悪の倫理学・覚え書き
その7
〈存在の反倫理〉について
若年の頃から悪人だった。
では、あなたは何ができるのですか、と問われると返事に窮するが、実際何もできない、何かできたとしても、それは結果的に悪になってしまう、だからわたしは悪人なのだ。
したがって、何もしなくてもよい、あなたらしさとかはまったく望んでいない。ほかの人と同じようにやればよい、どうしてあなたは他の人と同じことができないのか、あなたは何も考えなくてもいい、これをやれ、あれをやれ、と言われたことだけを忠実にこなせ、ということになる。
するとわたしは一体全何なのかということになるが、それはすなわち、物理的な労働力を供給する単なる機械、「労働機械」ということになる。あなたの頭や心は要らないのですよ。あなたは機械なのですよ。
我々悪人がちょっと考えて、少し工夫すると反則を取られるのだ。「アウト!」と。
吉本隆明の晩年の概念の一つに「存在倫理」というものがある*。人間は存在するだけでその倫理性を持つ、というものだ。
*前項「その5」参照。
しかしながら、ある種の物体や現象、あるいはある種の人間はそこに、その場に存在するだけで、反倫理性を持つ、そういうことはないだろうか。例えば放射性物質。それ自体は単なる自然現象だが(本当か?)、無論近づく生命体を死に追い込む。
卑近な例で言えば狂った時計。これも見たものの行動を狂わせる。
このような事態を〈存在の反倫理〉と呼ぼう。
これらの存在の反倫理性と存在の倫理性はいかように噛み合うのか。
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