悪の倫理学・覚え書き その13
中間報告 灰汁(あく)について
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中間報告の名の下に雑文が続くことを了とされたい*。
*と言っても、本篇も「覚え書き」なのだから、雑文であることには間違いない。
ときどきカレーを作る。キーマカレーが好きなのだが、もちろん普通のカレーも作る。まだカレー粉を入れる前に肉や野菜などを煮込んでいると、細かな泡のようなものが浮いてくる。「あく」である。野菜などが本来持っている「苦味」や「えぐみ」などのことだという。したがって、最初のうちは頑張ってお玉で掬うわけだが、そのうち面倒になって、かき混ぜて誤魔化してしまう。だからと言って不味いのかという点についてはよく分からない、というしかない。
この「あく」であるが、本稿の主題である「悪」とは、単に音が同じというのに過ぎない。
とは言うものの、これは何らかの共通点があるのであろう。
たまたま、時代小説家の松井今朝子さんが「アクの効用」*との題でこの「あく」の問題について考察している。
*『朝日新聞』2017年3月11日・朝刊・「be」。
最近は野菜のアクが減っているようだ、という。本来このアクというのは、野菜や山草などが本来持つ「猛々しいまでの強さ」であって、それが人間には嫌われたのだろう。「つまりアクとは植物の過剰な生命力を意味するものだったように思えるのだ。」
しかしながら、現代は人間も野菜もアクの強さが減ってしまっているのは悲しむべきことだ、としている。
面白い、と思った。つまり、「悪とは過剰な生命力」*なのだ。この視点は第11項でも触れておいたが、確かに、この通りである。例えば、松井さんは悪源太義平を挙げていたが、悪とは、過剰な生命力を確かに持っている。本稿の主題のもとになっているのがプラトンの『国家』篇だが、そこに登場するトラシュマコスなるソフィストも荒々しくソクラテスを罵倒するが、過剰な生命力を持つ人物の一人として数えてもよいだろう。
*と、こう書くと、今は亡き丸山圭三郎『生命と過剰』(1987年・河出書房新 社)を思い出す。
話はいささか逸れるが、本稿において上手く話の流れが合えばという前提での話だが、山崎豊子の『白い巨塔』*を取り上げたいと考えている。主人公・財前五郎こそはこのテーマに相応しいだろう。どういうわけか、この作品は原作はもとより、TVドラマも田宮二郎主演のもの**と、唐沢寿明主演のもの***、両者とも熱心に視聴した覚えがある。
*正編・1965年・新潮社。続編・1969年・新潮社。
**1978年・フジテレビ。
***2003年・フジテレビ。
それにしても、なぜ悪は過剰な生命力を持ち得ているのか。逆に言うと、正義は痩せ細っているとでもいうのだろうか。これは論究に値するテーマだと思われる。
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