人間の労働* そのⅦ
*「苦の倫理学」の通しタイトルを今回から「人間の労働」と改題します。
「人間の類的本質は労働である」 ――カール・マルクス『経済学・哲学草稿』 (1844年/的場昭弘『超訳『資本論』』2008年・祥伝社新書・p.55より援引)
山城むつみの労働価値説再考あるいは
マルクスの重いハシゴ
迂回路を辿って――「これが民意なのか?」から「人間の労働」へ
【改訂版】
1 「これが民意なのか?」の中断
先般の衆議院議員総選挙の結果について怒りを覚え、「これが民意なのか?」を書き始めた。その4までは比較的順調に進んだが、その5の柄谷行人の「イソノミア」及び「NAM」論の下りに来て、突如として失速してしまった。前者について言うと具体的な記述が少な過ぎるという点と、後者について言うと、失敗の経緯が余りにも具体的過ぎて、部外者たる者にはなまなかなことでは論じがたい、ということが分かった。
その4を更新したのが11月24日のことなので一ヶ月ほど何も進んでいないことになる。 この間遊んでいたわけではなく、関係文書に目を通したり、様々考えたりもした。
「これが民意なのか?」についてはなにがしかの結論めいたものを書きおくべきだと思うが、直接、本丸に攻め入るには難所が続くようなので、一旦ここは、ぶらぶらと迂回路を辿って別の攻撃路を探すことにする。
2 山城むつみの発見
さて、柄谷のNAM関係の書籍*の再読をしていたときに思いもかけない発見があった。本稿はその中間報告にあたる。
*NAM三部作。
①柄谷行人編著『可能なるコミュニズム』2000年。
②柄谷行人『NAM原理』2000年。
③NAM学生編『NAM生成』2001年。いずれも太田出版。
山城は『可能なるコミュニズム』では2つのシンポジウムに参加し、1本の論文を書いている*。『NAM生成』においても1つのシンポジウムに参加している**。
*島田雅彦・山城むつみ・柄谷行人「【共同討議】世界資本主義からコミュニズムへ」、市田良彦・西部忠・山城むつみ・柄谷行人「【共同討議】貨幣主体と国家主権者を超えて」、山城むつみ「生産共同組合と価値形態」。
**浅田彰・柄谷行人・坂本龍一・山城むつみ「『倫理21』と『可能なるコミュニズム』」。
正直に言うと山城の名前こそ知っていたが、その著書を今まで読んだことはなかった、また現段階でもその著書を入手すらしていない。実は読もうとも思ってなかった。
さらに正直に言うとわたしの経済学に関する知識が残念なことに中学生の域を出ていないため、山城の発言の妥当性を自力では検証できない。
しかしながら、今回山城の発言に接して、彼の言っていることに大変得心がいったのである。
3 価値形態論への異和あるいは存在倫理
ここで問題にしたいのが「価値」、あるいは「価値形態」ということである。柄谷の著書を読むとマルクスに言及する形で、しばしば「価値形態論」の重要性が論じられている。この段階で、巨大なクエッション・マークがわたしの頭上に覆い被さるのだが、これは一旦よしとして、問題は「価値」そのものの問題である。 わたしはかつて別の箇所で以下のように述べた。
例えば柄谷行人は価値と内在の問題について、次のように述べている。
商品の価値は、前もって内在するのではなく、交換された結果として与えられる。前もって内在する価値が交換によって実現されるのではまったくない。(柄谷行人『探究』Ⅰ・1986年・講談社・p.6)
わたしはこのくだりを読んだとき、とても強い異和感を覚えた。本当にそうだろうか、なにものかは交換されねば、つまり関係性を持たねば価値は発生しないのだろうか。むしろ、なにものかはなにものかとして内在する価値を持っているのだ。それは単なる価値というよりも存在自体がもっているある種の倫理性を発色させるものなのだ。 これが〈存在倫理〉ではないのか。(「悪の倫理学・覚え書き その5――〈存在倫理〉について」/webサイト『鳥――批評と創造の試み』2017年2月22日更新)
「存在倫理」とは吉本隆明と加藤典洋との対談での吉本の言葉による。
人間が存在すること自体が倫理を喚起するものなんだよ、という意味合いの倫理、「存在倫理」という言葉を使うとすれば、そういうのがまた全然別にあると考えます。 (吉本隆明・加藤典洋「存在倫理について」/『群像』2002年1月号・p.208)*
*ちなみに、この「存在倫理」という注目に値する概念はこの対談で突如として言明されるも、わたしの知る限りでは、何らかの論著で正面から論じられることはついになかった。しかしながらこの概念の核となるものは若年のころから吉本の心底にはあったようだ。例えば次のような記述は吉本若冠26歳のときのメモである。
倫理とは言わば存在することのなかにある核の如きものである。
