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2017年1月25日水曜日

「建築への意思」を、われわれはけっして捨ててはならない 柄谷行人『柄谷行人講演集成1995ー2015ーー思想的地震』

🌀柄谷行人を読む🌀 

「建築への意思」を、われわれはけっして捨ててはならない 

柄谷行人『柄谷行人講演集成1995ー2015ーー思想的地震』 


柄谷行人『柄谷行人講演集成1995ー2015ーー思想的地震』 
■2017年1月10日・ちくま学芸文庫。 
■2017年1月18日読了。 
■採点 ★★☆☆☆。  

  
 加藤周一がかつて述べたように*、日本では哲学や思想的領野をも文学(文芸)が担っていたことは多くに知られるところである。 

*加藤周一『日本文学史序説』上下・1975年・筑摩書房。 

 それとはまた背景や文脈を異にするが*、近代に至ってはいわゆる文芸評論(文芸批評)が哲学・思想はもとより社会科学や自然科学に至るまでその射程を拡大し、あるいは相互に乗り入れていったのである。 

 *これについては充分検討すべきである。 
  
 柄谷自身は近代文学は終わった、自分は文学はやめた、と述べ*、いつの頃からか「哲学者」を名乗るようになっている。しかしながら、近代日本における文芸批評の果たした意味、またそこで柄谷自身が果たそうとした仕事の自覚性については改めて再確認、再評価すべきである。 
  
*例えば本書「近代文学の終り」など。 

 普段自身の過去の仕事は振り返らないという柄谷が、本書所収の「移動と批評」において、距離を置いた言い方ではあるが、前述の文芸批評の意味を捉えようとしているのは興味深い。また、そこで未完の「言語・数・貨幣」の完成も考えられていることも言及されている点もまた大変興味深いと言える。 
   
 またカントと地震の関係(「地震とカント」)や中江兆民・幸徳秋水・田中正造の連関について(「秋幸または幸徳秋水」)、また、「隠喩としての建築」でも触れられていた クリストファー・アレグザンダーやジェーン・ジェイコブズの(反)都市プランニングに見られる、理論家(批評家)の果たした役割について(「都市プラニングとユートピア主義を再考する」)も大変興味深く思えた。とりわけ、ジェイコブズの仕事に触れて次のように述べている。 

 私は一人の理論家あるいは批評家がいただけで、これだけの違い*が出てくるということに感銘を受けました。ここにこそ、建築がある。そして、建築の意思がある、と思った。(……)もちろん、それは、建築家ではない私にも希望を与えるものでした。この意味での「建築への意思」を、われわれはけっして捨ててはならないと思います。(p.102) 

*(評者註)ジェイコブズがいたトロントという都市が、彼女がいたことによって自然都市として栄えているということ。 

 一旦NAMを解散して、さらに哲学者を名乗るようになった柄谷が依然としてみずからの理論的な仕事と現実の社会を強く結びつけようとしていることがここから窺える。《「建築への意思」を、われわれはけっして捨ててはならない》との言葉を理論家も、われわれ一般の市民も銘記すべきである。 
  
 また、これと合わせて柄谷行人にとっての講演および講演集の意味についても考察せねばならぬが、これはまた別の機会に。 

 最後に。題名の『思想的地震』というのが、少なくとも私には理解できない。「移動と批評」ぐらいが妥当だと考える。 
  

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