理現象があるだけで、「悲しい」も「寂しい」も言葉によって作られたものです。

 ここは詳細な議論が必要ですが、一旦進めます。

 問題はわれわれ人間は、自分で「発明」したからなのかもしれませんが、この「孤独」に、「孤独」の痛みや、「孤独」の苦しみに、何故か、心魅かれるということです。「孤独」と「無限」が反響し合うからでしょうか? ちょっと分かりません。考えさせてください。

 最後に、三浦さんが、連載第8回の最後に引いている中也の「言葉なき歌」を、三浦さんは入稿の規定の枚数もあってか、第一連と題四連を引いていますが、ここでは遠慮なく全文引用します。三浦さんはこの詩について、「孤独と無限の胸を絞めつけるような感情」(三浦「孤独の発明」本篇・8・p.296)と表現していますが、至言と言うべきでしょう。

 

あれはとほいい((ところ))にあるのだけれど
おれは此処(ここ)で待つてゐいなくてはならない
此処は空気もかすかで(あを)
(ねぎ)の根やうに(ほの)かに(あは)

 

決して急いではならない
此処で十分待つてゐなければならない
処女(むすめ)()のやうに遥かを見遣(みや)つてはならない
たしかに此処で待つてゐればよい

 

それにしてもあれはとほいい彼方かなたで夕陽にけぶつてゐた
号笛(フィトル)()のやうに太くて繊弱((せんじゃく))だった
けれどもその方へ駆け出してはならない
たしかに此処で待ってゐなければならない

 

そうすればそのうち(あへ)ぎも平静に復し
たしかにあすこまでゆけるに違ひない
しかしあれは煙突の煙のやうに
とほくとほく いつまでも(あかね)の空にたなびいてゐた

 

(中原中也「言葉なき歌」/大岡昇平編『中原中也詩集』岩波文庫・1981年・p.p.254-255

 

 

10  「父」・小林秀雄

 

 さて、この後、「孤独の発明」本篇は第18回まで、続きますが本章の主題であるところの小林秀雄の登場はほとんどなくなり、本篇そのものも、私見ではありますが、失速するように思えます。その意味では、まさにこの「孤独の発明」本篇は小林秀雄こそ、その主人公に相応しいと言うべきですが、三浦さん本人は、必ずしも小林のことを書こうと思っている訳でなく、あくまでも自身の主題を書き継いだということですが、なかなかそうでもない、というところでしょうか。

 また「孤独の発明」本篇の続篇たる『孤独の発明 または言語の政治学』にも小林は登場し、なかんづく、例えば「無常といふ事」の三浦さんの読解は瞠目すべきものがありますが、ただ、文脈的には、司馬遼太郎の引き立て役になっており、これはこれで、三浦さんの心理を窺うに大変興味深い事例ではありますが、主題的にいささか逸れるので他日を期すことにします。

 で、本章冒頭にも申し上げましたように、小林秀雄は、後進の批評家たちからすれば、言うなれば、乗り越えるべき、親の敵のような「父」だった訳です。三浦さんは、例えば、高橋英夫さんにとって、そうだったと書いていますが、三浦さんはきっと否定するとは思いますが、三浦さんにとっても、小林は、まさに、乗り越えるべき「父」――年齢的には祖父ぐらいでしょうが、そこは関係ありません、そう「父」だったのです。

 大岡信さんは、三浦さんの出世作たる『メランコリーの水脈』の文庫版の解説で大変意味深なことを書いています。題して「父親探しの話」。三浦さんのプライヴェイトの情報はあまり分かっていません。三浦さんの人柄なのでしょうが、できるだけそういう情報を公開しないようにしているのだと思います。ただ、年譜などを参考に推測すると、どうも小学生のときにご両親が離婚されて、その後、お母さまが再婚された。新しいお父様のことは、実はよく分からないが、弘前高校に進学するに際し、下宿を借りて一人暮らしをしているところから、なにか推測できることもありますが、大岡さんはそのことには触れず、こう言っています。「精神的な父親を、もちろん無意識に、求めているように思える傾向」があったと言い、例えば、清水康雄、吉本隆明、山口昌男の名前を挙げ、そこに大岡さん自身も加えています。

