人間の根拠としての〈社会性〉、言語の中核としての「中動態」
■大澤真幸「「社会性の起原」85――中動態としての言語」/webサイト『現代ビジネス』2020年12月15日更新・講談社。
■連載論考(社会学・哲学・現代思想)。
■2024年9月1日読了。
■採点 ★★★★☆。
長年、講談社のPR誌『本』に連載されてきた「社会性の起源」*[1]を連載媒体をwebサイト『現代ビジネス』に移しての連載再開である。
今回は今までの議論の整理も兼ねて、以下の議論が展開される。
「人間とは何か?」という問題は、「人間的な〈社会性〉」に究極される。
例えば、2歳の高等猿類とやはり2歳の人間を知能検査で調べると殆んど違いはなかった。だが、「社会性」に関わるテストだけが、著しく人間に軍配が上がったという。
では、その場合、「社会性」に関わるテストとは何かというと「模倣」、つまり、真似ができるかどうかというものだったという。
さらに興味深い事例は、「数量認知についての一般的な発達過程においては、やはり、社会性をめぐる経験が重要な促進要因になっている」*[2]ようなのだ。或る数量の認識(保存課題)についてのテスト[3]をして、失敗した場合に「別の子どもと話し合わせる。別の子どもの方も、保存課題についての正しい知識をもってはいない。であれば、話し合っても無駄のように思えるのだが、そうではない。話し合いの後には、成績が劇的に向上するのだ。話し合われた内容ではなく、話し合いというコミュニケーションを経験したこと、そのことが、数量理解にポジティヴに作用し、成績の改善につながっているのである。」*[4]
以上の次第で、テーマが「社会性」に措定される。
そこで、人間に固有な現象として「言語」が取り上げられる。
まずは事実問題としての言語の起源が問われるが、これについては結局のところ結論が出ないとされるが、最後に興味深い仮説が提示される。
さらに、われわれが提起してきた仮説では、言語の前にはダンスを含む集団的な音楽がある。音楽のさらなる前史は、笑い——合唱のような一斉の笑い——である。「笑い→音楽→言語」という移行過程は連続的であり、言語が出現したからといって、音楽や笑いが消え去るわけではなく、むしろ言語からのフィードバックによって、それらはより豊かになる。こうした過程において、どこからが純粋な言語で、どこまでがまだ単なる音楽だ、という境界線を引くことは不可能だ。音楽や、さらに笑いでさえも原初の言語であると考えれば、言語の原点は深く遡ることができるし、逆に、音楽的な残滓がない純粋な言語にこだわれば、言語の起原は現代に近づいてくる。*[5]
言語の起源として舞踊、音楽、合唱のような笑いが暗示されている。恐らくは、何かが突出して発生したというよりも、混然一体として言語的な現象が生起したのであろう。
では、そもそも言語とは何であろうか?
「ハイデガーは、言語は「存在の家」(*[6])であると述べている。(中略)
人間は、言語の中に棲まっているのだ。」*[7]
また、「ラカンは、ハイデガーのこの言明を受けて、これにひねりを加えている。言語は、「家」かもしれないが、その家の中で人間は、拷問を受けているのだ、と。つまり、ラカンによると、「存在の家」は「存在の牢獄」であって、人間は、その中に捕らえられ、言語による拷問に苦しめられている」(*[8])と述べている。」*[9]
すなわち「ハイデガーとラカンは、言葉を発するということの中には本来的に受動性が刻まれている、ということを示唆しているのだ。」*[10]というのである。
以上の前提で、今回の章題にもなっている言語の本質として「中動態」が取り上げられる。
中動態は、先年、哲学者の國分功一郎の『中動態の世界』*[11]で広く知られるところとなった。「中動態は、「形は受動、意味は能動」であるもののことだ。」*[12]がそもそも「中動態は、能動態と受動態からの派生物ではなく、逆に、中動態こそ、両者を生み出している。」というのだ*[13]。
この事態を明確に述べたのがカナダ在住の日本人言語学者・金谷武洋である。彼は「中動態の機能は「行為者の不在、自然の勢いの表現である」*[14]としている。すなわち、われわれが言語を使用して何かを語るとき、むしろ、われわれは何者かによって語らされているのだろう。
では、その「何者か」とは誰か。
私が言葉を発しているとき、発話の真の担い手、発話の真の主体は、私ではない。第三者の審級である。第三者の審級は、しかし、最も原初的な状況においては、一個の対象として措定されているわけではない。第三者の審級の存在は、私でもなければ、私が語りかけている相手でもないものとして、つまり否定的にのみ感知されている。最も原初的な第三者の審級は、明確な像を結ばない他者性([15])として、言い換えれば私の外部の「自然の勢い」として、私には受け取られ、私はその勢いに従うように語るのである。
だから、こんなふうに言ってもよいことになる。いくつかの言語の文法的な要素として中動態があるだけではない。言語そのものが本質的に中動態的な現象である。「存在の家」にして「存在の牢獄」であると言語を記述したとき、指し示されていたのは言語の中動態としての本性だ。*[16]
以上のように、大澤の、この一連の論考は一回の内容が、たかだか、A5の冊子で8頁分ほどしかないが、極めて情報量が濃密で、多岐に渡り、多くの示唆に富む。
雑誌連載84回、web連載は102回に及んでいる。連載が完結すれば、恐らく、かの『ナショナリズムの由来』*[17]に並ぶ大著となるであろう。刮目してそれを待ちたい。
参照文献
ハイデッガー マルティン. (1997年). 『「ヒューマニズム」について』. (渡邊二郎, 訳) ちくま学芸文庫.
ラカン ジャック. (1987年). 『精神病』. (鈴木國文ほか,
訳) 岩波書店.
井上俊, 上野千鶴子,
大澤真幸, 見田宗介, 吉見俊哉 (共同編集). (1995年ー1997年). 『岩波講座 現代社会学』. 岩波書店.
金谷武洋. (2019年). 『日本語と西欧語』. 講談社学術文庫.
大澤真幸. (1994年). 『意味と他者性』. 勁草書房.
大澤真幸. (1998年). 『戦後の思想空間』. ちくま新書.
大澤真幸. (2002年/2011年). 『文明の内なる衝突――9.11、そして3.11へ』/(増補版). NHKブックス/河出文庫.
大澤真幸. (2007年). 『ナショナリズムの由来』. 講談社.
大澤真幸. (2008年). 『不可能性の時代』. 岩波新書.
大澤真幸. (2011年). 『「正義」を考える――生きづらさと向き合う社会学』. NHK出版新書.
大澤真幸. (2012年). 『夢よりも深い覚醒へ――3.11後の哲学』. 岩波新書.
大澤真幸. (2013年ー). 「社会性の起源」. 著: 『本』2013年12月号ー2020年3月号/web『現代ビジネス』2020年ー(連載中). 講談社.
大澤真幸. (2020年). 「社会性の起源85――中動態としての言語」. 参照先: 『現代ビジネス』:
https://gendai.media/articles/-/78321?imp=0
大澤真幸, 國分功一郎.
(2020年). 『コロナの時代の哲学――大澤真幸THINKING
O(オー) 016』. 左右社.
國分功一郎. (2017年). 『中動態の世界』. 医学書院.
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20240902 0857
4347字(11枚)
*[3] 「水を、細い瓶から底面の広い容器に移すと、水面の高さが下がるが、量は同じである。この保存課題は、子どもにとっては難しい。幼い子は、水面が下がったから減った、あるいは水面が広くなったので増えたと思ってしまうのだ。この保存課題に合格するのは、一般には、四歳から五歳になってからである。」
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