「無思想」を「思想」として捉え直す
加藤典洋『日本の無思想』
■加藤典洋『日本の無思想』1999年5月20日・平凡社新書。
■長篇評論(現代思想・社会・戦後)。
■①1999年6月3日読了。②2018年3月12日読了。
■採点 ★★★★☆
POINTS
① 大変面白い。良質の推理小説のように、最後の「謎解き」まで飽きさせない。
② 敗戦の衝撃から日本人は言葉への信頼を喪い、戦後日本は「無思想」状況となった。
③ しかし、その根源には古来より日本人が持ち得ていた「無思想の思想」とでもいう べき態度があったのではないか。
① 大変面白い。良質の推理小説のように、最後の「謎解き」まで飽きさせない。
② 敗戦の衝撃から日本人は言葉への信頼を喪い、戦後日本は「無思想」状況となった。
③ しかし、その根源には古来より日本人が持ち得ていた「無思想の思想」とでもいう べき態度があったのではないか。
はじめに
大変面白い。あたかも良質の推理小説を読むかのごとく、最後の「謎解き」まで、飽 きさせず読者を連れていく。
20年ほど前、刊行時にも目を通して面白かった記憶が残っていたが、今回再び手に取 って、新たな発見がいくつもあり、驚嘆した。
しかしながら残念ながら、いささか議論に混乱があるように思う。
1 「ホンネとタテマエ」
戦後の日本でしばしば目にされる失言・前言撤回問題が、何ゆえに発生するのかとい う問いかけから始まる。 つまり、失言はともかく、何故いとも簡単に前言が撤回され、なおかつそれが必ずし も批判の対象となっていないのか、このことに疑義を呈す。
その背景に存在するのが古来より日本の独自の文化、思考様式とされる「ホンネとタ テマエ」ということになるわけだが、これもよくよく考えてみると奇妙だ。 つまり、ホンネが仮に「信念」だとすると、その「信念」がいとも簡単に撤回されて いるのだ。これをして「信念」と呼ぶのはいささか問題があるだろう。
この「ホンネとタテマエ」とは一体何なのか。
実は現在使われている用法は戦後に発生している*。ということは戦後の日本人は「 信念」を持ちうる機能が根刮ねこそぎ破壊されることがあったのではないか。
*加藤の言うように「ホンネとタテマエ」という言葉が現在の用法されるのは確かに 戦後になってからなのかも知れぬが、そのような二重構造でものごとを捉える発想は 日本では古来からあるのではないか。
2 全面屈服の経験
すなわち、アジア太平洋戦争における無条件降伏という未曾有の全面屈服という経験 である。 そこにおいて日本人は言葉への信頼を喪い、思想は死滅するに至った、ということに なる。
したがって、ここまでの文脈においては日本という土壌において言葉・信念・信仰・ 思想は何ら内心の裏打ちを持たず、表層を漂うだけの「死語」のアト・ランダムな羅 列に過ぎなくなる。
つまり、総じて言えば、日本では思想は死ぬ。したがって「日本 の無思想」ということになる。
3 三つのアプローチ
では、どうすればよいのか。
三つのアプローチが考えられる。
一つは敗戦時の断絶、及び戦後の思想的営為の再点検。
二つには世界的な意味における「近代」の捉え直し。
そして三つには日本人が根源で持つ「無思想」の意味の再評価ということになる。
一つ目については加藤自身が『敗戦後論』ならびに『戦後的思考』などの一連の著作 で論究している。
4 近代の抱える問題――ハンナ・アレント
二つ目については、本書、「第三部 近代の嘘――公的世界と私的なもの」において、 とりわけハンナ・アレントの論述にしたがって詳細な見取り図を提供している。
言葉、思想というものは外に、他者に伝達されてこそ意味がある。
言葉が死ぬという ことは「公的領域」の消滅を意味し、そしてそれは生きることの意味の消滅をもたら す。したがって、このような心理状態は「単一なもの」に対する対抗原理の消滅を意 味し、最終的には「全体主義」を招来するとアレントは言う(本書・p.129)。
したがって公的な場における言葉の力の復権が企図せねばならない。 しかし、そう説明した上で、加藤はアレントを批判するのであるが、それはアレント が啓蒙思想家たちのぶつかった課題とその挫折を見ていないからだというのだ。
5 私利私欲の問題――啓蒙思想家たち