 現段階ではわれわれは三浦さんが最初期に宇佐見英治さんに師事していたことも知ったので、その名も付け加わるのであろうが、大岡さんの「父親探し」の話はそこで終わっています。

 さて、問題は、小林秀雄です。先に見たように、初期において、三浦さんは、多くの論者がそうであったように、小林を否定的に取り上げています。

 ところが、その後、何回か、小林と「遭遇」することがあったのではないか、もちろん、書物の上で、例えば、「編集者として」小林を発見することがありました。また、その歿後、何回か小林の文章を求められて書きました。

 しかし、『青春の終焉』や「孤独の発明」本篇は、小林はあくまでも題材の一つだった、多くの登場人物の一人だったはずなのです。ところが、『青春の終焉』はおよそ1/3近く、「孤独の発明」本篇は先ほど言ったようにおよそ半分近くですが、メインはほとんどが小林なのです。つまり、乗り越えるべき小林は、意外にも、三浦さんの批評の中で、勝手に立ち振る舞い始めた。頭を抱えたのは当の三浦さんだったのかも知れません。

 乗り越えるべき存在の小林とほぼ同体になって、まさにその時、われらが「父」としての小林秀雄が、三浦さんの心中に浮かんできたのではないでしょうか。

 繰り返しますが「孤独の発明」本篇は、三浦さんの最高傑作になるべき作品です。ですが、何故か、刊行に至らないのは、もしかしたら、この余りにも巨大になり過ぎた小林像をうまく禦し切る気持ちがまだ出てこないのかも知れません。

 余りにも「父」小林秀雄は大き過ぎたのでしょうか。

 余人の知るところではなく、一読者としては、ただただ、困惑するのみです。

 

11 一旦の結語 「凝視と放心」の意味することとは?

 

 さて、以上のように論じてくると、まさに「凝視と放心」ということこそ、小林にとってはもとより、三浦さんにとっても、重大なテーマであったことが了解できます。

 そもそも凝視と放心とは何だったのでしょうか。

 凝視と放心とは結局、「自意識の迷路」から脱却するために、自身を超えた、あるいは自分自身の「深さ」に身を委ねることに他ならないのです。三浦さんがしばしば発する、「自分は自分のことが最も分かってない」というのも、実は同じ意味です。

 問題の振出からすると、自意識の迷路と闘わずして「深さ」に「逃げた」小林は負けたのだ、と言えるのでしょうか。

 いや、恐らく勝ち負けを超えた次元での勝負に小林は、その小舟を漕ぎ出していったと考えるべきではないでしょうか。

 したがって、語の用法の混同があると思いますが、言語の世界が作る「幽霊」の世界は、見た目とは違って、そして、小林自身が信じていた世界とは違って、「深さ」の世界と、隣接はしているでしょうが、直接的にはつながっていないと、わたしは考えます。

 三浦さんの文脈で言えば、「幽霊」という閉ざされた言語意識の世界から、「考える身体」という開かれた新世界の方へ漕ぎ出すべきなのではないでしょうか。

 言葉足らずで、大変恐縮ですが、本書では、三浦さんの舞踊論は無論のこと、身体論、それも「考える身体」論のついての考察ができませんでした。この続きはぜひ、続稿、γ篇「幽霊と考える身体」でお話しできれば幸いです。

 

 文脈が逸れまくることになりましょうが、わたしはここで、かの吉川英治『宮本武藏』全61936年~1939年・大日本雄弁会講談社)の結語を想起せざるを得ません。最後にそこを読み上げて、終講の挨拶とさせて頂きます。

 

 波騒(なみざい)は世の常である。
 波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚(ざこ)は歌い雑魚(ざこ)は躍る。けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を。水のふかさを。

(吉川英治『宮本武蔵』)

 

皆さん、ありがとうございました。

 

 

 

 

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小林秀雄. (2002). 『小林秀雄初期文芸論集』. 岩波文庫.

小林秀雄. (2002年ー2005). 『小林秀雄全作品』(全28集/別巻4)(第6次全集). 新潮社.

