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2017年2月22日水曜日

悪の倫理学・覚え書き その5  〈存在倫理〉について

悪の倫理学・覚え書き  
その5 

〈存在倫理〉について 


街頭



 若年の頃から悪名を恣(ほしいまま)にしてきたこのわたしではあるが、根源的な悪の実像については、まだまだ追究が足らないと恥じている。 
 たまたま、今回の論考に際して何篇かの論文なりエッセイなりが頭を掠(かす)めた。そのなかの一つに晩年の吉本隆明と加藤典洋の対談、といっても、吉本は既に老境に至り、ほとんどが加藤が立て板に水かのごとく滔々と話し続けるのをただただ吉本が聞いている、そして時折、いささか文脈をそれた、あるいはそらした、あるいは、全く無関係なコメントする、というものだ。 「存在倫理について」がそれだ*。 

* 吉本隆明・加藤典洋「存在倫理について」/『群像』2002年1月号。 

 題材として冒頭取り上げられるのが2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件と、1995年3月20日に発生した地下鉄サリン事件である。いずれも全く無関係な人々を巻き込む無差別テロであり、このような凶行を許す理念が発生してくるのは一体どこからなのかというところから話が始まる。 イスラム原理主義の正義とアメリカ資本主義・自由主義の正義がぶつかる処にこのようなテロがあるとするならどこに倫理の場を設定すればよいのかとして吉本は次のように述べる。 

人間が存在すること自体が倫理を喚起するものなんだよ、という意味合いの倫理、「存在倫理」という言葉を使うとすれば、そういうのがまた全然別にあると考えます。 (『群像』2002年1月号・p.208) 

 ちなみに、この「存在倫理」という注目に値する概念はこの対談で突如として言明されるも、わたしの知る限りでは、何らかの論著で正面から論じられることはついになかった。しかしながらこの概念の核となるものは若年のころから吉本の心底にはあったようだ。例えば次のような記述は吉本若干26歳のときのメモである。 

倫理とは言わば存在することのなかにある核の如きものである。(吉本隆明『吉本隆明全著作集 15』所収「形而上学ニツイテノ NOTE」1950年 p101)webサイト「クマの倫理論」http://blog.livedoor.jp/greenminkuma-kumatamontan/archives/7678054.html から援引。  

 さらに注記を続ければ、加藤はこれをして「倫理観の拡張」と指摘しているが、むしろそれなくしては倫理が倫理として成立しえない「倫理の根源性」の発見、発掘というべきだろう。  

 また、加藤は自著『日本人の自画像』*に触れて、これに先立って吉本に「文学的発想というのはダメだよ」と言われたことを批判して「「文学的発想」を否定しちゃいけない」と述べ、「内在」と「関係」について展開する。  

*加藤典洋『日本人の自画像』(日本の50年 日本の200年)2000年・岩波書店。  

 誰しも若き日に自らの置かれた状況から自らの信念を構築する。これが「内在」だ。しかし、どこかで壁に突き当り失敗する。そこで人は他との「関係」からなにかをつかみ出す。ただ、問題はひとは内在から始めるしかない、ということだ。 
 例えば柄谷行人は価値と内在の問題について、次のように述べている。 

商品の価値は、前もって内在するのではなく、交換された結果として与えられる。前もって内在する価値が交換によって実現されるのではまったくない。(柄谷行人『探究』Ⅰ・p.6*)  

*柄谷行人『探究』Ⅰ・1986年・講談社。  

 わたしはこのくだりを読んだとき、とても強い違和感を覚えた。本当にそうだろうか、なにものかは交換されねば、つまり関係性を持たねば価値は発生しないのだろうか。むしろ、なにものかはなにものかとして内在する価値を持っているのだ。それは単なる価値というよりも存在自体がもっているある種の倫理性を発色させるものなのだ。 これが〈存在倫理〉ではないのか。  

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