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2021年3月16日火曜日

なぜ全集の端本を買ってしまうのか?

 遠くの方で 第3回


なぜ全集の端本を買ってしまうのか?




  死ぬまでかかっても絶対読み切れない数の本を買ってしまう。

 何かこれは稀覯本とか初版本とかのコレクションをしているわけではない。

 ただ、読みたい、と思った本をただひたすら買い続けてしまうとこうなるのだ。よく、本の重みで床が抜けた、という話も聞くし、実際友人の一人は床が抜けてしまった。

 幸いなことにうちは鉄筋なんで大丈夫なんじゃないかな、と勝手に思ているがどうなるかは本当のところは分からない。

 ま、そんな心配をするんなら、文庫で買えばいいんだが、どうもそうもいかない。文庫しかない場合は、已む無く文庫を買うが、選択できるならハードカヴァー版を買ってしまう。

 もう、これは病気としか言いようがない。

 村上春樹の短篇の名作に「トニー滝谷」*という作品があるが、滝谷の妻はあることを除いては非の打ちどころのない女性だった。しかしながら、唯一欠点というか問題点があった。それは絶対に着ることのできないほどの衣服や靴、装身具などを買い続けてしまう、という、まー言ってみれば、やはり或る種の病気を持っていたことである。


*村上春樹「トニー滝谷」1990年/『レキシントンの幽霊』1996年・文藝春秋。


 それと比べるのはどうかと思うが、相対的にはあまり害のない方だといってよいだろうか。

 それにしてもなぜそうなってしまうのか分かれば世話はない。或る種の運命だと受け止めてもらうしかないだろう。まー、受け止めるのはわたし本人なんだけどね。


 ところで、恐らく貧しい出自が災いしているのだと思われるが、読みもしない割には、やたらと分厚い本に目がない。で、単体の分厚い本*は、一般的には高価故に、なかなか手に入れることが難しいが、ここに穴がある。


*いわゆる枕本とか煉瓦本と呼ばれるものだが、思いつくままに例を挙げてみよう。蓮實重彦の『『ボヴァリー夫人』論』(2014年・筑摩書房)は850ページ。さらにこれに『「ボヴァリー夫人」拾遺』(2015年・筑摩書房)というのもある。こちらは315ページ。足しても仕方ないが、足すと1165ページという驚異的なページ数になる。そしてさらにこれに対抗したわけではなかろうが工藤庸子編集による『論集 蓮實重彦』(2016年・羽鳥書店)というのもある。こちらは640ページ。そんなことを言ったらそもそも蓮實さんには驚異的な煉瓦本があった。『凡庸な芸術家の肖像――マクシム・デュ・カン論』(1988年・青土社)がそれである。なんと868ページ。



 かの小林秀雄は、


或る著作家についてはその全集を読め


 と言ったが、その全集である。


 全集の意味は全部揃えることにある。普通の単行本や文庫で読めない、いろんな、なんでもかんでも全部読む、通して読む、ということに意味があるわけだが、全部セットで揃えると高いじゃないですか(くどいな)。ところが古書店に行くと、全集の欠片(端本て言います)が二束三文で売られている。値段を見ると、本当にどうでもいい扱いを受けていて、見るに忍びない。これはいくら何でもあんまりだ、という義憤に駆られたわけでも何でもなくて、お、分厚い、値段は?   お、貧乏人には妥当だ、という訳でお買い上げになり、ますます我が家の床を圧迫することになる( ノД`)シクシク…。

 

 実は今日も危なかった。『漱石全集』(新書版)、『鴎外全集』(新書版)、『芥川龍之介全集』、『折口信夫全集』、『白秋全集』、『福永武彦全集』。それも微妙な巻(索引とか、書簡とかの)ではなくて割と主要な作品が収録されている巻ではないか。

 それと、これは全集ではないが、全集レベルの分厚い本、ということでは、井上究一郎全訳のプルースト『失われた時を求めて』もあったが、いずれも30分ぐらい迷って、危ないところで踏み止まった。アブナイ、アブナイ。


 というわけで本日はなんとか虎口を脱したものの、かつては、先に述べた次第で、謎のshoppingにはまったことがある。本日はその一端をご覧に入れよう。無論、意味はない。


①『【新】校本 宮澤賢治全集』第八巻・1995年・筑摩書房。本文篇345ページ、校異篇153ページ。


 旧校本全集は本文と校異が一巻本で、なおかつガチのハードカヴァ―だったので重く、読みづらかったが、新版はソフトカヴァーで読み易い。本巻は「童話」篇の[Ⅰ]で、第一回配本。「蜘蛛となめくじと狸」や「グスコーブドリの伝記」初期形の「(ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記)」などが収録されているため、定価5800円のところ1590円。普通なら買わないが、少しイっていたのでゲット。


②『漱石全集』第二十六卷 「別冊 中」・1996年/2004年・岩波書店。585ページ。


 「別冊」というぐらいだから、作文・レポート、草稿、参考資料の類が収録されている。本来全集というのはこのようななんだかよくわからない巻のために存在するのだ。実は第一次刊行の時に全巻買った。が、それは今手元にないので、これはこれでよしである。定価3960円のところ210円であった。

 それはそれとして、これは第2次刊行なのだが、まずは『文学論』、『道草』、『明暗』の草稿がそれぞれ数枚ずつ補遺として追加収録されている。これは第一次を買った人はどうなるのか?   ま、仕方ない。

 さらに驚きなのが、岩波は従来、単行本にもスピン(栞の紐みたいなやつ)が付いてないことで有名だが、なんと、本巻には(本全集には)それが付いているのだ!!   それも2本も!!    確かに、巻末に注が付いている本には2本あった方が便利だが、たいていは1本しかついていないので、紙の栞などで代用することになる。確か第一次刊行の時は漱石の絵とかが印刷された紙の栞だった。いつからこうなったのであろう?


③『決定版 三島由紀夫全集』第33巻・2003年・新潮社。780ページ。



 「評論8」という巻立てで、無論『太陽と鉄』や「をわりの美学」などの評論も収めれられてはいるが、推薦文やアンケート、週刊誌のインタヴューなどが大半を占め、雑纂と言ってもよいが、これがまさに全集ならではお徳用と言うべきなのだ。例えば北杜夫の『楡家の人びと』(1964年・新潮社)の推薦文や大江健三郎『個人的な体験』(1964年・新潮社)を批判する文章などが収録されている。定価6380円のところ210円であった。


 いずれも新品そのものであったことも申し添えておこう。


 さらに付け足せば、いずれも新字、旧仮名遣いという珍妙な編集方針を取っているがいかがなものか?


🐧

2021/03/16 12:22

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