小林秀雄, 岡潔. (1965). 「人間の建設」. : 『新潮』196510月号/『小林秀雄全作品』第25集「人間の建設」. 新潮社/新潮社.

小林秀雄, 岡潔. (1965年/2004年/2010). 「人間の建設」/『新潮』196510月号/『小林秀雄全作品』25/小林・岡『人間の建設』. 新潮社/新潮社/新潮文庫.

小林秀雄, 湯川秀樹. (1948年/2004). 「人間の進歩について」. : 『新潮』1948年8月号/『小林秀雄全作品』第16集「人間の進歩について」. 新潮社/新潮社.

深田久弥. (1964). 『日本百名山』. 新潮社.

草野心平. (1939). 「空間」. 『歴程』第6号.

村上春樹. (1979). 『風の歌を聴け』. 講談社.

村上春樹. (1982). 『羊をめぐる冒険』. 講談社.

村上春樹. (1983年/1984). 「螢」. : 『中央公論』1983年1月号/村上『螢・納屋を焼く・その他の短編』. 中央公論新社/新潮社.

村上春樹. (1985). 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』. 純文学書下ろし特別作品(新潮社).

村上春樹. (1987). 『ノルウェイの森』上下. 講談社.

村上春樹. (2014). 「ドライブ・マイ・カー」. : 『女のいない男たち』. 文藝春秋.

村上春樹. (2017). 『騎士団長殺し』全2卷. 新潮社.

大岡昇平. (1994). 『在りし日の歌』. 角川書店.

大江健三郎. (1983). 「「運動」のカテゴリー――小林秀雄」. : 『新潮』. 新潮社.

大江健三郎. (2013). 『晩年(イン・レイト)様式集(・スタイル) . 講談社.

大江健三郎. (2014). 『大江健三郎自選短篇』. 岩波文庫.

大江健三郎. (2018年ー2019). 『大江健三郎全小説』全15. 講談社.

大和和紀. (1979年~1993). 『あさきゆめみし』全13. 講談社コミックスmimi.

中原中也. (1933年/1991). 「いちぢくの葉」. : 吉田煕生編『中原中也全詩歌集』上下. 執筆/講談社文芸文庫.

中原中也. (1934年/1991). 「朝」. : 吉田煕生編『中原中也全詩歌集』上下. 執筆/講談社文芸文庫.

中原中也. (1937年/1991). 「思ひ出」. : 『在りし日の歌』/『中原中也全詩歌集』上下. 創元社/講談社文芸文庫.

中原中也. (1938年/1981). 「言葉なき歌」. : 『在りし日の歌』/大岡昇平編『中原中也詩集』. 創元社/岩波文庫.

中原中也. (1938年/1991). 「冬の長門峡」. : 中原中也, 『在りし日の歌』/吉田煕生編『中原中也全詩歌集』下. 創元社/講談社文芸文庫.

中原中也. (1967年~71). 『中原中也全集』全5巻別巻1. 角川書店.

中原中也. (未詳/1991). 「少女と雨」. : 吉田煕生編『中原中也全詩歌集』下. 講談社文芸文庫.

中原中也, 植村諦, 岡本潤. (1935). 「詩人座談会」. 『詩世界』1935年1月号.

中村光夫. (1962). 『佐藤春夫論』. 文藝春秋新社.

島弘之. (1989). 『感想というジャンル』. 筑摩書房.

平井和正. (1971). 『狼の紋章(エンブレム). ハヤカワ文庫SF.

無署名. (1934). 「芥川龍之介二態」. 『文藝通信』1934年3月号.

柳田國男. (1959). 『故郷七十年』. 神戸新聞社〈のじぎく文庫.

与謝野晶子. (1972). 『全訳源氏物語』 全3巻. 角川文庫/ウェブサイト『青空文庫』.

