🌌井上靖を読む🌌
偶然に翻弄される生
井上靖『河口』
■井上靖『河口』1960(昭和35)年8月5日・中央公論社。
■長篇小説。
■初出:『婦人公論』1959(昭和34)1月号~1960(昭和35)年5月号・17回連載。
■目次
全12章
■A5判・一段組・262頁。
■320円。
■2026年5月1日読了。
■採点 ★☆☆☆☆。
1. 『満ちて来る潮』からの反復と変奏
本作は、先作『満ちて来る潮』*[1]で示された「人生の河口に立つ女主人公」というモチーフの延長線上にある。前作の苑子が自立の果てに自死を選んだのに対し、本作の李枝は富豪の愛人という境遇から「自由」と「資金」を得て、画商として自立の道を歩み始める。しかし、その造形は依然として「河口」に立ちすくむパターンを脱していない。
2. 必然性を欠いた「偶然」の連鎖
李枝の歩みは、主体的な選択というよりは、些細な理由による男たちとの離別や、偶発的な情報の入手(最後に執着した男の渡米を知る等)といった「偶然」の連鎖に依存している。
- メロドラマ的通俗性:
男たちとの遍歴は、エロティシズムの描写を排した「上品なハーレクイン・ロマンス」あるいは「渡辺淳一的世界」の萌芽を感じさせるが、そこに本物の愛や葛藤の深化は見られない。
- 未来図の不在:
画商としての成功を目指す決意にしても、これまでの言動からその大成する姿を想起するのは困難であり、結末の説得力に欠ける。
3. 美術・芸術への洞察に対する不満
画商という職業設定に関わらず、扱われる美術品が単なる「換金材料」に留まり、芸術の深奥にまで踏み込んでいない。
- ゴッホへの言及:
作中のゴッホに関する描写は、登場人物の精神性と有機的に結びついていない。
- 批評眼の欠如:
井上自身のエッセイ『ゴッホの星月夜』*[2]に見られる表面的な描写を含め、小林秀雄の『ゴッホの手紙』*[3]と比較すれば、その芸術観の厚みの差は歴然と言わざるを得ない。
4. 時代背景と人物造形への疑問
井上の作品が当時、映画化やテレ‐ヴィジョン・ドラマ化を繰り返された事実は、当時の女性読者層にとってこの「受動的、あるいは中途半端な自立」が受容される土壌があったことを示唆するのか。井上があえて大海への進出を躊躇する女性を描き続けた意図には、いささか疑問が残る。
【参照:作者の言葉】
「私は河口に立って、潮(うしお)が満ちてくるのを見るのが好きです。(中略)こんどの小説では作者は一人の若い女主人公を人生の河口に立たせてみるつもりです……」*[4](1955年『毎日新聞』連載時より)
参照文献
井上靖. (1955年/1996年). 「作者の言葉」. 著: 井上靖, 『毎日新聞』/『井上靖全集』第十巻. 毎日新聞社/新潮社.
井上靖. (1956年).
『満ちて来る潮』. 新潮社.
井上靖. (1960). 『河口』. 中央公論社.
井上靖. (1980年).
『ゴッホの星月夜――小説家の美術ノート』. 中央公論社.
小林秀雄. (1952年). 『ゴッホの手紙』. 新潮社.
🐤
1,035字(400字詰め原稿用紙換算3枚)
202605031736

0 件のコメント:
コメントを投稿