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2022年3月7日月曜日

変身と変貌 ――『呪術廻戦』・『鬼滅の刃』についての感想とその逸脱的考察

 

■光の影の記憶に――漫画・アニメイション論 その②

変身と変貌

――『呪術廻戦』・『鬼滅の刃』についての感想とその逸脱的考察



 

※【未定稿】 

本稿も前稿に続き、未定稿です。修正が必要なのは重々承知しておりますが、いささか忙しくなり、本人が忘れてしまうので一旦アップします。続稿は現在、複数の回路で準備中です。

 

 

大坂なおみ「世界を変える。自分を変えずに」“Dont change yourself. Change the world.

2019年・ナイキ・コマーシャル・メッセージ)

 

 

目次

変身と変貌... 1

1 「変身」と「変貌」. 2

2 気づき、発見... 3

3 変身の名残、変身の限界... 5

4 「ありのままで」. 7

5 変身から変貌へのギア・チェインジ... 11

6 「即身成仏」. 12

7 「犀の角のようにただ独り歩め」. 15

8 イエスが述べた言葉... 16

図 1 【仏教思想とキリスト教思想の変化】. 18

9 結語... 19

 【人間以外の生物によって人間が捕食される/襲われる主な漫画の比較】. 19

主要参考文献・資料... 21

 

 

 

1 「変身」と「変貌」

 

アニメイション作品の『鬼滅の刃』*[1]の最初の数話を、あるいは同時に『呪術廻戦』*[2]を視聴していて、最初に脳裏に浮かんだのが「変身と変貌」というテーマであった。

時系列的な整理は全くできていないが、恐らく、『ウルトラマン』*[3]や『仮面ライダー』*[4]の頃は「変身」をすることで、人間の力を越えることができた*[5]

ところが、あるところから*[6]、「変身」、つまり、顔や体全体が変わってしまう、という手段を使うことなしに、その身、そのままで、能力を進化/深化させていくのだ。後者を一旦、内的変化という意味で、仮に「変貌」と呼びたい。

前者は言うなれば、外面の仮面や衣装を変えることで、内的な心情を変えることであるのに対し、後者は、認識上の発見や気づき、あるいは心理的な驚きや、精神的な成長などの、内面の中の劇的な変化が、それが偶々(たまたま)、眼光、目つき、顔色、動作のスピード、瞬発力などの姿形の外形的な側面に反映されることを指す。つまり、仮面など装着せずとも、第三者からは、見た目ではっきりと感得出来得るものだと思う。

 

2 気づき、発見

 

しかし、よくよく考えれば、普通の人間であれば、そのような手段以外で自らをヴァージョン・アップさせることはできないし、そうであるとするなら、実はこれを象徴的に示すものは、武道を含めたスポーツ漫画*[7]の世界に近いのかも知れない。

例えば、『鬼滅の刃』とほぼ同時期に人気を博すことになった(あくた)()下々(げげ)の『呪術廻戦』がそれにあたる。とりわけ京都校との交流会編はどう転んでも、スポーツ根性(スポコン)漫画の対外試合のノリ以外の何物でもない*[8]

それの典型例が『巨人の星』*[9]である。主人公・星飛雄馬は、大リーグ・ボールなる魔球を開発して、野球界を席巻するが、それは一言で言えば、逆転の発想、もっと端的に言えば、単なるアイデア、思い付きに過ぎない。しかし、それは、客観的に言えば、常人には生中なことでは及び難い、気付きや発見の蓄積、あるいはそれの具現化への努力の累積だったのである*[10]。また、その大リーグ・ボール1号・2号・3号を打ち込もうと研究に研究を重ねる花形満を始めとするライバル・バッターたちも、とにかく、人が変わったように、秘密の発見に至るまで、まさに血の滲むかのようなトレイニングを重ねる。大リーグボール1号をホームランの形で打ち込むに至った花形は、試合後長期入院になるほどに肉体がボロボロになってしまったほどだ。この過程を、先程述べた「変貌」と呼んでおこう。