 

 

 

 

【巻末資料1 三浦雅士著作一覧】

 *単著のみならず、表紙に氏名が記されているものも含む。

 

1.    『私という現象――同時代を読む』1981年1月26日・冬樹社/ 199610月9日・講談社学術文庫。

2.   『幻のもうひとり――現代芸術ノート』198212月5日・冬樹社/1991年4月1日・冬樹社ライブラリー。

3.    『主体の変容――現代文学ノート』19821220日・中央公論社/1988年2月1日・中公文庫。

4.    『語りの宇宙――記号論インタヴュー集』1983年・冬樹社/199010月1日・冬樹社ライブラリー。山口昌男へのインタヴュー。

5.   『夢の明るい鏡――三浦雅士編集後記集1970.71981.121984年6月30日・冬樹社。

6.    『メランコリーの水脈』1984年4月10日・福武書店/1989年・福武文庫/2003510日・講談社文芸文庫(大岡信・解説)。

7.    『自分が死ぬということ――読書ノート197819841985年1月10日・筑摩書房。

8.    『寺山修司――鏡のなかの言葉』1987年4月10日・新書館/〔新装版〕1992年4月1日・新書館 。

9.    『死の視線――'80年代文学の断面』1988年3月15日・福武書店。

10.  『疑問の網状組織へ』1988年6月25日・筑摩書房。

11.  柄谷行人編『近代日本の批評 昭和篇[上]』19901210日・福武書店/『近代日本の批評 昭和篇上』1997年9月10日・講談社文芸文庫。浅田彰、蓮實重彦との共著。

12.  柄谷行人編『近代日本の批評 昭和篇[下]』1991年3月10日・福武書店/『近代日本の批評 昭和篇下』19971110日・講談社文芸文庫。浅田彰、蓮實重彦との共著。

13.  『小説という植民地』1991年7月22日・福武書店。

14.  『セゾンの発想――マーケットへの訴求――S´erie SAISON199111月1日・リブロポート。上野千鶴子、田村明、中村達也、橋本寿朗との共著。

15.  柄谷行人編『近代日本の批評 明治・大正篇』1992年1月15日・福武書店/『近代日本の批評 明治・大正篇』1998年1月10日・講談社文芸文庫。浅田彰、野口武彦、蓮實重彦との共著。

16.  『寺山修司の宇宙』1992年5月4日・新書館。市川浩・小竹信節との鼎談。

17.  編『この本がいい――対談による「知」のブックガイド』1993年3月20日・講談社。竹中平蔵、杉浦日向子、岡田英弘、樺山紘一、大室幹雄、青木保、今福龍太、沼野充義、柴田元幸、黒井千次、日野啓三、養老孟司、西垣通、岸田秀、福島章、市川雅、諸井誠、若桑みどり、巌谷国士、萩尾望都、それぞれとの対談集。

18.  『身体の零度――何が近代を成立させたか』19941110日・講談社選書メチエ。

19.  『バレエの現代』19951215日・文藝春秋。

20.  『考える身体』19991220日・NTT出版/2001年6月8日・河出文庫。

21.  『バレエ入門』2000年・新書館。

22.   『批評という鬱』2001年9月14日・岩波書店。

23.  『千年紀のベスト100作品を選ぶ』2001年6月1日・講談社/20071011日・光文社知恵の森文庫。丸谷才一、鹿島茂との鼎談。

24.  『青春の終焉』2001年9月27日・講談社/2012年4月11日・講談社学術文庫(丸谷才一・解説)。

25.  岸田秀『一神教vs多神教』2002年9月5日・新書館/2013年6月7日・朝日文庫。「聞き手」としてインタヴュー。

26.  『村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ』2003年7月11日・新書館。

27.  『出生の秘密』2005年8月15日・講談社。

28.  『靖国問題の精神分析』2005年9月10日・新書館。岸田秀との対談。

29.   岩井克人『資本主義から市民主義へ』2006年7月1日・新書館/2014年4月9日・ちくま学芸文庫。「聞き手」としてインタヴュー。

30.   『文学全集を立ちあげる』2006年9月30日・文藝春秋/2010年2月10日・文春文庫。丸谷才一、鹿島茂との鼎談。

31.   『漱石――母に愛されなかった子』2008年4月20日・岩波新書。

32.   『資本主義はニヒリズムか』2009年・新書館。佐伯啓思との対談。

33.   ダンスマガジン編『バレエ名作ガイド』2009年8月1日・新書館。瀬戸秀美(写真)との共著。

34.   石崎晴巳・立花英裕編『21世紀の知識人』20091221日・藤原書店。ジゼル・サピーロ、ピエール・レヴィ、有田英也、大中一彌、董 強、高銀、渡邊一民、上野俊哉、港千尋、コリン・コバヤシ、白石嘉治、矢部史郎、アブデルケビール・ハティビ、澤田直との共著。

