ドストエフスキー再発見
江川卓『ドストエフスキー』
■江川卓『ドストエフスキー』1984年12月20日・岩波新書。
■2021年12月17日・ネット(博信堂書店・小樽)・¥510にて購入。
■長篇評論(ロシア文学)。
■2022年1月4日再読了。
■採点 ★★★☆☆。
恐らく、いまを遡ること30年ぐらい前に『新潮』にて江川卓による類稀なるドストエフスキー論「謎解き『罪と罰』」の連載初回「哄笑する人形師の影」を読み、驚倒した覚えがある。そこから、選書化された同連載『謎とき『罪と罰』』を手始めとして、ドストエフスキーの全小説作品に眼を通し、本作品『ドストエフスキー』も手に取ったはずである。
そのときはこちら側の読解力というべきか、理解力が伴ってなく、焦点を合わせることができず、まあ、そういうものか、ぐらいで終わってしまったのだと思う。
今回再読して、世界的なドストエフスキー学のレヴェルや状況がわたしにはとんと分かりかねるが、早世したと言ってもよい、ロシア文学の中では、恐らく「異端児」の端倪すべからざる「読み」の技と、その深みの冴えに舌を巻いた次第である。
江川卓といえば新潮選書の『謎とき』シリーズではあるが、そこで展開された、様々な知見の片鱗が惜しげもなくここでは展開されている。
例えば、ドストエフスキーが、聖書占いとして、死の直前に開いたページには「今はとどむるなかれ」を読み、彼は自らの死を悟ったとのことだが、これは彼がたまたま持っていた1823年版の教会スラヴ語訳聖書では、確かにその言葉が存在するが、通常の聖書の該当箇所は「さあ、そう言わずに!」と訳せるものだという。もし、ドストエフスキーが通常のロシア語版を手に取っていたら、あるいは文豪は59年の命ではなかったかも知れない、という(本書p.p.1-9)。
本書は全3章から構成されており、従来、借金取りと締切に追われて書き殴る悪文の手本のようなイメージを打破し、そのデビュー作『貧しき人々』から、既にして、相当入念な構想と、無意味な言葉は一語として存在しないと言われるぐらいの小説作法を持っていたことを示したのが第Ⅰ章「新しい小説世界」。
そこには言葉としてはほとんど出ていなくても、底流として流れているロシアの民俗や宗教的伝統があることを説いたのが第Ⅱ章「ロシアの土壌、ロシアの神々」。
また、ドストエフスキーの作品が現代にまで及ぶ長期的な未来への視座を持っていることを明らかにした第Ⅲ章「小説をまねる現実」。
中でも、今回蒙を啓かれたのが、一見単純なセンチメンタルなメロドラマのように軽く見られていた『貧しき人々』の革新性である。
旧ソ連の批評家シクロフスキーはドストエフスキー論『肯定と否定』において、文豪のデビュー作について「この小説は書物的だ」(本書p.15から援引)と述べているらしいが、恐らく、江川も述べているように、それはデビュー作にとどまらずドストエフスキーの小説全体についても言えることであろう。ただし、その影響関係などについては相当念入りな探索が必要だと思われる。ゴーゴリの「外套」は当然としても、プーシキンの「駅長」となると、なかなか現代の一般の読者では想像すら及ばない。そして、その前史としてカラムジンの「哀れなリーザ」ときたらなおさらである。詳細は省くが、いうなれば『貧しき人々』はこれらの作品のパロディになっているというのだ。つまり、この小説は悲劇ではなく、喜劇だというのだ。これは驚くべき読解である。確かに、我々はもっと、この作家の小説群に喜劇性を読み込まねばならぬということであろう。
【📓ノート】
★・ペトラシェフスキー事件の「ユダ」=密告者は兄ミハイルとの説あり(p.59)
・★年甲斐もなくこんな小娘にふりまわされたマカール・ジェーヴシキンの道化じみた悲劇性(p.32)
・金貸し老婆の義妹リザヴェータが鞭身派に近いセクトの「聖母マリア」だとしたら、ラスコーリニコフは「聖母マリア」を殺害したことになる(p.p.132-133)
・ラスコーリニコフがソーニャに「ラザロの復活」を読めと言ったのは、その日、ポルフィーリイと対決する際に「ラザロを歌うしかないか(「泣き落としにかける」という意味のロシア語の慣用表現)」と思っていたところ、当のポルフィーリイに「ラザロの復活を信じているのか」と問われ、「信じている」と答えてしまったからだという(p.p.138-140)。なるほど。
★・「ラザロの兄弟」の喩話はドストエフスキーにとって、とても重要。アリョーシャとスメルジャコフの関係とラザロの兄弟。アリョーシャは余りにも無頓着だった。アリョーシャの母ソフィア=ソーニャとスメルジャコフの母リザヴェータ。そのことを反省して、アリョーシャは物語の後、ゾシマ長老の談話をまとめたのではないか(p.p.151-153)
・教会スラヴ語は中世期のエスペラント 11世紀以降公用語となったp.5
・ドストエフスキーのユーモアの才能 p.p.13-14
・「われわれはみなゴーゴリの『外套』から出てきた」=卒業してしまった p.16
・絶妙なパロディ効果 p.28
