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2022年1月23日日曜日

なぜ、おばさんはうるさいのか?(失礼、批判している訳ではありません)

 

🐰コラム「ウサギの耳も借りたい」🐰

 


なぜ、おばさんはうるさいのか?(失礼、批判している訳ではありません)

 

 

 先日、野暮用があって、埼玉県のK**市まで行って、帰るときのことである。高名な、かの政治学者の方とは違って、残念ながら、わたしは鉄道の路線などについては全くの無知である。東京に40年近く暮らしているが、首都圏はおろか、都内の交通網の概念が全く頭に入っていない。埼玉の最果ての(と言う程でもないか?)街から東京を通り抜けて、神奈川の海岸まで鉄道一本で行けてしまうなんて初めて知った。まー、長生きはするものだな、と改めて思い知った次第である。

 ま、それはともかく、わたしはそこから渋谷まで出て、そこで私鉄に乗り換えて自宅に向かうのだが、たまたまK**駅で乗り合わせた、中年女性の2人組がわたしの隣に座って、そのまま渋谷まで同道することになった。都合90分ぐらいだっただろうか。都会で電車に乗っている時間としては、かなり長い時間だろうと思う。無論、行きも帰りもそうなるのは事前に分かっていたので、むしろ、こういう時にこそ、落ち着いて孤独の時間を楽しめるというものだ。ぼーっと車窓からの見知らぬ街並みや田園風景を楽しんだり、走行する電車の規則的な振動に揺られながら、うつらうつらとするのも大変心地いい、旅、という程でもないが、プチ旅の楽しみでもある。

 わたしの、ほぼ唯一の趣味のようなものは読書なのだが、普段はなんだか、無意味に忙しくて、なかなかその唯一の趣味の時間を確保するのが難しい。したがって、時間と場所が拘束されていて、尚且つ自由な行動が許されている、こういうときにこそ読書をしようと張り切っていた。

ところが、である。行きは、2ページ目をめくるか、めくらないかという短時間で睡魔に襲われ、気持ちいい眠りを貪ってしまった。よし、帰りこそ、しっかり本を読もう、と決意も新たにしていた矢先のことである。

 大変失礼な言い方になるが、うるさいのである。まったく本の内容が頭に入らない。先に述べたように女性二人組がわたしの横に坐っていた。直視したわけではないので正確には分からぬが、恐らく歳の頃なら30代から40代ぐらいか。聞くともなく耳に入ってきてしまう彼女たちの話からすると、小学生から中学生ぐらいの子供がいて、配偶者にはそこそこの収入があるようだ。平日の午後の早い時間帯だったが、どうも、これから、鎌倉に行って、食事だか、買い物だかをするような口振りであった。確かにそこそこ裕福なのであろうが、そこにわたしの論点はない。主な話題の論点は、どこそこのショッピング・モールのなんとかというテナントが良かったとか、スーパーのどこそこが安いとか、学校の父母会の運営がなんとかかんとか、というような、まー、中年の女性としては当たり障りのない、ごく平均的な話題であったと思う。

 問題は、それを90分間、蜿蜒(えんえん)と話し続けるということもさることながら、恐らく、電車内という公共空間の中としては、多分、声が大きかったのではないかと思われるこれが、例えば、公園とかでされるのであれば、全く問題はない。喫茶店とカフェだと、まー音楽も流れているし、そういう目的の場所ということもあるので、一応許容範囲であろう。

 しかしながら、電車の中ですからね、これはいささか気になるところである。たまたま、その二人組の声が大きかったということも考えられるが、その後、やはり同じような状況に遭遇して、観察すると、矢張り、同じような現象が見られた。うるさいのである。

 これは、どうも、その話者が、その話者の空間に内閉することで、他者をシャット・アウトするところに起因するのではないかと考えられる。その雰囲気が他者にうるさく感じさせるのであろう。

