🌌井上靖を読む🌌
無根拠な生
井上靖『満ちて来る潮』
■井上靖『満ちて来る潮』1956(昭和31)年6月30日・新潮社/『井上靖全集』第十巻・1996年2月10日・新潮社。
■長篇小説。
■初出:『毎日新聞』1955(昭和30)9月11日~1956(昭和31)年5月13日朝刊・243回連載。
*以下は全集版の書誌情報。
■目次
(『あした来る人』・『淀どの日記』併録)
l 全18章
■A5判・上下二段組・253頁。
■9,000円(税込み)。
■2026年4月30日読了。
■採点 ★★☆☆☆。
1. 焦点の拡散と構成の不備
主要登場人物が多過ぎるため、物語の焦点がぼけている。苑子と紺野の不倫、笙子と真壁の密かな恋を重ねる意図は察せられるが、全体の機動力として機能しているとは言い難い。むしろ真壁の役割を紺野に集約し、病弱な妻を持つ設定などを付加して笙子を参戦させれば、恋愛の必然性はより強固になったのではないか。
2. 恋愛および行動における「根拠」の薄弱さ
本作の致命的な欠陥は、主要人物の行動原理における根拠の希薄さにある。
- 苑子の心理:
夫・安彦への嫌悪感の理由が判然としない。当時の一般的な夫婦関係の域を出ない倦怠から、唐突に離婚や自死へと飛躍する論理には飛躍がある。
- 紺野の立場:
ダム技師として脂の乗った時期にある彼が、あえて人妻との煩雑な関係に足を踏み入れる動機が弱い。
- 結末の不徹底:
苑子の自死未遂、および紺野とのあっけない別離も、彼らの愛情自体の薄弱さを露呈させており、中途半端な印象を拭えない。
3. 「河口」に立つ受動的存在としての苑子
他の登場人物が仕事という現実世界に根を下ろして生きているのに対し、苑子のみが何ら具体的な拠り所を持たず、根拠なき行動を繰り返している。
作者は「人生の河口に立つ女主人公」に壮大な運命(潮)が寄せることを念願したが、実際の苑子は、ただ向こうから潮が満ちて来るのを待つだけの不甲斐ない受動体に留まっている。これは『あした来る人』の杏子や『淀どの日記』の淀といった、井上作品特有の主体的な女性像と比較しても、極めて対照的である。その意味では、残念であると同時に、何らかの作者の意図があったのかも知れない、とも思える。
【付記:作者の言葉】
「私は河口に立って、潮(うしお)が満ちてくるのを見るのが好きです。(中略)こんどの小説では作者は一人の若い女主人公を人生の河口に立たせてみるつもりです。彼女は自分をめがけて押し寄せてくるものをはっきりと見るに違いありません。願わくばその時、彼女の周囲に寄せる潮が悲しみであれ、悦びであれ、彼女にとって壮大なものであってほしいといま作者は念願するばかりです。」
(『毎日新聞』1955年9月5日朝刊/全集第十巻 779頁)[1]
参照文献
井上靖. (1955年/1996年). 「作者の言葉」. 著: 井上靖, 『毎日新聞』/『井上靖全集』第十巻. 毎日新聞社/新潮社.
井上靖. (1956年).
『満ちて来る潮』. 新潮社.
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1,129字(400字詰め原稿用紙3枚)

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