従って、『呪術廻戦』においても、『鬼滅の刃』にしても、スポーツをしている訳ではないし、本来的には、人間離れした能力と言えばいいのか、異能を持っている訳だから、変身してもよいのだが、何故か彼らはそれをしない。そのままの姿で戦うのである。

 

3 変身の名残、変身の限界

 

だが、辛うじて、変身の名残は残ってはいる。例えば、『呪術廻戦』においては、特級呪物・両面宿儺(りょうめんすくな)の指を呑み込んだ主人公・(いた)(どり)(ゆう)()は特殊な能力を獲得するのと同時に、肉体の主導権を両面宿儺と争うことになるが、そのような時、悠仁の顔面には、宿儺の相というか、顔が現れる。まさに両面の所以だ。この場合、変身というには、主導権を握られている訳だから、額面通りの変身という訳にはいかない。

しかし、『鬼滅の刃』ではどうか。

変身と「仮面を被る」というのが同義なのか、本来的に言えば、これは検討しなければならないが、例えば、『仮面ライダー』は後に「変身」の代名詞となるが、原作漫画の初期のおいては、改造手術の傷跡を隠すための、文字通り仮面を装着するものであった*[11]

その意味で、『鬼滅の刃』の冒頭部分ではあるが、炭治郎が「鬼殺隊」の選抜試験に臨むに当たって、彼を指導した「育手」鱗滝左近次は天狗の仮面を被り続け、いかなる場合でもそれを外そうとはしない*[12]。あるいは、鋼鐵(はがね)(づか)(ほたる)を始めとして、刀鍛冶の里の職人は全員ひょっとこの仮面を付けている。

さて、問題は、炭治郎は最終選抜に当たって、鱗滝から魔除けとして狐の仮面を与えられるが、彼はそれを正面からは装着せず、額のところに(はす)に付ける。結局のところ、それは、戦いの最中に割れてしまう。炭治郎の受けるべき災厄を肩代わりして、その面は割れた、とも考えられるが、その魔除けの狐の面がなくても、炭治郎はその最終選抜の戦いを勝ち抜いたのではないだろうか。

ここに、或る意味での「変身」の限界、「変身」の終焉が現れているのではないかと思う。

 

4 「ありのままで」

 

文脈を逸脱することになるが、わたしがここで想起するのはウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ製作による長篇アニメイション作品『アナと雪の女王』*[13]である。実は正確にこの作品を理解しているとは言えないが、一応の感想としておく。

『アナと雪の女王』と言えば、そのテーマソングであり劇中歌である「Let it go(ありのままで)」*[14]で知られているが、まさにそのテーマこそ、この映画のテーマでもあり、そのテーマの意味と価値が、無論濃淡はあるにせよ、広く世界中に「受け入れられた」と言ってよい*[15]

この劇中歌はアナの姉であるエルサが独唱されるが、それはこういう文脈の中でである。エルサは手に触れたものを凍り付かせるという魔法をもっていて、無論それは、通常では隠し通すことにしていた。ところが、或ることから、人々に自らの魔法を知られてしまったエルサが、王国から逃げ出した直後の場面で、この曲が高らかに歌われるのである。もはや自分の意思で抑えることが出来ないほど強大な魔法を持つエルサが、幼少期以来ずっと抑えられてきた「ハンディキャップ」から解放され、いかなるものにも恐れずに魔法が使えることに歓喜し、氷の城を築城するシーンで使われている。

翻訳家・高橋知伽江による公式の和訳で全文を引用する。

 

降り始めた雪は足跡消して

真っ白な世界にひとりの私

風が心にささやくの

このままじゃダメなんだ

 

とまどい傷つき

誰にも打ち明けずに悩んでた

それももうやめよう

 

ありのままの姿見せるのよ

ありのままの自分になるの

何も怖くない 風よ吹け

少しも寒くないわ

 

悩んでたことが嘘みたいね

だってもう自由よ 何でもできる

どこまでやれるか自分を試したいの

そうよ 変わるのよ私

 

ありのままで空へ風に乗って

ありのままで飛び出してみるの

二度と涙は流さないわ

 