(吉本隆明『吉本隆明全著作集 15』所収「形而上学ニツイテノ NOTE」1950年 p101)webサイト「クマの倫理論」 http://blog.livedoor.jp/greenminkuma-kumatamontan/archives/7678054.html から援引。
4 価値形態論への議議
したがって、この柄谷の価値に関する考え方は長らくわたしにとっての大きな躓つまずきの石となっていた。
さて、今回、偶々たまたま 手に取った、柄谷行人編による『可能なるコミュニズム』に収録されている「【共同討議】貨幣主体と国家主権者を超えて」及び山城論文「生産協同組合と価値形態」において、学問的にはその是非はわたしには判断できないが、少なくともわたしにとっては瞠目する発言を山城むつみが行っているのだ。 一般には柄谷行人が主宰していた『批評空間』に、その初期の活動場所を持ち、最初の著書『文学のプログラム』(1995年・太田出版)も「批評空間叢書」のブランドで出版しているため、いわゆる柄谷派、下世話な言い方をすれば「柄谷の子分」のような見られ方を山城はされている*。
しかし、これらの討論での発言、論文において柄谷批判とも取れる発言を山城は行っているのだ*。
*そもそも、NAMへの参加そのものも、必ずしも柄谷への個人的な私淑というよりも、もともと生産協同組合への興味があったから参加しているのだと述べている(『NAM生成』p.57)。
「【共同討議】貨幣主体と国家主権者を超えて」は地域通貨LETSの日本における唱導者である西部忠まこと が比較的具体的な議論を進めるのに対して、ルイ・アルチュセールに依拠する社会思想家市田良彦が抽象度の高い議論を展開するのを、NAMの運動を始めたばかりの柄谷が市田を攻撃する形で進む。 山城は一歩引いた立場で議論の様子を眺めていたが、満を持してという感じで、そこに一石を投じる*。一言で言うならもっと素朴にテキストを読め、ということに尽きる。すなわち本来人間が労働することによって価値が生まれる。これがいわゆる労働価値説である。ところがそれが近代的な交換社会になると交換価値が生まれる。柄谷たちが言っているのは価値(つまり交換価値)は交換されることによって初めて価値が生じるのである、ものそのものには価値はないのだ、ものそのものに価値があると考えるのは交換価値がものそのものに投影されているだけなので、それは「遠近法的倒錯」つまり幻像なのである、と。
*と言ってもその波紋はいっこうに広がらない。
しかし、本当にそうなのか、そう切り捨ててしまっていいのだろうか、と山城は控え目に反論するのだ。 例えば価値形態論で扱われる「価値」は「交換価値」のことだが、通常なんの断りなしに「交換価値」を「価値」と表す。 しかしながら、「価値形成の実体は労働である」にも関わらず「交換価値というのは価値の実体が特殊歴史的に現れたものである」。つまり「この不変である価値実体がなぜある段階で交換価値という形態をとって現れるのか」ということを問うべきなのに、むしろ逆に交換価値、あるいは交換価値を生む「資本主義という商品交換が現実化している社会を前提(中略)が普遍であり不変であるかのように議論することに疑問を感じる」のだと山城は述べている(『可能なるコミュニズム』pp.199-200)。 それに対して柄谷の反論(反論になってない*のでコメントか?)は価値形態論の重要性を述べるに止まっている。
*なぜ反論になってないかというと、柄谷は自説を批判されていることに気づいていないからだ。
それに追い討ちを掛けるかのように、柄谷の主張を一旦受け入れた上で、次のように述べる。
しかしそれ(柄谷の主張・評者註)を承知で『資本論』をいくら読み返してもマルクスの書き方はそうスパッと切れるようには書いていない。(中略)それは価値形態論をあれほど明晰に分析し得たマルクスも価値実体論を完全に捨て切れなかったというような問題ではないと思います。マルクスはそれを最初から捨てようとなどしていなかったどころか、スミスやリカードよりも徹底してそれを握っていたのではないか。労働価値説と一括りに言うけれど、マルクスにとっては価値の実体が労働と自然であるという考えはスミスやリカードよりも深かったのではないか。それが深かったからこそ価値形態のことを考えた、と。(『可能なるコミュニズム』p.202)
すなわち、価値の実体は労働と自然という形で確かに存在する。それにも関わらず、ある一定の歴史的段階において交換価値という特殊な形をとる根拠を究明するためにマルクスは価値形態論を考えたのだ、というのである。 つまり何故にこの考察が必要だったのかというと「商品交換を前提とするブルジョワ的生産様式が別に永遠の自然形態ではなく歴史的に特別な種であるということがはっきりするから」(『可能なるコミュニズム』p.203)だ、と述べている。