流石に、電車やバスの車内という公共空間で携帯電話で通話している人は、最近ほとんど絶滅したと思うが、路上で歩きながら独り言というにはやたらとでかい音量で話している人とすれ違って、ぎょっとすることがある。つまり、この場合はハンズ・フリー機能を使って携帯電話で通話しているのである。これも第三者から見れば、やはりこわい。

同じようなケイスで想起するのは、外国の方、特にアジアやアフリカ、南アメリカなどからいらっしゃったと思われる方々が、日本のおばさんたちと同じような感じになる。

無論、おじさんも酔っ払いはうるさいし、若者だって、固まりになれば、やはり、うるさいのだから、何も、ことさらにおばさんだけを批判するいわれはない。大体十把一絡げに中年の女性が全員うるさい訳でもないのだ。

要は人というものは、仲間同士で空気の幕を張ってしまうと、もうそこは喫茶店のブースと同じ、あるいは我が家の応接間と同じになってしまうのだろう。これをわたしは「結界を張る」と呼んできた。邪悪なものを排除するための、神社とかの注連縄(しめなわ)の張られた空間です

――あのー、あれだ、最近流行っている『呪術廻戦(じゅじゅつかいせん)(あくた)()下々(げげ)・作・2018年~・現17巻・ジャンプコミックス(集英社))にという呪術を扱う漫画の用語で言えば、「領域(りょういき)展開(てんかい)」ということになる。呪術師たちは、戦闘、――無論、呪術の戦闘だが、自らの有利になるように、ある特定の空間をあたかも想念の(コンピュータ・グラフィックスで言うところのポリゴンですねを張るかのように、敵も含めて呪術を用いて立体的に囲ってしまう。これを領域展開と称しているようだが(合ってるかな?)、要は、おばさんたちに見られる公的空間における、私的空間の延長、拡大は、この、呪術における「領域展開」に相当すると考えられる。と、すれば、わたしが、そのおばさんたちの領域展開に巻き込まれて、集中力が阻害されたのも、確かに理由のあることだったと分かる。なんとなれば呪術なのだから。

ただ、いまさらこんなことを言っても手遅れなのだが、わたしは何も、おばさんたちを批判したり、否定したりする気持ちはないし、これを是正するにはどうすればいいか、などと言った建設的なことを述べようと思っている訳では決してない。先に挙げた例で言えば、外国の方々の場合、異文化の中で同種の文化が固まり易い、というのは文化の衝突状況で普遍的に見られる現象である、ということもあるにはあるが、それよりも、そもそも、多くの日本人がそうであるように、その場を無言で沈鬱に過ごす、のではなくて、その瞬間、その空間をできるだけ仲間同士で楽しもう、愉快に過ごそうという文化が、一般的な日本の文化とは違う、という側面もあるかもしれない。

つまり、この「領域展開」、まー、平たく言えば「うるさい問題」は文化、異文化の問題であると考えれば、これはこれとして否定することなく、尊重せねばならないことになる。文化が違うのだから仕方がないのだ。

従って、わたしのような初老の男性からすれば、中年女性、いわゆるおばさんとは文化を(こと)とするわけだから、或る意味では、あ、どうもこちらの方々はイタリアの方かな(すいません、イタリアを莫迦にしてるわけではありません。あくまでも例です)、とか、あー、ブラジルからいらっしゃったんですか(あくまでも例です)日本は寒いですかとかそういうレヴェルなのかなと思えば、一旦こころのもやもやは晴れる? 気もしないでもない。

まー、それにしても、その時の2人組のおばさんたちは、ほんとによく喋った。あたかも、フェデリコ・フェリーニの映画に登場するイタリアのおばさんのように耐えず喋り続けた。

 まー、それぐらいの元気がないと、この世は生きてはいけないのかも知れない。見習いたいものである、うん、全くね。

 

3179字(8枚)

🐥

 

20211121初稿


20220123 1940

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