冷たく大地を包み込み

高く舞い上がる 想い描いて

花咲く氷の結晶のように

輝いていたい もう決めたの

 

これでいいの 自分を好きになって

これでいいの 自分信じて

光あびながら歩きだそう

少しも寒くないわ

 

 [ロペス(作詞・作曲), ロペス(作詞・作曲), メンゼル(歌唱), 松(日本語版歌唱), 高橋(和訳), 2013年]下線部引用者)

 

わたしは当初のこの歌のヴィデオ・クリップを見て、エルサは、それまでの彼女自身の偽りの姿を捨てて、本当の自分へと変わったのだ、真の自分自身へと「変身」したのだと思い、「変身の倫理学」*[16]なる小文を構想したのだが、今、考えてみると、当然のことながら、もともと持っていた自分の核となるべきものを現出、表出しているのだから、「変身」ではなくて、まさに「変貌」というべきではなかったか。無論、本人的には「変貌」しているつもりはなく、「ありのままで」いいのだ、赤塚不二夫の代表作とも言える『天才バカボン』*[17]の「パパ」のお言葉で言えば、「これでいいのだ」と、自己ととも世界全体を肯定していることになるが、周囲の人間からすれば、それは、紛うことなく、「人が変わった」、すなわち「変貌」したというしかないだろう。

 

5 変身から変貌へのギア・チェインジ

 

つまり、ここまでの(いささか無理槍な)議論をまとめると、戦後日本のサブ‐カルチャーの、或る特定の領域で、従来の自己を否定して、異能を獲得する「変身」という方法から、従来の自己を否定するにせよ、肯定するにせよ、もともと保持している能力を発現させるか、あるいは何らかの形でヴァージョン・アップさせるかの違いはあるにせよ、いずれにしても、その身そのままで異能を把持することを可能にする「変貌」へと、どこかのタイミングでギアが入れ替わったのではないか。

この問題についての具体的な議論については別稿にて論ずる予定である。本稿は一旦、覚書として残しておきたい。いわゆる「サブ‐カルチャー」の領域については以上である。以下は、わたし自身の、より個人的な覚書となる。

 

6 「即身成仏」

 

ここで、更に、話が逸れ捲って、大変申し訳ないがのだが、仏教思想史についていささか想起する。わたしのいい加減な、というか噂話を小耳に挟んだ程度で、片腹痛いわ、という方には心よりお詫びをしたい。

と、最初に言い訳を噛ましておいて、見てきたような嘘八百を書くと、言われそうだが、まー、続けよう。

村上春樹の『騎士団長殺し』*[18]でも言及されていたが、地中の、密閉された穴に閉じこもって経を唱えながら死んでいく。これを「即身成仏」というと、当時の人達は考えたていたようだが、果たしてそうだろうか。いわゆる「大乗仏教」以前の教えでは、善根の整ってない動物や人間は、何度も生まれ変わって(つまり「変身」だ)、善根を積むことによって、次第に仏に近づいていく。「仏」になる、すなわち「成仏」するということは、死んで極楽に行くことではない。仏の生命を湧現することである。「仏の生命」とは、生命の状態の最も高次なものを言う。平たく言えば「悟り」を額た状態であろうか。

もう、アメーバとか、オミクロン株なんかが仏になるためには、相当困難な道行が予想される。うん、ま、頑張れ! 女性も一旦男性に生まれ変わったのちに仏になるという。これは今時のジェンダー・バランスからすると、もう完全にアウトですね。

ところが、大乗仏典の、取り分け、『法華経(妙法蓮華経)』(成立年代不明)に至って(と言っても『法華経』そのものは釈迦の教えではない)、人間の老若男女、動物、草木、その身、そのままで仏になれる、成仏できるというのが「即身成仏」の元意であると記憶している。つまりは、「変身」ではなくて「変貌」なのだ。恐らく、この草木成仏の思想、すなわち、自然界丸ごと仏であるとする思想は、乾いた世界で誕生した、元の仏教の思想にはない。比較的温暖で住み易い中国や、日本に至って開花した思想だと言える。したがって、翻って見れば、その考えは、人為的なもの、自然界のすべてに「八百万の神々」を認める、広く言えば「アニミズム」、狭く言えば、日本の土着の、後に「神道」としてまとまることになる思想に他ならない。しかし、とはいうものの、ここにあるのは仏教思想の起点を含んだうえでの、限りなく果てまで行って、結局戻って来てしまった、仏教思想の極点があると言えまいか*[19]