5 価値とは何か
山城自身の考えとからは逸脱するかとも思うが、恐らく次のような言い方が可能ではないかと思う。あくまでも私論である。
すなわち、価値には従来「使用価値」と「交換価値」があるとされてきた。交換価値は無論、交換されることによって初めて価値を獲得する。しかしそれとは別にそのもの自体が所有する、使用することによって発現する価値が「使用価値」である。これらはあくまでも、ものそのものと何らかの関係をとることで価値が発生する。したがってこれらを「相対的価値」と呼ぼう。 それに対し、ものそのものが本来持っている、つまり内在させている価値これを「内在価値」と呼ぼう、あるいはものそのもの自体がそのままで発現する価値性があるだろう。この「ものそのもの自体の価値」を「存在の価値」あるいは「存在=価値」と呼ぶことにする。これらを「絶対的価値」と呼ぶことにしよう。
6 人間の労働
さて、問題はここからである。では何故にこのような煩瑣とも思える価値についての議論をする必要があるのか。言うまでもなく、これが人間存在への見方と連動しているからに他ならない。
マルクスは『経済学・哲学草稿』の中で「人間の類的本質は労働である」*と述べているが、ではなぜ、その「類的本質」たる労働**が人間を苦しめるのか? これこそが近代社会に至った、すなわち資本主義社会に生きる人類における最大の問題なのである。
*カール・マルクス『経済学・哲学草稿』1844年/的場昭弘『超訳『資本論』』2008年・祥伝社新書・p.55より援引。
**「労働」をどのように定義するかということについては、また別に論ずる必要がある。詳細は続稿にて。
別稿でも言及したが、日本で刊行されているビジネス書、生き方指南書の恐らくそのほとんどが忍耐、我慢を美徳とするものである。これはひとつの社会思想史のテーマとなりうると考えられる。これが日本だけの現象なのかどうかはわたしには不明であるが、この資本主義社会が、総じて、人間に働くことの喜びではなく、単なる苦しみだけを与えていることは事実だと考えられる。
これもまた別稿で論ずる予定だが、「全ての会社はブラック企業だ」とわたしは考えている。なんとなればこの資本主義社会で会社として生き残るためには多かれ少なかれブラック企業的な施策が必要とされるし、また、会社側がそれを表面的にはブラック企業性を払拭しているように見えても、会社側の要求を達成しようとすると必然的に社員の方が自主的にブラック化するシステムである。つまり、会社は悪くない、「多くの社員が達成している」目標を勤務時間内に達成できない社員の方にその責任があるのだ、というわけで会社側も社員の側もただ単 ひとえに生き残るために、ただそれだけのために、鎬しのぎ を削って手段を選ばず戦っているのだ。
以上のような次第で、今現在、少なくとも先進国で生き残ることができている企業体の全ては、というのが言い過ぎであれば、その大半は「ブラック企業」なのである。 問題は資本家でもなければ、経営者でもなければ、労働者自身にあるわけでもない。 問題は資本主義というシステム以外の何物でもない。
7 賃金労働という奴隷制度
賃金労働制度が一つの奴隷制度であり、しかも労働者がより良き支払を受けるかどうか、より悪しき支払を受けると否とにかかわらず、労働の社会的生産力が発展すると同じ程度に、一層激しくなる奴隷制度である。(マルクス『ゴータ綱領批判』1875年/『可能なるコミュニズム』p.230より援引)
何故に「より良き支払を受け」ても奴隷なのか。実際、現在の先進国の労働者でその日の生活費に苦しむものはごく一部の例外であろう*。つまり、それなりに資本主義の恩恵は享受しているはずだ。しかし、にも関わらずなぜ我々は「奴隷」なのか。
*無論、発展途上国の問題、先進国のなかでの貧困者層の問題は別に大きく論ずる必要がある。
それは、この資本主義下の賃金労働制度のもとでは「労働者が自由に労働も生活もできないからにほかならない」(山城むつみ「生産協同組合と価値形態」/『可能なるコミュニズム』p.230)
なぜ労働者の自由が奪われるのか。それは労働者が「労働力」という「商品」として、それ自体が持つ「存在=価値」を捨象され、単なる「交換価値」として社会的に流通するからに他ならない。労働に関わる苦しみの所以はここに存在する。 労働が人間を苦しめる訳ではない。本来労働はその人間、個人個人の内在的な価値を物的な形で発現をし、その外化された物的な価値が人間を生かしめるものであり、そこには喜びがあったはずだ。たとえ、そこに苦しみがあろうとも、あくまでもその喜びに関わる形での苦しみであろう。「人間の労働」とはそのような観点で捉えられるべきだ。
8 われわれのなすべきこと
したがって、われわれのなすべきことは次の3点である。