すなわち、啓蒙思想家たち(マキャベリ・ホッブズ・ロック・ディドロ・ルソー)のぶ つかった課題とは「どうすれば私利私欲の上に公共性を築き上げられるか」(本書・ p.172)ということに他ならない。
ルソーは『社会契約論』の初期型である「ジュネーヴ草稿」のなかで次のように述べ ている。 「悪そのもののなかから、それを直すべき薬を取りだす」べきなのだと(本書・ p.173)。
加藤によればルソーは「社会契約」並びに「一般意思」という「超弩級の社会思想」 を構想してこの課題に取り組んだが、結局のところ失敗したという(本書・p.173)。 つまりはルソーほどの力業を持ってしても「公的なもの」が自分を「私利私欲」の上 に基礎づけられなかった。このあと、社会的なものが公的領域に登場してくることに なり、私利私欲が野放し状態のまま放置されることになる。では、何が、この私利私 欲をコントロールできるのか(本書・p.174)。
6 「しかめっ面」と「べしみ」
したがって、ここで三つ目の論点となる。
加藤典洋という批評家の立ち位置をいささか特異なもののにしている理由の一つに、 鶴見俊輔や多田道太郎といった、いわゆる「現代思想」という意味ではいささかマイ ナー*、というよりも、言葉はよくないが「仲間外れ」というのか、ほぼ「忘れられ た」存在であるこの二者の影響のもとに仕事をしていることが挙げられる**。
*適当な言葉が浮かばないが、要は外来の思想に安易に依拠せず自前の思想と方法論 を持っている、というところか。
**この意味については、また別稿で考察したい。
鶴見俊輔の特異な作品に『太夫才蔵伝』というものがある。これは古代から現代に至 るまでの芸能、漫才のなかに、いわゆる「ボケとツッコミ」という一対の構造の流れ を読むものだが、 古来から伝わる宴会芸のなかに次のようなものがあるという。 主賓を迎える地方神が様々なボケを通して主賓の言いつけに抗おうとする。しかしな がら、結局彼は「黙ってしまい、この劇は地方神のしかめっ面で終」わる、つまり、 最後的にはこの地方神は降伏してしまう、というのだ(本書・p.262・傍線評者)。
この「しかめっ面」とは一体何を意味しているのだろうか。 ここにあるのは「中央から地方にやってきた官僚と地方(じかた)の人の関係」であ り、中央の官僚に「口答えすることができ」ない「渋い感情といくぶんかの不満」を 表しているという(本書・p.p.263-264)。
時代が下って、この「しかめっ面」から「癋見 べしみ」*という能面が生まれてい る。
多田道太郎はこの「べしみ」という面について「むかしの征服され、圧服された神々 は、一切新しい神の力にとりあわぬことにした、それがべしみの起源である」と述べ ている(多田道太郎『遊びと日本人』)。いわば、ここに存在するのは「いわば無力な 抵抗の側面」であり、まともに答えたら言い負かされるしかない、「圧倒的な優劣関 係」のなかで「黙る」ことによってしか自らの思考を表現することできない「敗者」 の、それも「全面的な敗者」の姿なのではないか(本書・p.267)
結語 「無思想という思想」のあり方
以上のような次第でわれわれは振り出しに戻る。
詳細な分析が必要だとは思うが、恐らくは言葉が言葉の根拠を喪い思想が死滅する、 という事態は必ずしも日本の戦後だけに見られる問題ではなく、日本の文化構造のな かではかなりメインの場所に位置するもので、さらにそれは世界的に見ても、敗者の 位置を強いられる民族、地域では広く見られる事態だと考えられる*。
*加藤自身がそのことについて触れている(加藤『敗者の想像力』p.p.4-5)。
日本の文化構造や戦後日本の固有の問題は一つのケイス・スタディにはなるとは思う が、より広い視角が要求されることは言うまでもない。しかし、われわれはまずはこ こから始めるしかない。
加藤が自らの論著に「日本の無思想」と名付けたのはまさに言い得て妙という他はない。
加藤は、当初、言葉が死ぬことによって思想もまた死ぬことを批判しようとして、この表題をつけたのだと思われるが、最後的にわれわれが見出だすのは、言葉が死ぬ、 あるいは言葉が殺されることよって産み出される「思想」(らしきもの)もあるという ことだ*。