一部の学者たちは、このような仏教の日本的展開を批判して、そんなものは仏教でもなんでもないとしている*[20]ようではある。つまり、仏教の起源を追究していくと、現今の仏教、仏教思想と言われているものとはまるで違うというのだ。

しかしながら、いささか興味深い点として、起源を求める試みとしての仏教と、そして、例えば同様に起源を求めるこころみとしてのキリスト教との違いに気づく。あるいは仏教の大乗的展開が、実はキリスト教の起源と相似形を示すのではなかろうか。

これは学問的に精緻な議論をしようというのではない。繰り返しになるが、単なる、わたしの覚書に過ぎない。

 

7 「犀の角のようにただ独り歩め」

 

というのは、原始仏教、というよりも、釈迦その人は、既存の宗教や思想に批判する立場を取った、恐らく、ソクラテスや孔子などのような思想家・哲学者のような働きをしたのではなかったかと推測する*[21]。素人考えで言えば、釈迦の考えは「煩悩を消し去れ」ということに尽きるのではないだろうか。人間は4つの苦しみ、すなわち病に苛まれる苦しみ、老いる苦しみ、死ぬ苦しみ、そして、そう考えれば生きること自体の苦しみに、人間は苦しめられる*[22]。それは、何故か。生きることに纏わる様々なことに煩悩を持つからである。煩悩、つまり欲望がある限り、人の苦悩を尽きないということだ。典型的な文言が、中村元・訳による『ブッダのことば――スッタニパータ』*[23]にある。

 

交わりをしたならば愛情が生じる。愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情から(わざわ)いの生じることを観察して、((さい))の角のようにただ独り歩め。

(第1 蛇の章 3-36 [中村, 1958年]

 

こう言ってよければ、現世の否定である。「幸い」(のようなもの)は、現世にはない。それらを否定した彼岸、あの世にこそあると考えたといってよい。

 

8 イエスが述べた言葉

 

 ところが、原始キリスト教、というよりも、この場合もイエスその人の考えということだが、彼はどんなことを説いたのか。これも学問的には、様々錯綜しているので、ごく一部の議論に過ぎないことをお断りをした上で、新約聖書学者の荒井(ささぐ)『イエスとその時代』*[24]に従えば、新約聖書の中で、実際にイエスが述べたであろう言説は極めて少ない。ほんの二か所に過ぎないと言う。

 

天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ(正しい者にも、正しくない者にも、雨を降らしてくださ)る。(「マタイによる福音書」5・45。( )の中はマタイの加筆)

 

 何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことを思い患うな。……空の鳥を見るがよい。蒔くことも、刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それだのにあなたがたの天の父は彼らを養ってくださる。あなたがたは彼らよりも、はるかに優れた者ではないのか。……また、なぜ着物のことを思い患うのか。野の花がどう育っているか、考えてみるがよい。働きもせず、紡ぎもしない。……今日生えていて、明日は炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたに、それ以上してくださらないはずがあろうか。……だから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って思い患うな。……明日のことを思い患うな。明日のことは、明日自身が思い患うであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

(「マタイによる福音書」6・25-34 [荒井, 1974年]p.p.184-185から援引)

 

ここに自然界全体に仏性を見る大乗仏教との近似性を見るのは牽強付会に過ぎるであろうか。あるいは、広く「アニミズム」の思想を捉えるのは我田引水に過ぎるであろうか。

 

1 【仏教思想とキリスト教思想の変化】

テキスト ボックス: 自然崇拝テキスト ボックス: 神崇拝テキスト ボックス: 自然崇拝,テキスト ボックス: 神崇拝
 

 

 

 


楕円: 中世キリスト教楕円: 原始仏教 

 

テキスト ボックス: 来世重視
 

 


