悪の倫理学・覚え書き
その3
真理とは、ある種の生物がそれなしでは生きることのできぬ誤謬のことである。
――ニーチェ『力への意志』
若年の頃から、つい先日に至るまで、お前は駄目だ、人と違うことをする、他と同じようにせよ、とまあ、平たくいえば悪人呼ばわりされてきた。厳密に言えば犯罪者的な意味での悪人ではないが、周りに迷惑をかけるということは、すなわち周囲に害をなす、悪をなすということになり、要するにわたしは悪人の範疇に組み入れられる。
何らかの罪で監獄にでも入れられればよいが、微妙に立ち位置が難しい。要は「いて欲しい人」と「いて欲しくない人」、そして「どちらでもない人」ということで言えば、いて欲しくない、どっかに行ってもらいたい人、ということになる。
これはなぜそういう事態に陥るのかというとわたしの感覚なり、基準なりが明らかに他者とずれているのだ。
恐らく、わたしが想像するに、悪人は必ずしも自ら進んで悪をなそうとしているわけではない。むしろ、逆なのだ。自身はこれは良かれと思って、ものごとを行っているにもかかわらず、場合によっては善を、正義をなそうとしているのにも関わらず、基準がずれているが故に悪と判定されてしまうのである。
これも恐らく、という推定になるが行為の絶対値が大きければ大きいほど、善悪の触れ幅は大きくなるが、無論、行為そのものが持つ行為の大きさそのものは変わりがない。すなわち、強い信念をもって行動したものが社会的規範とずれている場合、それは大いなる悪となるわけだ。
さて、このように、わたしが本稿でなそうとしているのはひとえに悪の、あるいは悪人の哲学的な、あるいは倫理的な、あるいは存在論的な意味での救抜だ。
それ、すなわち、わたし自身のなんらかな意味での救援にもつながるだろうか。
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