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2018年10月12日金曜日

沢木耕太郎という虚無
――沢木耕太郎『一瞬の夏』・『深夜特急』を読む
 
 
 
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 この達成感のなさは一体何なのだ? 或いは不完全燃焼性と言ってもよい。これは意外とも言える読後感だが、むしろ初期の沢木耕太郎を一言で言うならこういうことになるかも知れない。
 沢木耕太郎の久し振りの新刊『波の音が消えるまで』の刊行に合わせて 未読だった出世作とも代表作とも言える初期のこの二作品にやっと目を通した。まさに重い腰を上げて、というのに近い。本そのものは持っていたのだから、何となく読む気が起きなかったのだ。余りにも有名過ぎるという点もあった。後者については私自身が旅に全く興味がないという点もあった。結局はタイミングの問題だろう。



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 さて、正直、悪い予感が的中したようだ。いずれにしてもルポルタージュ、あるいはそれの亜種だとすれば結末なりストーリーそのものは変えようがないが、いずれも冒頭の感想を私は持った。
 これ以降の『壇』なり『凍』なり『オリンピア』といった作品が一つの完成した姿で我々読者の前に現れているのとは対照的なまでに不完全な印象を残す。
 それは一つにはこれらの初期の作品が、書き手自身の姿をそのまま描くある種の「私ルポルタージュ」になっていることから来るのかもしれない。
 たとえば『一瞬の夏』では筆者自身の「一瞬の夏」は描けているかもしれないが、取材対象者であるカシアス内藤の「一瞬(ではなかったかも知れない)夏」は描けていないのではないか。あきらかな読後感は主人公は筆者自身だ、ということだ。それは結末に登場するのが筆者自身であることから明らかだ。
 問題はその不完全燃焼性が何らかの未来なり、何らかの主題なりを暗示するものになっているかということだ。
 私の考えでは、それはNoだ。両者とも終わるべきところで終えたというよりも、 こじつけのように終わらせた、と感じさせるものだ。
 むしろ、それにも関わらず、この二作品は圧倒的な読者によって迎えられた。
 ここにはとてつもなく大いなる誤読があるような気がする。
🐣
20141120
 

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