・ワーレンカはなかなかに気が強くて、けっこうエゴイスチックなところもあるちゃっかり娘なのだ。 P.29
・何度なくジェーブシキンにチョッキを縫うと言っておきながら結局縫ってない p.30
・「哀れなワーレンカ」 「哀れなリーザ」のパロディ p.31
・プーシキン「駅長」 ドゥーニャはミンスキーに強引に連れ去られるが、どうやら自分から好んで馬車に乗っていったようだ p.35
・メタ文学としてのプーシキン p.41
・自殺 死後「神の国」での救済を断念 p.56
・柔和なる者(クロートキエ)=抑圧されている者、忍耐する者 p.57
・★ゾシマ長老の反教会的な言葉「ユダのためにも祈れ」→スメルジャコフの自殺も視野 スメルジャコフ=ユダ p.p.58-59
・聖と俗の二層舞台=ヴェルテップ p.60
・語り(スカース)というスタイル p.73
・プロップ『昔話の形態学』(北岡誠司他訳・白馬書房) 形態素 p.76
・プーシキンの狙い 作者とは独立の語り手を設定し、それを複数化することで、小説に複数の目、複数の声を持ち込み、「原ストーリー」を新たによみがえらせる。 P.77
・作者とは違う「ゼロの語り手」 p.79
・悪霊=軍団(レギオン) p.96
・ツルゲーネフをモデルにしたカルマジーノフ p.97
・イワン皇子=桃太郎 p.97
・『悪霊』のピョートル 自称ペテン師 僭称者 ゼロに等しい存在になる p.98
・ペテルブルグでのスタヴローギンは「悪霊軍団」を統率する魔王だった。 P.99
・★【少女凌辱】 イエスによって最大の罪とされている「この小さき者の一人を罪にいざなう」(マルコ9・42) p.99
・「スタヴローギンより」=「スタヴローギン福音書」 p.p.99-100
・チホンの最初の反応「文章を少し直せませんかな」 p.100
・【比喩】マリヤ・レビャートキナのスタヴローギンへの罵り「おまえはみみずくで小商人がいいところだ」 p.100
・神がかり=ユロージヴイ 身体の障碍者 p.108
・殺されたリザヴェータはウロード(醜女・お化け) 「われらはキリストのために愚か者となった」(コリント人への手紙・前4・10)
・見世物として死刑 p.110
・ムイシキンが「キリスト公爵」であるとすれば、これは千八百年以上も前にイエス・キリストが、つまり自身が体験した十字架上の処刑の記憶が、ムイシキンの心によみがえったとも読める。 P.110
・アッシジの聖フランチェスコ p.111
・大道芸 見世物 ユロージヴイ p.112
・道化的人物 p.113
・ユーモア 笑い 服装の拘り ムイシキンの「袖なしマント(プラーシチ)」(イエスと同じ服装)の描写に8行費やす 風呂敷包み ロシア的ではない服装 p.115
・『ドン・キホーテ』 美しさ=滑稽さ p.118
・人間はキリストになり得るのか? P.119
・『死の家の記録』の巡礼マカール老人→ゾシマ長老 p.125
・苦しみへの欲求 p.127
・スメルジャコフの自殺→ドミートリ―の台詞「犬には犬らしい死にざまがあらあ」←ラザロの歌「おまえは犬にように死を待てばよい」 p.150
・ゾシマ長老の思想 人間同士が兄弟の関係になる 主人と召使が立場を逆転すべきだ p.151
・異界とのふれあい スヴィドリガイロフの幽霊 ラスコーリニコフの夢 p.154
・★「存在感」へのあこがれ どうやら彼(スタヴローギン)は、自分が殺したり、あるいは犯して自殺させたりする行為を通じて、はじめて相手の存在をなまなましく感じとり、その「存在感」に自身をつらぬかれる傾きがあったらしい。 P.158
・「レタルギア」 スタヴローギンは、それこそ蠟人形のように、まったく姿勢を崩さず、顔面の筋肉ひとつ動かすことなしに眠ることができた。 P.159
・ミウーソフの判断力はズレている ゾシマ長老は型破り 異端児 「世界教会」への志向 p.165
・イワンは、実はアル中で女好きだった p.p.154-156
・アリョーシャは13年後33歳となる p.174
・完全現在の「至高の実存」 「時はもはやなかるべし」 p.200 cf.木村敏の「祭りの最中(イントラ・フェストゥム)」(『時間と自己』)
・世界を救うのは美(女)なのか? P.201
・復活したイエスはまずマグダラのマリヤに会いに行った(マルコ16・9、ヨハネ20・14-18) p.204
・マグダラのマリヤ 『罪と罰』のソーニャ、『カラマーゾフ』のグルーシェンカ p.p.206-207
・アリョーシャはやがて、悪妻リーザと兄嫁グルーシェンカの間で激しい苦悩を経験するだろう p.208
・ドストエフスキーのほとんどの作品は女性的なものを求め続けながら、ついにそれを果たし得なかった男性たちの物語である。 P.209 cf.村上春樹『女のいない男たち』
4010字(11枚)
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20200105 1447
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