敗北と向き合うこと
加藤典洋『敗者の想像力』
改訂版
《この書評を簡単にまとめると……》
①「Japanese smile」という失語状態は敗戦の衝撃から生まれたのではないか?
② 本書は「敗者の想像力」という言葉が上滑りをして生産的な主張になり得ていない。
③「失語空間」が強いられる今こそ「敗北」、「敗者」の状況を考え直すべきだ。
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■加藤典洋『敗者の想像力』2017年5月22日・集英社新書。
■長篇評論(思想・文学・社会・戦後論)。
■2018年3月14日読了。
■採点 ★☆☆☆☆。
1 Japanese smile
「Japanese smile」*という言葉がある。日本人は困惑したときに微笑するという現象を指していると言われる。無論、外国人はこれを気味悪がっているわけだが、日本人自身は気づ いておらず、第三者である外国人から指摘されて、何やら割りきれぬ思いを抱くという訳だ。
*そもそもこの初出が分からない。wikipediaには項目すら立ってない。微かな記憶によれば高校生のとき、エドウィン・O・ライシャワーの『The Japanese』の抜粋をリーダーで読んだが、そこにこの記述があったような気がするが 確証は全くない。あとで思い返せば、ジョン・ケネス・ガルブレイスの『不確実性の時代』も、超ウルトラ抜粋ではあるが、学校指定の参考書で読んだ記憶がある。なか なか意識の高い教育をしていたようだが、いかんせん、生徒の意識が低過ぎた。
果たして、この「Japanese smile」なる現象が古来より、日本人に固有の現象なのかどうかは不明ではあるが、 個人的な推測で、一旦ここは書いてしまうが、この現象は1945年の敗戦を期に日本人が手に入れた、ある種の技、心理的な防禦の機制なのではなかろうか。
2 ホンネとタテマエ
というのは、これはまた別稿を立てて論ずることになろうが、加藤典洋が「ホンネとタテマエ」という、いかにも古来から存在すると考えられている、日本人らしい思考 様式を子細に検討してみると、現在使用されている用法は戦後になって登場すると指摘している(『日本の無思想』)。
すなわち、無条件降伏という絶対的な敗北という衝撃的な経験がこの「ホンネとタテマエ」という、ある意味では奇妙な二重の思考の併存様式を産み出したというのだ が、先に挙げた「Japanese smile」についても同様のことが言えないだろうか。
日本人が困惑したときに笑うという、この分裂した反応はいかにも奇妙だ。困惑したら、困惑の表情を浮かべ、おかしなこと、楽しいことがあれば笑う、これが人としての自然な振る舞いである。なぜそうならないのか。明らかにこれは異常な事態なのである。
恐らく、尋常ならざる外的な圧力が加わると人々は言葉を喪う。そして、それ以上、 加えられるだろう攻撃から自らを防禦するために、人々は微笑するのではないか。これはより詳細に論究するに値するテーマだと考えられる。
3 曖昧に笑う、伏し目で話す
さて、加藤典洋はそのデビュー作『アメリカの影』からこの戦後日本に、まさに「影」を落とす「敗戦」の意味を継続的に考えてきた。 それは恐らく日本固有の問題に根差すものもなくはないだろうが、むしろそれは絶対 的な敗北の経験が何を産み出して、何を産み出さないのかという、より広範な射程を 持った問題ではなかろうか。
「欧米人は、人の目をしっかりと見て話す」、つまりは「自分の意見ははっきりと言う」ことが大切だ、ということだろうが、加藤はこれについて「なんだかばかばかしいな」と思ったという(本書・p.3)。
ところが、ハンガリー、チェコ、ポルトガル、あるいはタイやラオスを訪れると、必ずしもそうではない。むしろそれらの国の人々は「曖昧に笑ったり、にやけたり、ちょっと伏し目にしたり、猫背気味に背をかがめて歩いたりする」という。「そういう国や社会の人びとは、だいたいは、他の強国に攻め入られた歴史を持っていたり、他の先進国の植民地にされた歴史を背後に抱えていたりする。」(本書・p.p.4-5)
4 敗者の想像力
加藤が本書で展開しようとしているのがこれら「敗北者」だけが持ちうる「敗者の想像力」とでも言うべきものである。
無論、今までも加藤は同様の主題については論究してきた。例えば『敗戦後論』しかり、『戦後的思考』しかり、『日本の無思想』しかり。そして、これらの過去の論究のもとに、この『敗者の想像力』は展開されるべきだった。
