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2017年3月18日土曜日

小林秀雄の影    柄谷行人『柳田国男論』・『遊動論――柳田国男と山人』

小林秀雄の影 

柄谷行人『柳田国男論』・『遊動論――柳田国男と山人』 









■柄谷行人『柳田国男論』2013年10月28日・インスクリプト。 
■長篇評論(民俗学・現代思想)。 
■2014年8月31日読了。 
■採点★☆☆☆☆。 

■柄谷行人『遊動論――柳田国男と山人』2014年1月20日・文春新書。 
■長篇評論(民俗学・現代思想)。 
■2014年8月29日読了。 
■採点★☆☆☆☆。 

  

 恐らく柳田については前者で尽きている。 
 筆者は後者を書き上げた段階で長らく封印していた前者はそのままで刊行してもよいと考えたらしいが、むしろ後者は不要とも言える。せいぜい前者に一章を付すことによって論旨は一貫できるはずだ。  
 今筆者に要求されていることは後者の付章「二つの遊動」の拡充、「遊動」、および「山人」のより詳細な展開だろう。  
 そもそもなぜ今「遊動」なのか。問うべきはその一点ではないのか。  前者を卒読して思うことは、圧倒的な小林秀雄の影響、あるいはそれへの対抗意識である。一つは再三にわたる本居宣長への言及、そして柳田『山の人生』冒頭の鉞で二人の子供の首を切り落とす父親のエピソードへの言及である。  
 恐らく筆者は通来の文芸批評を避ける/脱するためにマルクスや柳田を論ずると述べているが、小林の批評活動こそが狭い意味での文学の枠を拡張していっていたことを考えれば、同じ道を辿っているとしか言いようがない。 


 ・ 柳田については前者で尽きている 
 ・ 別に「遊動論」が必要 
 ・ 遊動の意味が分からない 
 ・ 前者については圧倒的な小林秀雄の影 本居宣長 「山の人生」 

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