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2024年9月2日月曜日

人間の根拠としての〈社会性〉、言語の中核としての「中動態」 大澤真幸「「社会性の起原」85――中動態としての言語」

 

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人間の根拠としての〈社会性〉、言語の中核としての「中動態」

 

大澤真幸「「社会性の起原」85――中動態としての言語

 




■大澤真幸「「社会性の起原」85――中動態としての言語」/webサイト『現代ビジネス』20201215日更新・講談社。

■連載論考(社会学・哲学・現代思想)。

■2024年9月1日読了。

■採点 ★★★★☆。

 長年、講談社のPR誌『本』に連載されてきた「社会性の起源」*[1]を連載媒体をwebサイト『現代ビジネス』に移しての連載再開である。

 今回は今までの議論の整理も兼ねて、以下の議論が展開される。

 「人間とは何か?」という問題は、「人間的な〈社会性〉」に究極される。

 例えば、2歳の高等猿類とやはり2歳の人間を知能検査で調べると殆んど違いはなかった。だが、「社会性」に関わるテストだけが、著しく人間に軍配が上がったという。

 では、その場合、「社会性」に関わるテストとは何かというと「模倣」、つまり、真似ができるかどうかというものだったという。

 さらに興味深い事例は、「数量認知についての一般的な発達過程においては、やはり、社会性をめぐる経験が重要な促進要因になっている」*[2]ようなのだ。或る数量の認識(保存課題)についてのテスト[3]をして、失敗した場合に「別の子どもと話し合わせる。別の子どもの方も、保存課題についての正しい知識をもってはいない。であれば、話し合っても無駄のように思えるのだが、そうではない。話し合いの後には、成績が劇的に向上するのだ。話し合われた内容ではなく、話し合いというコミュニケーションを経験したこと、そのことが、数量理解にポジティヴに作用し、成績の改善につながっているのである。」*[4]

 以上の次第で、テーマが「社会性」に措定される。

 そこで、人間に固有な現象として「言語」が取り上げられる。

まずは事実問題としての言語の起源が問われるが、これについては結局のところ結論が出ないとされるが、最後に興味深い仮説が提示される。

 

 さらに、われわれが提起してきた仮説では、言語の前にはダンスを含む集団的な音楽がある。音楽のさらなる前史は、笑い——合唱のような一斉の笑い——である。「笑い→音楽→言語」という移行過程は連続的であり、言語が出現したからといって、音楽や笑いが消え去るわけではなく、むしろ言語からのフィードバックによって、それらはより豊かになる。こうした過程において、どこからが純粋な言語で、どこまでがまだ単なる音楽だ、という境界線を引くことは不可能だ。音楽や、さらに笑いでさえも原初の言語であると考えれば、言語の原点は深く遡ることができるし、逆に、音楽的な残滓がない純粋な言語にこだわれば、言語の起原は現代に近づいてくる。*[5]

 

 言語の起源として舞踊、音楽、合唱のような笑いが暗示されている。恐らくは、何かが突出して発生したというよりも、混然一体として言語的な現象が生起したのであろう。

 

 では、そもそも言語とは何であろうか?

「ハイデガーは、言語は「存在の家」*[6]であると述べている。(中略) 人間は、言語の中に棲まっているのだ。」*[7]

また、「ラカンは、ハイデガーのこの言明を受けて、これにひねりを加えている。言語は、「家」かもしれないが、その家の中で人間は、拷問を受けているのだ、と。つまり、ラカンによると、「存在の家」は「存在の牢獄」であって、人間は、その中に捕らえられ、言語による拷問に苦しめられている」*[8]と述べている。」*[9]

すなわち「ハイデガーとラカンは、言葉を発するということの中には本来的に受動性が刻まれている、ということを示唆しているのだ。」*[10]というのである。

以上の前提で、今回の章題にもなっている言語の本質として「中動態」が取り上げられる。

 中動態は、先年、哲学者の國分功一郎の『中動態の世界』*[11]で広く知られるところとなった。「中動態は、「形は受動、意味は能動」であるもののことだ。」*[12]がそもそも「中動態は、能動態と受動態からの派生物ではなく、逆に、中動態こそ、両者を生み出している。」というのだ*[13]

 この事態を明確に述べたのがカナダ在住の日本人言語学者・金谷武洋である。彼は「中動態の機能は「行為者の不在、自然の勢いの表現である」*[14]としている。すなわち、われわれが言語を使用して何かを語るとき、むしろ、われわれは何者かによって語らされているのだろう。

 では、その「何者か」とは誰か。

 

私が言葉を発しているとき、発話の真の担い手、発話の真の主体は、私ではない。第三者の審級である。第三者の審級は、しかし、最も原初的な状況においては、一個の対象として措定されているわけではない。第三者の審級の存在は、私でもなければ、私が語りかけている相手でもないものとして、つまり否定的にのみ感知されている最も原初的な第三者の審級は、明確な像を結ばない他者性[15]として、言い換えれば私の外部の「自然の勢い」として、私には受け取られ、私はその勢いに従うように語るのである

