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2017年2月23日木曜日

悪の倫理学・覚え書き  その6 〈存在倫理〉について・その2   あるいはIS 及び 宗教改革について

悪の倫理学・覚え書き  
その6 

〈存在倫理〉について・その2  
 あるいはIS 及び 宗教改革について 

これも街灯


 若年の頃から悪人と呼ばれてきたわたしでも、通常の意味での犯罪なり悪行を唯単にそのままで肯定しようとは、勿論思わない。 
 例えば、新聞を開けば北朝鮮の要人の実兄金正男氏が暗殺されたという*。忌まわしい事件だ。心が痛む。 

*2017年2月13日、マレーシア、クアラルンプール空港にて犯行。  

そしてさらには、その国は平気で他国の領海へミサイルを放ってくる*。酷いものだ。 

*2017年2月12日、日本海に向けて発射。 

 国家的な規模での悪事である。しかしながら、これとてもわたしに言わせれば、その悪事を行ったという国家の感覚なり基準が現行の世界標準と単に「ずれている」だけなのだ。要するに彼らは戦争中なのだ。そう考えれば何もおかしなことではない。まー、きちんと宣戦布告すべきではあるが。その意味ではあまり真剣に戦争する気がないのかも知れぬが。 
 もしこれらの国家的行為が、例えば1920年代なり30年代に行われていたとすれば、どの国家も国際正義を振りかざして批判することなど不可能だろう。同じ穴の貉(むじな)だからだ。単に時期が悪かったのだ。残念。  

 このような時事的な論題を扱いだせばきりがないが、テロ組織IS(イスラミック・ステイト)、所謂「イスラム国」の問題がある。これまた大変痛ましい事件だ。 詳しいことはわたしにはわからないが、このような動きが従来の国民国家的な枠組みを越えようとしながら、結局のところは完全な専制主義組織に変形せざるをえなかったのかとも思う。 
 個別的な背景なり事情については不明ではあるが、巨視的な視点を取るとすると、ある意味、現行の国民国家的な在り様、柄谷行人の用語を使えば「資本=ネーション=ステート」*が限界に至り、間歇泉のようにこのような動きが起きているのでないか。 つまり「国家悪」**に対する対抗運動として。  

  *柄谷行人『世界共和国へ』2006年・岩波新書、『世界史の構造』2010年・岩波書店など。 
  **大熊信行『国家悪』1957年・中央公論社。 
  
 勿論、彼らの行っていることは国際法的にも宗教的にも、また人間としても間違いなく「悪」である。  
 しかしながら、なぜ彼らが何らかの信念を持って、「悪」と指弾される行動を取るのか、それは我々が持ちえている「正義」なり「善」としているものが、やはり単に便宜的に構成された、あるいは仮構された、まやかしの「正義」であり「善」だからではないのか?  

 前項(その5)で触れた地下鉄サリン事件やアメリカ同時多発テロにしても、本項で触れたIS についても宗教的倫理上の当然とされていることの、言ってみれば「底抜け」状態が問題になっていると考えられる。  
 本来宗教というものは「生命を尊重する」ものとされている。「争闘よりも融和を尊重する」ものとされている。 無論、そんなことはない。それはあくまでも宗教的信条を同じくする同志に対してのみ成立する。しかしながら、今回の一連(だと考えられる、これら)の事件は敵も味方も、さらには全く無関係な第三者をも巻き込む形で生命を否定しているのだ。これはなまなかなことではない。  
 これも前項で紹介した吉本との対談の中で、加藤は「内在」的な思考が、何故に「関係」性を基にした思考へと変わらざるをえないのかという点を、宗教改革を例示する形で言及している*。 

*吉本隆明・加藤典洋「存在倫理について」/『群像』2002年1月号。 

 宗教改革がヨーロッパ全土に与えた 影響は計り知れないものがある。問題は一宗教がただ単に分裂したというものに止まらず、ヨーロッパ全体が持ちえた、何を持って「真」とするかという信念体系が分裂したということだ。 そこから殺し合いが始まる。ヨーロッパの殆どを戦火に巻き込んで多くの人命を死に追いやった、いわゆる30年戦争である。そこで彼らは一旦内在する自分たちの「真」をカッコに入れて、共存することを考えて「関係」のなかから「善」を探そうとした、という。 
 すなわち、この歴史的な教訓から我々が学ぶべきことは一体何だろうか。 
 誤解を恐れずに言えば、徹底的に、つまり「底抜け」を起こすぐらいまで自らの信じる「内在」を徹底させることでないのか。  
 それ、すなわち「悪」と徹底的な対話をすることで可能になるのではないか。  
 それなくして我々は語の真の意味での「存在」の「倫理」へとは至れないのでないのか。  




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