いずれにしても、ここで宗教思想の歴史を振り返ろうとしている訳ではない。

 今、この時代、この世界に生きる我々にとって、いかなる世界解釈、世界の捉え方が、より多くの人々にとってより多くの生きることの意味や価値を開示するのか、それをここでは考えてみた。

 

9 結語

 「変身」とは、或る意味では、自分自身を変えることによって、その変身することで勝ち得た何らかの能力を外界に及ぼすことである。

 それに対して、本稿における意味での「変貌」とは、内的な、何らかの気づき、発見による、何らかの変化を意味する。恐らく、その場合、自分自身の否定ではなく、多かれ少なかれ、何らかの意味における自己肯定があるのではなかろうか。

  そのことを一旦、戦後日本のサブカルチャー、取り分け、特撮ドラマ、アニメイションとジャンルは異なるが、若年層も含む、一般の視聴者の広く受け入れられた作品にどう表れているかを、相当大雑把に粗筋だけを素描してみた。

 

表 1 【人間以外の生物によって人間が捕食される/襲われる主な漫画の比較】

作品名

発表年

主人公と敵との「融合関係」

人間(主人公側)の対抗形態

対抗のあり方

『デビルマン』

1972年~73年

デーモン(悪魔)

〈人間優位〉 悪魔人間(デビルマン)

=人間と悪魔の合体体

・人間側:〈組織的〉 悪魔特捜隊

・主人公側:組織的〉 デビルマン軍団、物語の大半は〈個人的〉

・悪魔特捜隊:〈意志的〉 悪魔を探し出して殺害するが、その被殺者のほとんどは人間だった。

・デビルマン軍団:〈結果的に意志的〉 物語の最後でデーモン軍団と「アーマゲドン」(最終決戦)をする。それまでの主人公は〈受動的〉

『寄生獣』

1988年~95年

パラサイト(寄生生物)

〈共存〉 右手をパラサイトに乗っ取られる

〈個人的〉 組織的な対抗は存在せず

〈受動的〉

『進撃の巨人』

2009年~21年

巨人

〈敵対〉 (融合関係は全く見られない)

〈組織的〉 兵団

〈受動的〉

『鬼滅の刃』

2016年~20

〈拮抗〉 妹が鬼化

〈組織的〉 鬼殺隊

〈意志的〉

『呪術廻戦』

2018年~

呪霊

〈人間優位〉だが、しばしば〈拮抗〉 呪霊の指を呑み込むことで呪術を獲得するが、しばしば呪霊が出現して介入する

〈組織的〉 呪術高等専門学校

〈意志的〉

(【表1についての簡単なコメント】 軽々には言えぬが、1970年~80年代を代表する2作品は自らを脅かすものへの対抗のあり方が、基本的には〈個人的〉であり、従って必然的に〈受動的〉となる。ところが2000年代に入ると、〈受動的〉なあり方の〈組織的〉に変り、2010年代には〈意志的〉な形での〈組織的〉な行動が主軸となる。また、その流れ、変化の背景としては、主人公の中で敵対勢力との融合関係が〈人間優位〉→〈共存〉→〈拮抗〉という形で変化していることが分かる。また、ここには同主題を持つ2つの重要だと思われる作品『約束のネバーランド』と『東京喰種トーキョーグール』が抜けている。それらも含めて、詳細は別稿「「存在の原的負荷」について」(この言葉そのものは加藤典洋が『文学地図』などで使用した用語「関係の原的負荷」に負っている)にて論ずることとする)

 

 

 

 

 

主要参考文献・資料

 

『ウィキペディア(Wikipedia)』. (20211012 () 16:49更新). 「四苦八苦」. 参照先: 『ウィキペディア(Wikipedia)』.

つげ義春. (1968). 「ゲンセンカン主人」. 『ガロ』.

バック(監督)クリス, リー(監督)ジェニファー. (2013). 『アナと雪の女王』. ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ.

ロペス(作詞・作曲)アンダーソンクリステン, ロペス(作詞・作曲)ロバート, メンゼル(歌唱)イディナ・, 松(日本語版歌唱)たか子, 高橋(和訳)知伽江. (2013). Let it go(ありのままで)」.

