Ⅰ
価値の倫理学 Ⅰ
予備的考察(1)
★POINTS
①信念は外化されないとその信念は死ぬのか?
①信念は外化されないとその信念は死ぬのか?
②信念を外化すると自らの生命が絶たれると分かっていてもそれをすべきなのか?
③そのような場合においても内在化された信念は虚偽なのか?
1 加藤典洋『日本の無思想』
そこでも末尾にそれらしいことを書いておいたが、実は、この問題は、狭く言えば「内在と関係(超越)」の問題、広く取れば「価値論」の問題、わたし自身の文脈では「価値の倫理学」、要するに「メタ倫理学」ということになるが、それらと関わってくる。
その書評でも言及したが、加藤は戦後日本で少なからぬ政治家たちが失言を責められると、いとも簡単に前言撤回する現象を捉えて、彼らにおける「ホンネとタテマエ」の「ホンネ」とは「信念」とは言えない。簡単に前言撤回されてしまう「ホンネ」は「信念」の名に値しない。すなわち戦後日本において言葉、信念の価値はすでになく、日本という土壌において思想は死ぬ、とした。
さらに、加藤は政治哲学者ハンナ・アレントの所論を引いて、外部に出されない信念は信念と言えない、とした*。
*後半部分では、この主張はなぜかうやむやになる。この後半の方が加藤の本来の主張を反映している気がする。
さて、問題はここである。
前稿においては、ここから18世紀ヨーロッパの啓蒙思想家、とりわけルソーの思想、及び日本の古来から見られる「べしみ」という面に宿る「敗者の思想」から「無思想の思想」とでもいうべきものを示唆して終わった。
2 信念と弾圧の問題――遠藤周作の『沈黙』
そこで、書き落とした訳ではないのだが、どうしても触れておいた方がよいと思われることを備忘録的に書き付けておく。
それは信念と弾圧の問題である。これは「転向」の問題とも絡むはずなので、本来はかなり長尺の論考になるはずだが、一旦は簡単に。
ここでわたしが想起したのは、例えば、遠藤周作の『沈黙』(1966年・新潮社)である。
残念ながら、わたしは遠藤のよき読者とは言えない。巷間言われているように、文学作品として、良さを感じることができない。だが、そのテーマは分からないなりに、何か感じるところがある。
徹底的な弾圧が行われたとき、自らの内心の信念を訴えることが死を意味するとき、もしもそれを吐露できないなら、その信念は虚偽である。自らの生命を賭して、その信念の在処を吐露すべきである。
しかし、それは何のために?
信念というものが人を活かすとすると、信念を外部に発現することで、自らの命が絶たれる、これは矛盾ではないか?
だが、仮に神の立場に立ってみよう。もしもあなたが神だとする。多くの信者がその信仰を告白することで死に追いやられる。それは了解できうることなのか。
別の視点から言えば、自らの死を恐れるあまり、あるいは仲間の死、あるいは苦痛を避けるために信念を内部に秘匿し、言葉としては内心とは異なる発言をする。「神はいません」、「わたしは信者ではありません」と。
これは罪か。
あるいはこれで信念は死ぬのか?
3 会社人間にとっての信念と弾圧
いやそこまで重い話ではない。
一般の人々はそのほとんどは会社員として生きざるを得ない。自らのの信念、いや感覚ぐらいの軽さでもいいのだが、それとしては、本当はこうしたいと思う。しかし会社としてはまずいついつまでに売り上げをいくらいくら上げよという。それは自分としては感覚が合わない。それよりは商品の品質を上げたい、事業所の職員の技術を上げたいと言う。すると、それは「甘えだ」「逃げている」「順番が逆だ」とか言われて、袋叩きに合う。
それが繰り返されると退職するか、もし、その会社にいたければ、あるいはいなければならないのであれば、自らの考えは内心に封じ込めて会社の言いなりにならざるを得ない。
信念を開披するのであれば即時的ではないかもしれぬが、緩慢な社会的な死が待っている。
やはりこれは「信念」とは言えないようだ。
少なくとも日本の企業文化において、ほぼすべての会社はブラック企業だとわたしは思うが、その意味からすれば、日本のほぼすべての思想はブラック思想、つまり虚偽だ、ということになる。
しかし、本当にそうなのだろうか。
🐥
■2018年4月8日 22:51
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