*その意味では、本書「第一部」、「第二部」がそれぞれ「戦後の嘘」、「近代日本 の嘘」と名付けられたのは、まだ分かるにしても、「第三部」、「第四部」がそれぞ れ「近代の嘘」、「日本の嘘」とされているのはうなずけない。どうしても「嘘」を 使いたいのであれば、それはなにものかに「強いられた嘘」、「強迫された嘘」であ って、そのように考えてくれば、それは「第一部 戦後の嘘」についても、「第二部 近代日本の嘘」についても同じことである。
それを「無思想」というのであれば、確かにそうかもしれない。 いうなれば、それは「敗者の思想」、あるいは「敗者の無思想」、あるいは「敗者の 無思想という思想」ということになる。卑近な言葉で言えば「負け犬の遠吠え」*ということになるか。
*言うまでもなく酒井順子のベストセラー『負け犬の遠吠え』(2003年・講談社)。「 どんなに美人で仕事ができても、「30代以上・未婚・子ナシ」」の女性は「負け犬」 だ、というものらしい。わたしが言っているのは意味が全く違うが、現今の体制は、 老若男女問わず、大量の「負け犬」を発生させていると考えている。
われわれ「負け犬」は、満月の夜に、まずは一人(あるいは一匹)、「遠吠え」をする ところから始めよう、自らの敗北と孤独を噛み締めながら……。
【附 記】
2015年に本書の「増補改訂版」が刊行されているが(平凡社ライブラリー)、現段階で は未見である。早急に目を通して、修正すべき点があれば、即修正したい。
本書は前後の論著に以下の書目を持つと考えられる。比較検討すべきではあるが、他日を期したい。
①丸山眞男『日本の思想』1961年・岩波新書。
②養老孟司『無思想の発見』2005年・ちくま新書。
③佐々木敦『ニッポンの思想』2009年・講談社現代新書。
論旨を通すために何点か、意図的に書き落としたところがある。 ポール・ヴァレリーのこと。公私のこと。福澤諭吉のこと。カントのこと。とりわけ ルソー、悪と善の問題については稿を改めて再度論じたい。
この後、本稿は村上春樹論「失語症が強いられるとき」に接続する。
【加藤典洋の敗戦、戦後に関わる論著】
① 『アメリカの影』(河出書房新社 1985年)、講談社学術文庫 1995年、講談社文 芸 文庫 2009年
② 『敗戦後論』(講談社 1997年)、ちくま文庫 2005年、ちくま学芸文庫 2015年
③ 『戦後を戦後以後、考える―ノン・モラルからの出発とは何か』 (岩波ブックレ ッ ト 1998年)
④ 『可能性としての戦後以後』(岩波書店 1999年)
⑤ 『日本の無思想』(平凡社新書 1999年)、平凡社ライブラリー(増補改訂版 2015年)
⑥ 『戦後的思考』(講談社 1999年)
⑦ 『日本人の自画像』(岩波書店 2000年)
⑧『さようなら、ゴジラたち―戦後から遠く離れて』(岩波書店 2010年)
⑨『ふたつの講演 戦後思想の射程について』(岩波書店 2013年)
⑩ 『戦後入門』(ちくま新書 2015年)
⑪『敗者の想像力』 (集英社新書・2017年)
⑫(竹田青嗣との往復書簡)『世紀末のランニングパス 1991-92』(講談社 1992年 )のち『二つの戦後から』ちくま文庫 1998年)
⑬(橋爪大三郎・竹田青嗣との鼎談)『天皇の戦争責任』(径書房 2000年)
⑭『対談 ──戦後・文学・現在』 (而立書房・2017年)
【その他の参照文献】以下からの引用は全て本書からのものである。
①ハンナ・アレント『人間の条件』1958年/志水速雄訳 『人間の条件』 1973年・中央公論社/1994年・ちくま学芸文庫(英語版からの訳本)。森一郎訳 『活動的生』 2015年・みすず書房(ドイツ語版からの訳本)。
②ハンナ・アレント『革命について』1963年/志水速雄訳・1995年・ちくま学芸文 庫。
③ジャン・ジャック・ルソー『社会契約論/ジュネーヴ草稿』1762年/中山元訳・ 2008年・光文社古典新訳文庫。
④鶴見俊輔『太夫才蔵伝――漫才をつらぬくもの』1979年・平凡社。
⑤多田道太郎『遊びと日本人』1974年・筑摩書房。
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■2018年3月12日ー2018年4月1日
■5011字(400字原稿用紙換算約13枚)
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