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2019年9月16日月曜日

「自閉」のゆくえ 村上春樹「ねじまき鳥と火曜日の女たち」考


「自閉」のゆくえ
村上春樹「ねじまき鳥と火曜日の女たち」考




■村上春樹「ねじまき鳥と火曜日の女たち」/『新潮』1986年1月号/『パン屋再襲撃』1986年4月・文藝春秋/The Elephant Vanishes,1993,Knopf/『象の消滅―― 短篇選集1980-1991』2005年3月30日・新潮社。
短篇小説。
2019年9月14日読了。
■採点 ★★★☆☆。




 加藤典洋(『村上春樹の短編を英語で読む』2011年・講談社)に導かれて村上春樹の短篇の再読を始める。
 多分30年ぶりぐらいに「ねじまき鳥と火曜日の女たち」を再読する。再読というが、当時、何回読んだか記憶していないぐらい読んだ、はずだ。本作は村上春樹の短篇小説の中でも随一、といってもいいぐらいわたしは好きだった。
 ご存じのように本作は長篇小説『ねじまき鳥クロニクル』(1994年ー95年・新潮社)の土台になった作品としても知られている。
 それはあくまでも土台であって、全く別の作品として考えるべきなのだろう(これはまた別に論ずる)
 個人的な感想をここに一旦書き付けておけば、短篇の方はとても腑に落ちる作品なのだか、長篇の方は、どうも面白さがうまく伝わってこない。ありていに言うとつまらない。
 村上春樹の中期の長篇の3作品(『ねじまき鳥クロニクル』(1994年ー95年)、『海辺のカフカ』(2002年)、『1Q84』(2009年ー10年))については方法論や主題的な展開について理解できぬこともないが、何度も言うように個人的には面白くない*

*中篇3作品(『国境の南、太陽の西』(1992年)、『スプートニクの恋人』(1999年)、『アフターダーク』(2004年))についてはそこそこ楽しめる。

 これはこれで論じるに値する問題だと考えられるが、今回、この小文を起こそうと思ったのは他でもない。あれっ、こんなだっけ、という肩透かしに近い感想を持ったことによる。
 これは一体どういうことだ?😢
 
 要するに「ねじまき鳥と火曜日の女たち」というタイトルが象徴しているものは、「世界」への拒絶であり、「世界」との遮断である。「世界」は訳の分からない謎の鳥*や、不可解な問いかけや、応答不可能な言いがかりを付けてくる女たち**に囲まれていて、主人公は途方に暮れるしかない。

*近くの木に止まって「ギイイイッ」とネジを巻くように鳴く鳥を主人公夫妻は「ねじまき鳥」と名付けた(『象の消滅―― 短篇選集1980-1991』2005年3月30日・新潮社・p.35)。
**見知らぬ女から突然、性的な電話が数回かかってくる。偶然知り合った近所に住む16歳の娘から死について一方的語られる。妻から行方不明の猫はあなたのせいだと難詰される。言うまでもなく「火曜日の女たち」というのは1969年から1972年まで日本テレビ系列で放送されていたサスペンスドラマのシリーズの枠「火曜日の女」がもとになっていると考えられる。

 さて、問題は発表当時、主人公が抱えていた「拒絶」や「遮断」こそが少なくともわたしには心地よかったし、恐らくはそこに一つの時代精神の表れ*があったがゆえに村上の人気にもつながっていたのだろう。

*例えば、そこに一つの「倫理的態度」の表れを見た、三浦雅士の「村上春樹とこの時代の倫理」(1981年/『主体の変容』1982年・中央公論社)に詳しい。

 ところが今回、再読してみて、この「拒絶」や「遮断」が過剰に感じられらたのだ。
 この作品に先行するのが『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年・新潮社)だが、「世界の終り」の主人公「わたし」が「影」の強い慫慂を「拒絶」して、自身が作り出した「街」に残ることを決断するラストは多くの論者の間で議論を呼んだが、わたし個人の意見を言えば、そこには倫理的な責任を取ろうとする判断があったと思う。この作品を地の世界で支えているのは、この倫理的責任感以外の何物でもないと思う。これを仮に「自閉」と言えば、自主的な判断による自閉と、外圧によって已む無く自閉に追い込まれるパターンがあるうる。

 そう考えてくると、自主的ではない自閉の遣り切れなさ、我々はそこにだけいるわけにはいかないということを示しているように思える。

 しかし、それを安易に「世界」と「和解」するのではなく、「自閉」すなわち「内在」を掘り下げることによる「超越」への方向へと歩み出たい、と考えている。

 🐧
2019/09/16 17:11



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