円谷英二(監修). (1966-67). 『ウルトラマン』. TBS・円谷プロダクション.

芥見下々. (2018-). 『呪術廻戦』. 東京: ジャンプ・コミックス(集英社).

外崎春雄(監督). (2019-). 『鬼滅の刃』. ufotable.

外崎春雄・監督. (2019-22). 『鬼滅の刃』. アニプレックス・集英社・ufotable.

梶原一騎(原作), 川崎のぼる(画). (1966-71). 『巨人の星』全19. マガジンKC(講談社).

荒井献. (1974). 『イエスとその時代』. 岩波新書(岩波書店).

三浦雅士. (2018). 『孤独の発明 または言語の政治学』. 講談社.

手塚治虫(原作), 浦沢直樹(作画). (2003-09). PLUTO――プルートゥ』全8巻. ビッグ・コミックス/ビッグ・コミックス・スペシャル(小学館).

石森章太郎. (1971). 『仮面ライダー』. 講談社.

石森章太郎. (1972-74). 『人造人間キカイダー』全6巻. サンデー・コミックス(秋田書店).

石森章太郎(原作). (1971-73). 『仮面ライダー』. NET.

赤塚不二夫. (1969). 『天才バカボン』. マガジンKC(講談社).

村上春樹. (2917). 『騎士団長殺し』全2巻. 新潮社.

中村元(訳). (1958). 『ブッダのことば――スッタニパーナ』. 岩波文庫(岩波書店).

柄谷行人. (2012). 『哲学の起源』. 岩波書店.

朴(パク)性厚(ソンフ). (2020). 『呪術廻戦』. 東京.

本宮ひろ志. (1968-73). 『男一匹ガキ大将』. ジャンプ・コミックス(集英社).

鈴木松司. (1986). 「近代科学の起点と極点」.

 

 

 

 

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2022年3月7日アップロード

 

2022年2月22日  第1稿改稿 10964字(28枚)

 

2022年2月22日  第1稿脱稿 10371字(26枚)



*[1] [外崎 春. , 2019年-]

*[2] [朴(パク), 2020年]

*[3] [円谷, 1966年-67年]

*[4] [石森 章. , 1971年-73年]

*[5] これは、あるいは、全く無関係かも知れぬが、この頃の敵役の絶命の仕方は、基本「爆発(と言っても、爆死なのだから、死んでいることも、陰惨であることも全く変わりがないが)、溶けてしまう、とかの、首を切られてて絶命するなどの、「死」あるいは、「生から死への変容」の露出を避けていた。子ども番組なのだから当然ではある。つまり、ここには「変身から変貌へ」という主題系と「爆発から斬殺へ」という主題系が並行していないだろうか。あるいは、こういうことか。永井豪原作の『デビルマン』の原作漫画は、日本漫画史上に残ると言えるほど、グロテスクかつ崇高な場面が頻出するが、テレ‐ヴィジョン放送用に作られたアニメイション作品は、当然のことながら、物語の展開も、グロテスクな場面も全くない。確か、敵のデーモン(妖獣と言っていたか)も、最後は爆発だった気がする。ということは、『鬼滅の刃』や『呪術廻戦』などは、もう子供番組ではないということなのか。『少年ジャンプ』に連載されていても、子ども向けではないというのか。ま、そんなことを言えば、『デビルマン』が連載されていたのも「少年向け」の『少年マガジン』だったが。実際には、かつての『少年マガジン』は現在の「青年向け漫画誌」の位置にあったと思う。実際、小学生のわたしには、『マガジン』だけ難解だったことを覚えている。

*[6] その「あるところ」がどこなのかが、わたしには分からないのだが。実はこれこそ大問題だと考えている。

*[7] 何故、端的に「スポーツ」とせずに、「スポーツ漫画」としたかというと、スポーツそのものから用例を取るがわたしには困難だからだ。つまり、実際のスポーツと、それを扱ったスポーツ漫画は違うだろうという予測による。