35.   『人生という作品』2010年3月31日・NTT出版。

36.   菅野昭正編『村上春樹の読みかた』2012年・平凡社。石原千秋、亀山郁夫、藤井省三、加藤典洋との共著。

37.   『三浦雅士インタビュー集――ブラヴォー! ――パリ・オペラ座エトワールと語るバレエの魅力』2013年6月4日・新書館。

38.  『魂の場所――セゾン現代美術館へのひとつの導入』2013年7月13日・セゾン現代美術館。

39.   『歌仙――一滴の宇宙』2015年3月1日・思潮社。岡野弘彦、長谷川櫂との共著。

40.   菅野昭正編『辻井喬=堤清二――文化を創造する文学者』2016年3月11日・平凡社。粟津則雄、松本健一、山口昭男、小池一子との共著。

41.   編『ポストモダンを超えて――21世紀の芸術と社会を考える』2016年3月18日・平凡社。。芳賀徹、高階秀爾、山崎正和、河本真理、岡田暁生、片山杜秀、斎藤希史、加藤徹、三浦篤との座談集。

42.   『孤独の発明 または言語の政治学』2018年6月28日・講談社。

43.   『歌仙――永遠の一瞬』2019年2月8日・思潮社。岡野弘彦、長谷川櫂、谷川俊太郎、三角みづ紀、蜂飼耳、小島ゆかりとの共著。

44.  編(・解説)・石坂洋次郎『乳母車・最後の女――石坂洋次郎傑作短編選』2020年1月10日・講談社文芸文庫。

45.   『石坂洋次郎の逆襲』2020年1月28日・講談社。

46.  『スタジオジブリの想像力――地平線とは何か』2021年8月30日・講談社。

 

《番外》……連載終了単行本未刊行のもの。

 

1.     「孤独の発明」/『群像』2010年1月号~2011年6月号・講談社。

1 小林秀雄と柳田国男/『群像』2010年1月号。

2 幽霊たち(上)/『群像』2010年2月号。

3 幽霊たち(下)/『群像』2010年3月号。

4 幽霊の孤独(上)/『群像』2010年4月号。

5 幽霊の孤独(下) /『群像』2010年5月号。

6 凝視と放心 /『群像』2010年6月号。

7 言語の魔術 /『群像』2010年7月号。

8 孤独と無限 /『群像』2010年8月号。

9 私と零と無限/『群像』2010年9月号。

10 狂気と恍惚/『群像』201010月号。

11 孤独と他/『群像』201011月号。

12 理性と彼岸/『群像』201012月号。

13 言語的現実/『群像』2010年1月号。

14 人称の磁場 /『群像』2011年2月号。

15 言語の視線/『群像』2011年3月号。

16 再生すること/『群像』2011年4月号。

   17 言語は欲望する/『群像』2011年5月号。

   最終回(18) 現在という謎/『群像』2011年6月号。

2.   「世界史の変容・序説」/『アステイオン』086号(2017年5月26日)~092号(2020年6月)・CCCメディアハウス。

1 中国宋代から考える/『アステイオン』086号・2017年5月26日。

2 中国宋代から考える 第二回/『アステイオン』087号・20171116日。

3 『水滸伝』と『千一夜物語』/『アステイオン』088号・2018517日。

4 『ティラン・ロ・ブラン』と『国姓爺合戦』/『アステイオン』089号・20181115日。

5 東南アジアへの視線/『アステイオン』090号・2019523日。

6 「まなざし」の起源/『アステイオン』091号・20191212日。

7 歴史はなぜ快楽か?/『アステイオン』092号・2020年5月30日。

 

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202408182105改稿

111,980字(279枚)

 

三浦雅士――人間の遠い彼方へ

第Ⅰ部 批評家としての三浦雅士

β篇 「孤独の発明」本篇の圏域

 了