ところが残念ながら、本書は、この「敗者の想像力」という言葉、概念が筆者を縛ってしまったのか、どうもうまい具合に論述が進んでいない。上滑りの印象を受ける。 具体的な事例や引用こそ多く並べられるが、そこから何かが出てくるというわけではない。これも「敗者の想像力」、あれも「敗者の想像力」、そして、それも……という 具合である。
そもそも敗者の「想像力」とは一体何を意味するのだろうか。加藤が挙げている引照例からすると「想像力」というのは何らかの作品を創造する力のことなのか*。
*占領下の日本文学について触れられた「第二章 占領下の文学」は大変興味深い内容だった。とりわけ安岡章太郎「ガラスの靴」 (1951年)などの第三の新人に関しては蒙を啓かれた。ちなみに加藤はこれの文庫版に 解説を書いている(安岡章太郎『ガラスの靴・悪い仲間』1989年・講談社文芸文庫)。 さらに余談になるが村上春樹も『若い読者のための短編小説案内』のなかで安岡の「 ガラスの靴」を取り上げている。
論中、本来の連載とは別に書かれた「シン・ゴジラ論」と大江健三郎『水死』論もいささか突出していて、にわか仕込みの接ぎ木の感が否めない*。
*ただし、単発の評論としては優れている。とりわけ後者についてはこれを含めた形 で別に大江健三郎論を出すべきだとさえ思う。
そもそもこのテーマでジョン・W・ダワーの『敗北を抱きしめて』に一言も言及されてないことにも奇異の感を抱く。
しかしながら、加藤が論究しようとした本来のテーマの重要性はそのことで否定されるべきものではない。
5 「失語空間」
確かに自らの意思は外部に明確に伝えるべきである。
しかし現今 の社会情勢を勘案すると、無論、敗戦といった国家的、国民的敗北ではないにせよ、 それぞれにおかれた状況で、個人の尊厳を踏みにじるように多くの「敗者」が生まれていることは事実である。
そこでは自らの意思や感情を伝えようにも一種の「失語症 」のような状況を強いられている。 そのようななかで、今こそ我々は、敗戦後の日本人が未曾有の「失語空間」からいか にして立ち上がり、いかにして自らの言葉を再獲得してきたかを学ぶときである。
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【加藤典洋の敗戦、戦後に関わる論著】
① 『アメリカの影』(河出書房新社 1985年)、講談社学術文庫 1995年、講談社文 芸 文庫 2009年
② 『敗戦後論』(講談社 1997年)、ちくま文庫 2005年、ちくま学芸文庫 2015年
③ 『戦後を戦後以後、考える―ノン・モラルからの出発とは何か』 (岩波ブックレ ッ ト 1998年)
④ 『可能性としての戦後以後』(岩波書店 1999年)
⑤ 『日本の無思想』(平凡社新書 1999年)、平凡社ライブラリー(増補改訂版 2015年)
⑥ 『戦後的思考』(講談社 1999年)
⑦ 『日本人の自画像』(岩波書店 2000年)
⑧『さようなら、ゴジラたち―戦後から遠く離れて』(岩波書店 2010年)
⑨『ふたつの講演 戦後思想の射程について』(岩波書店 2013年)
⑩ 『戦後入門』(ちくま新書 2015年)
⑪『敗者の想像力』 (集英社新書・2017年)
⑫(竹田青嗣との往復書簡)『世紀末のランニングパス 1991-92』(講談社 1992年 )のち『二つの戦後から』ちくま文庫 1998年)
⑬(橋爪大三郎・竹田青嗣との鼎談)『天皇の戦争責任』(径書房 2000年)
⑭『対談 ──戦後・文学・現在』 (而立書房・2017年)
【他の参照文献】
① エドウィン・O・ライシャワー『ザ・ジャパニーズ――日本人』1977年/國弘正雄 訳・1979年・文藝春秋。
② ジョン・ケネス・ガルブレイス『不確実性の時代』1977年/都留重人監訳・ 1978年・TBSブリタニカ。
③ ジョン・W・ダワー『敗北を抱きしめて――第二次大戦後の日本人』1999年/増補版・上下・三浦 陽一訳・2004年・岩波書店。
④村上春樹『若い読者のための短編小説案内』1997年・文藝春秋。
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■2018年3月29日
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