*[8] 例えば、虎杖悠仁と京都校の東堂葵の対決と共闘の様は呪術というよりも、まさに武道系のスポーツ漫画(例えば、梶原一騎原作による一連の漫画)、あるいは番長たちが戦う学園漫画(例えば、本宮ひろ志の『男一匹ガキ大将』(1968-73年・ジャンプ・コミックス(集英社))など)を連想させる。

*[9] [梶原 川崎, 1966年-71年]

*[10] 飛雄馬の開発した「大リーグボール」は通常の投球の真逆を行くアイデアの集積である。大リーグボール1号(最初から「1号」と名付けられていた)は相手バッターのバットに意図的に当てて、その打球を打ち取り、アウトにする。2号はいわゆる「消える魔球」で投球が消える(厳密には見えなくなる)もの。これは、プロ野球選手であった父・星一徹が壊れた左肩を補うために開発した「魔送球」の応用による縦変換。3号は余りにも緩いスピードで投げられたため、高速で振られたバットを避けるというもの。ただし、夏目房之介『消えた魔球――熱血スポーツ漫画はいかにして燃えつきたか』(1991年・双葉社)によれば、これらのアイデアは梶原の独創ではなく、元のネタとして『ちかいの魔球』(原作:福本和也・作画:ちばてつや・1961-62年・講談社)があるとしている。それは『週刊少年マガジン』の編集長であった宮原照夫が『ちかいの魔球』と『巨人の星』の企画者で、漫画家・原作者のプロデュースも行ったらしいので当然とも言える(『実録! 少年マガジン名作漫画編集奮闘記』2005年・講談社)。

*[11] [石森 章. , 『仮面ライダー』, 1971年]

*[12] 余談ではあるが、この天狗の仮面は言うまでもなく、つげ義春の「ゲンセンカン主人」(1968年・『ガロ』)のパロディかオマージュだと思われるが、文脈的にいささか意味不明とも思える。何か意味があるのだろうか。

*[13] [バック(監督) リー(監督), 2013年]

*[14] [ロペス(作詞・作曲), ロペス(作詞・作曲), メンゼル(歌唱), 松(日本語版歌唱), 高橋(和訳), 2013年]

[15] 例えば、YouTubeには、この曲を25カ国の言語で歌い繋いでいく「25カ国語ver」が公式に公開されている(https://youtu.be/rFLJrF9n3qw)。

*[16] これは、『仮面ライダー』を代表とする、変身「ヒーロー」に取材した「変身の倫理学」と、『人造人間キカイダー』 [石森 章. , 『人造人間キカイダー』全6巻, 1972年-74年]から『プルートゥ』 [手塚 浦沢, 2003年-09年]までの、自らの意志を持つ「ロボット」を論じた「機械の倫理学」と対をなすものである。

*[17] [赤塚, 1969年]

*[18] [村上, 2917年]

*[19] この、「仏教思想の起点と極点」が合一するというテーマは、わたしに残された時間があれば、是非展開したいが、難しいかと思われる。基本的なアイデアは、畏友・鈴木松司君の「近代科学の起点と極点」(1986年)による。

*[20] 文芸評論家の三浦雅士は『孤独の発明 または言語の政治学』(2018年・講談社)において、駒沢大学仏教学部の袴谷憲昭(『批判仏教』1990年・大蔵出版・『本覚思想批判』1990年・大蔵出版、等)・松本史朗(『縁起と空――如来蔵思想批判』1989年・大蔵出版、等)を中心とした「批判仏教」の動きについて詳説している。

*[21] 例えば、柄谷行人『哲学の起源』(2012年・岩波書店)。

*[22] 「比丘等よ、苦聖諦とは、此の如し、/生は苦なり、老は苦なり、病は苦なり、死は苦なり、/怨憎するものに曾ふは苦なり、愛するものと別離するは苦なり、求めて得ざるは苦なり、/略説するに五蘊取蘊は苦なり。」『南伝大蔵経』「大犍度」 [『ウィキペディア(Wikipedia)』, 2021年10月12日 (火) 16:49更新]

*[23] [中村, 1958年]

*[24] [荒井, 1974年]

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