① 「存在=価値」を「交換価値」に変換してしまう資本主義システム、就中なかんずく、価値形態のメカニズムについて究明すべきである。
② われわれ労働者は自らの「人間の労働」を奪い返す資本主義システムに対する対抗運動を直ちに開始すべきである。
③ そのためにわれわれは現行の資本主義システムとは別の政治=経済システムを構築すべきである。
例えば、それはいかなるものかと言えば、やはり『ゴータ綱領批判』の中でマルクスはコミュニズムの高次の段階として2つの規定を挙げている。
(1)「分業の下における個々人の奴隷的依存、それとともに精神労働と肉体労働との対立」の「消滅」
(2)「生産者は彼らの生産物を交換しない」
(マルクス『ゴータ綱領批判』/『可能なるコミュニズム』p.239より援引)
マルクスは「コミュニズム」という言い方をしているわけだが、この2規定をクリアできさえすれば、それが何主義であろうと、少なくともわたしにはどうでもいいことのように思える。無論、柄谷や山城たちは、このNAMが結成されて活動の産声を上げ始めた2000年の段階では、ここで言われる「コミュニズム」とは「アソシエーショニズム」つまり「生産者ー消費者協同組合のグローバルなアソシエーションによって、資本と国家を揚棄することである」(柄谷行人「序言」/『可能なるコミュニズム』p.9)と考えていたのだ。
だが、一旦、そこは問うまい。もう一度起点に立ち返って再検討すべきである*。
*例えば山城は歴史上存在した多くの生産協同組合の例を挙げた上で、以下のように述べる。「以上のように、単に生産協同組合をベースにした社会主義というだけであれば、様々に存在してきたが、それらがコミュニズムに向かって決定的な一歩を踏み出したことは未だかつてなかったのである」(山城むつみ「生産協同組合と価値形態」/『可能なるコミュニズム』p.279)。では、それは何故。何故生産協同組合はうまくいかなかったのであろうか。これをよくよく考えてみなければならぬ。
9 マルクスの重いハシゴ
われわれはマルクスが労働価値説を前提として価値形態論を論じ、価値形態論は構成された状況では労働価値説は不要だと考えがちである。例えば経済学者の岩井克人は『貨幣論』(1993年・筑摩書房)のなかでこれについて言及し、労働価値説は価値形態論に昇るためのハシゴであって、昇ってしまったあとでは「単なる無用の長物になってしまう」と述べている。山城は「マルクスが重いハシゴを抱えたまま考えたためにわずか数行のみ示唆するにとどまったことを、岩井はハシゴを捨てた身軽さによって存分に拡張している」と揶揄しているが、しかしながら、「マルクスが、労働と自然という政治経済学にとっては「物自体」のように重いハシゴを捨てずに価値の形態を考えたということにこそ彼の批判の展開点、すなわち政治経済学が反転するピポットがある」(山城むつみ「生産協同組合と価値形態」/『可能なるコミュニズム』p.256)とする。ピポットとは回転軸のことである。
恐らくほんの数ページの中にマルクスの思想の格闘のあとを克明に読み取るところに、他でもない文芸批評家である山城むつみの真骨頂がある。すなわち、われわれが肉体を持った思想像を受け取ることには、そもそもその思想家の生活やら人格やら人生やらの、その人の手の平からさらさらと零れ落ちる現実という思想の断片を丁寧に拾い集めることに他ならない。
われわれは決して先を急ぐまい。もう一度、「重いハシゴ」を抱えて右往左往するマルクスに会いに行こう。そしてもう一度、マルクスとともにその「重いハシゴ」について語り明かそう。夜が明けるまで。
【附 記】 今後の続稿の予定を挙げておく。あくまでも予定である。
・そのⅧ 労働とは何か――ハンナ・アーレントに導かれて
・そのⅨ 全ての企業はブラック企業である
・そのX 貧困を考える①――見田宗介「南の貧困/北の貧困」/『現代社会の理論』
・そのXI 貧困を考える②――湯浅誠『反貧困』
ノート
1) ゴータ綱領批判 p.230
2) 賃金労働制度=奴隷制度 p.230
3) 生産協同組合 p.231
4) 精神労働と肉体労働との対立の消滅と商品交換の廃棄 p.239
5) 交換の抽象化=交換の内部で使用が捨象されるから p.246
6) 具体的有用労働と抽象的人間労働 p.254
7) 重いはしご p.256
8) 価値の二重性 p.280
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■7931字(400字換算約20枚)
■ 2017年12月19日 22:11ー12月24日
■2017年12月25日改訂
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