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2016年6月23日木曜日

今、「哲学者」の視線は必要か? 柄谷行人「9条の根源」を読む

🌀柄谷行人を読む🌀 

今、「哲学者」の視線は必要か? 

柄谷行人「9条の根源」を読む  




■ 柄谷行人「9条の根源」(依田彰によるインタヴュー)/『朝日新聞』2016年6月14日・朝刊。   
 
柄谷行人氏(『朝日新聞』2016年6月14日・朝刊)





 柄谷行人氏の日本国憲法憲法第9条に関するインタヴューを読んだ*。安倍内閣の憲法改正への動きが強くなる中、評価すべきものだろう。しかしながら、個人的には、ある種の異和感を感じずにはいられなかった。  

 柄谷行人氏の「憲法9条」に関する発言は一連のものだ。①柄谷行人『憲法の無意識』2016年・岩波新書。 ②柄谷行人・大澤真幸「9条 もう一つの謎」/『世界』2016年7月号。 ③柄谷行人「改憲を許さない日本人の無意識」 /『文學界』2016年7月号。 

 要するに今回のインタヴューで述べられていることは「憲法9条は日本人の無意識に根差していて、したがって「改正」することは現実問題として不可能だ」というものだ。 
 論の正否は一旦は措くとしても、安倍内閣が憲法改正の準備を着々と進めているなか、果たして、今この現在、「「改正」は不可能だ」と指摘することにどんな意味があるのだろうか。安部内閣はこのような議論が巷間取りざたされていることを知って、「改正」を諦めるというのか。むしろ逆にこれ幸いと攻めの一手を強めるのではないか。と言うのは我々国民の立場で言えば 、つまりは何もしなくてもよいことになってしまうからだ*。 

 *無論、柄谷氏自身はそうは言ってないし、このインタビューでもデモについても触れられている。また言うまでもなく氏自身も組織的な形でデモに参加している(長池評議会)。しかしそう読めてしまうと危惧しているのだ。 

 結果的には柄谷氏の言う通りに、結局のところ、政権党は「憲法改正」はできないかもしれない。しかしながら、そう指摘することは、未来から「事後的」に現在を見つめる「歴史家」の、あるいは「哲学者」の視線ではないか。そのような「事後的」な視線が無効だとか無意味だと言うつもりは全くない。しかしそれが今回のような喫緊の情況において求められている議論だとは思えないのだ。少なくとも、多くの読者の存在が予想される新聞というメディアを通じて発言されるべきことなのか。  
 そもそも氏の「憲法9条無意識論」だが、果たして説明になっているだろうか。氏はフロイトの「超自我」論を援用して、《この過程は精神分析をもってこないと理解できません》と述べているが、正直言って柄谷氏の論著に親しんでいる読者ですら必ずしも納得できていないのではないか。論理の根本の部分が、ある種の神秘主義的なブラックボックスになっているのだ*。いわんや、憲法改正派の人々にとってはなおさらであろう**。  

*その意味では昨年の8月15日に新聞広告として掲載されたインタビュー「戦後七〇年 憲法九条を本当に実行する」(『朝日新聞』2015年8月15日・朝刊)の方が論理と具体的なヴィジョンが提示されていて極めて明瞭だった。 
**むしろ、この件については、同様の議論が既にあるわけだから、それについてはインタヴューワーがきちんとした説明を要求すべきだったのだ。  
   
 ところで、柄谷氏は批評家あるいは思想家として知られていたが、何時の頃からか、「哲学者」を名乗るようになった。おそらくこれは『トランスクリティーク』に始まり『世界史の構造』を経て、現在連載中の「Dの研究」に至る、体系的な理論を構築するという意思の表れであろう*。そもそも欧米の文脈で言えば哲学者も思想家も区別はないということもあろう。しかしながら、今回のフロイトやカントを援用しつつ自説を展開するという手法はどちらかといえば、批評家の方法だ。 

*私は、『トランスクリティーク』で与えた考察を、もっと根本的にやりなおさねばならない、と考えた。(……)二〇〇一年にいたるまで、私は根本的に文学批評家であり、マルクスやカントをテクストとして読んでいたのである。(……)だが、このようなテクストの読解には限界がある。(……)したがって、「世界史の構造」を考えるにあたって、私は自身の理論的体系を創る必要を感じた。これまで私は体系的な仕事を嫌っていたし、また苦手でもあった。だが、今回、生涯で初めて、理論的体系を創ろうとしたのである。私が取り組んだのは、体系的であるほかに語りえない問題であったからだ。(『世界史の構造』p.X) 

 もし氏が語の真の意味における「哲学者 」としてあろうとするのであれば、「憲法9条が日本人の無意識になっている」との説を、先行の思想家達によって自説を展開するのではなく、オリジナルな思想、いやこの場合は哲学か、それをこそ展開すべきではないのか。  
 しかしながら矛盾した言い方になるが、我々が柄谷行人に期待しているのは必ずしも「哲学者」としての柄谷行人ではなく、〈現在〉とアグレッシヴに戦闘し続ける「思想家」としての柄谷行人であるような気がするのだ。 


【文献】 
・柄谷行人『トランスクリティーク――カントとマルクス』(批評空間、2001年)  
・柄谷行人『世界史の構造』(岩波書店、2010年)  
・柄谷行人「Dの研究」/『at+』に連載中。 

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