訪問者
9000名突破!
▲新装された調布駅構内を飛び回るギャオスたち
皆様ありがとうございました。
これからもよろしくお願いします。
前回「8000名突破」は9月17日でした。大体半月ぐらいで、のべ1000名のご訪問を頂いていますが、コメント0、フォロワー0という体たらくで、単に通過されているだけなのかとも思います。
残念ではありますが、これが自らの実力と認識し一歩一歩確実に思考と表現を深めていきたいと考えています。なにせ、目指すは21世紀の『試行』なのですから。
さて、この間の動きを箇条書きで振り返ってみよう。
①仮称「美味と倫理のはざまで」書き始める。
焼き鳥の話から味覚と価値判断の問題について約30年ぶり思い出して書き始めた。題名は妥当ではないと考えている。あくまでも価値基準の根源として味覚を捉えるという発想である。
②仮称「機械の倫理学――人造人間キカイダー試論」思い付く。
これは夢のなかで突如として思い付いた。夢のなかなので、思い付いたというよりも、ほとんど「お告げ」ではないかとさえ思っている。今もって何を書けばいいのか分からない。
③「苦の倫理学」続稿書く。
これも題名の妥当性を欠く。倫理学の問題ではなく社会学の領野であろう。稲垣えみ子さんの論著に刺戟を受けて会社社会の問題点について考える。これはいささか方向性が定まらない。
④三浦雅士を通じて漱石を再発見する。
これはまだなにも書いていないが三浦の『漱石――母に愛されなかった子』及び『出生の秘密』を通じて漱石を、あるいは漱石が持ちうる問題点、あるいは漱石を論ずることの意味をやっと考え始めたところだ。
ポイントは以下の通り。
(1)「坊っちゃん」の系譜学……漱石以降の日本の近代小説の男性主人公のほとんどは「坊っちゃん」なのだ。日本の近代小説における、この「坊っちゃん性」とはなにを意味するのか。
(2)漱石論の系譜学……日本の近代批評において漱石論は避けて通れない巨大な石、あたかも入社試験のような存在である。これは一体何故なのか。そしてその唯一の例外とでもいう存在が、日本における近代批評の祖とでも言うべき小林秀雄である。小林と漱石の主題の近接性は言うまでもないところだが、この見えない小林、或いは不在の小林という空白点を論ずることこそ、このテーマの重大なポイントであると言わねばならない。つまりは「近代日本の批評」を漱石と小林を基軸にして読み替えるということだ。
以上のミッションをクリアするために漱石全集をはじめとして関係各文書の入念な再読が要請される。
2017年10月8日 14:25-2017年10月8日 15:26
🐦鳥の事務所
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