だから、こんなふうに言ってもよいことになる。いくつかの言語の文法的な要素として中動態があるだけではない。言語そのものが本質的に中動態的な現象である。「存在の家」にして「存在の牢獄」であると言語を記述したとき、指し示されていたのは言語の中動態としての本性だ。*[16]

 

以上のように、大澤の、この一連の論考は一回の内容が、たかだか、A5の冊子で8頁分ほどしかないが、極めて情報量が濃密で、多岐に渡り、多くの示唆に富む。

雑誌連載84回、web連載は102回に及んでいる。連載が完結すれば、恐らく、かの『ナショナリズムの由来』*[17]に並ぶ大著となるであろう。刮目してそれを待ちたい。

 

参照文献

ハイデッガー マルティン. (1997). 『「ヒューマニズム」について』. (渡邊二郎, ) ちくま学芸文庫.

ラカン ジャック. (1987). 『精神病』. (鈴木國文ほか, ) 岩波書店.

井上俊, 上野千鶴子, 大澤真幸, 見田宗介, 吉見俊哉 (共同編集). (1995年ー1997). 『岩波講座 現代社会学』. 岩波書店.

金谷武洋. (2019). 『日本語と西欧語』. 講談社学術文庫.

大澤真幸. (1994). 『意味と他者性』. 勁草書房.

大澤真幸. (1998). 『戦後の思想空間』. ちくま新書.

大澤真幸. (2002年/2011). 『文明の内なる衝突――9.11、そして3.11へ』/(増補版). NHKブックス/河出文庫.

大澤真幸. (2007). 『ナショナリズムの由来』. 講談社.

大澤真幸. (2008). 『不可能性の時代』. 岩波新書.

大澤真幸. (2011). 『「正義」を考える――生きづらさと向き合う社会学』. NHK出版新書.

大澤真幸. (2012). 『夢よりも深い覚醒へ――3.11後の哲学』. 岩波新書.

大澤真幸. (2013年ー). 「社会性の起源」. : 『本』201312月号ー2020年3月号/web『現代ビジネス』2020年ー(連載中). 講談社.

大澤真幸. (2020). 「社会性の起源85――中動態としての言語」. 参照先: 『現代ビジネス』: https://gendai.media/articles/-/78321?imp=0

大澤真幸, 國分功一郎. (2020). 『コロナの時代の哲学――大澤真幸THINKING O(オー) 016. 左右社.

國分功一郎. (2017). 『中動態の世界』. 医学書院.

 

 

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20240902 0857

4347字(11枚)



*[1] [大澤, 「社会性の起源」, 2013年ー]

*[2] [大澤, 「社会性の起源85――中動態としての言語」, 2020年]

*[3] 「水を、細い瓶から底面の広い容器に移すと、水面の高さが下がるが、量は同じである。この保存課題は、子どもにとっては難しい。幼い子は、水面が下がったから減った、あるいは水面が広くなったので増えたと思ってしまうのだ。この保存課題に合格するのは、一般には、四歳から五歳になってからである。」 [大澤, 「社会性の起源85――中動態としての言語」, 2020年]

*[4] [大澤, 「社会性の起源85――中動態としての言語」, 2020年]。下線引用者。

*[5] [大澤, 「社会性の起源85――中動態としての言語」, 2020年]。下線部引用者。

*[6] [ハイデッガー , 1997年]

*[7] [大澤, 「社会性の起源85――中動態としての言語」, 2020年]

*[8] [ラカン , 1987年]

*[9] [大澤, 「社会性の起源85――中動態としての言語」, 2020年]

*[10] [大澤, 「社会性の起源85――中動態としての言語」, 2020年]。下線引用者。

*[11] [國分, 2017年]

*[12] [大澤, 「社会性の起源85――中動態としての言語」, 2020年]

*[13] 「中動態は現代の言語には残っていない」のだが、「実は、日本語には、中動態がまったく毀損されることなくそのまま残っている。ほとんど誰も気付いてはいないが、日本語の自動詞は、中動態である(細江逸記「我が国語の動詞の相(Voice)を論じ、動詞の活用形式の分岐するに至りし原理の一端に及ぶ」『岡倉由三郎還暦記念論集』一九二八年)。」 [大澤, 「社会性の起源85――中動態としての言語」, 2020年]

*[14] [金谷, 2019年] [大澤, 「社会性の起源85――中動態としての言語」, 2020年]より援引。

*[15] 〈引用者註〉「第三者の審級」としての「他者性」とは極めて興味深い。大澤には『意味と他者性』 [大澤, 『意味と他者性』, 1994年]なる論著がある。

*[16] [大澤, 「社会性の起源85――中動態としての言語」, 2020年]。下線・四角囲い引用者。

*[17] [大澤, 『ナショナリズムの由来』, 2007年]

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