「究極の恋情と、究極の孤独」を描く
村上春樹『女のいない男たち』
■村上春樹『女のいない男たち』2014年4月20日・文藝春秋。
■短篇小説集。
■1574円+税。
■2020年5月5日読了。
■採点 ★★☆☆☆。
長篇小説の執筆が活動の主体と考えられる村上春樹だが、その定評とは裏腹に、あるいは同時に、村上春樹の短篇に外れなし、ともよく言われることである。本作は、文芸誌ではなく総合雑誌である『文藝春秋』を中心に断続的に掲載された、ある種の短篇小説の連作ものである。9年ぶりの短篇小説集とのことだが、明らかに従来の短篇とも、あるいは本来の村上春樹世界ともいささか質感の異なる味わいを持つ作品集である。いわゆる「定法」に則ったというよりも、それを意図的に踏み破ろうとでもしている気がする。したがって、あるいは短篇小説的な切れ、充実した味わいを求める向きには、あるいは首をひねる方もいたのではないかと推測する*。
*この傾向はまだ書籍化されてはいないものの『文學界』にやはり断続的に連載された連作短編「一人称単数」全7編についても、さらに拍車がかかっていると言ってもよい。人によっては、正直クエスチョン・マークのオンパレードではなかろうか。連作短編「一人称単数」については別稿にて触れることになる。が、備忘録的に書き付けておくと、一般に音楽は具象性を持たぬものだが、それをあえて短篇小説の形で具象性を付与するとどうなるか、というモチーフに支えられているのかとも思えるが、そうでもないかもしれない。いや、もう少し言うと、その音楽なら音楽が持ちうるある種の情動、心象とでも言うべきものを表現しようとしているように思える。したがって可能な限り奇想天外なプロットは排除される(無論、村上だから「奇想天外」ではあるが、意味がちょっと違う)。しかし、今、手もとに掲出誌がなく確認できない。連作短編「一人称単数」は『文學界』に断続的に掲載された。( )内は掲載月号。「石のまくらに」(2018年7月)・「クリーム」(2018年7月)・「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」(2018年7月)・「ウィズ・ザ・ビートルズ」(2019年8月)・「ヤクルト・スワローズ詩集」(2019年8月)・「謝肉祭」2019年12月)・「品川猿の告白」(2020年2月)。
「女のいない男たち」とは?
書き下ろしも含めて6編の作品が収録されている。いずれも表題の示すように「女のいない男たち」、すなわち「いろんな事情で女性に去られてしまった男たち、あるいは去られようとしている男たち」(本書p.7)というのがモチーフになっているらしい。
簡単に内容をまとめてみよう。
作品名 主人公(職業など) 名前の意味 「女のいない男」の状況 三角関係 聞き手
①「ドライブ・マイ・カー」 家福(舞台俳優) 禍福? 亡くなった妻は浮気をしていた。浮気相手だった俳優も愛人を亡くして傷心している。 家福―妻(女優)―高槻 運転手のみさき
②「イエスタデイ」 木樽(同級生) 来たる? 幼馴染のえりかに「浮気?」をされ傷心?のあまり大学受験をあきらめ関西の料理学校に行き、ついには渡米し寿司職人となって転々とする。 木樽―エリカ―先輩/谷村 谷村
③「独立器官」 渡会(整形外科医師) 都会? 渡海?
ある人妻を真剣に愛するあまりのっぴきならない状況に陥り、別の愛人のもとに去った人妻にショックを受け、ついには絶食して死ぬ。 渡会―人妻―配偶者/別の愛人 谷村
④「シェラザード」 羽原(何らかの犯罪がらみで「ハウス」に隠棲している) ḥabara アラビア語で,イスラム教徒の女性の伝統的な服を指す。ペルシャ語でチャドル。 性交するたびに一つ話をしてくれる連絡係「シェラザード」が二度と来なくなったら困る。 ない 羽原
⑤「木野」 木野(バーのマスター) 昨日? 妻に浮気され離婚する。 木野―妻―会社の同僚 なし
⑥「女のいない男たち」 「僕」(不明) なし かつて付き合っていた女性が死んだことをその配偶者が夜中の一時に電話をかけてくる 「僕」―女性―女性の夫 なし
こう見てくると、確かにいずれの作品も設定上はほぼそうなってはいるが、本当にそこにポイントがあるのだろうか。 あるいは仮にそこがポイントだとして、それには一体どういう意味があるのだろうか。
全ての女性は嘘をつく
例えば、気になるのは、本作品集に収録された作品群の題名の出鱈目さ、あるいは一貫性のなさである。①と②はいずれもビートルズの著名なヒット曲である。⑤は主人公の名前、それも名字単体である。④については成立背景がいささか異なるので、一旦措く。
問題は③の「独立器官」である。これは一体何か。「独立器官」とは一体何か? 登場人物の説明によれば女性は肉体の本体とは全く別に「独立器官」を持っていて、そこで嘘をつく、というのだ。どんな嘘を? 無論、この文脈では男をだますための嘘、ということになる。
要するに、ことほどさように女性というものは、そもそもの成り立ちからして、男を騙すようにできている、そのことを理解したうえで、男性は女性と接するべきものなのだ。その意味では本作のそれぞれの男性たちは確かに女性たちに騙されているわけだ。
村上は、そのことを小説として定着しておきたかったのか。
ま、確かにそういう面もあるだろう。
しかし、題名の『女のいない男たち』という男側からすると、女というものはそういうものだ、というよりも、それにも関わらず、男性は女を求めて生きるものだ、あるいはそんなことを言うのであれば、男も女も、人が生きるということはこういうものだと言っている気もするのだ。
自己破壊すら厭わない強烈な愛情
先に触れた「独立器官」の主人公である渡会医師は50代前半にもかかわらず結婚もせず、名うてのプレイボーイとして同時に複数の女性たちと付き合っている。ところが、ある一人の人妻に入れ込んで、つまり真剣に愛してしまうが、その彼女には、夫とは別の年下の愛人がいたようで、どうもそちらとくっついたようだ。そのことにショックを受けた渡会医師は絶食の余り死に至ってしまうのだ。題名こそ「独立器官」とあり、女というものは……、というテーマなのかと思われもするが、渡会医師の、まさに死に至る「意志」の強さ、それは、仮に報われることがなくても相手に捧げつくそうという「意志」の表れではないか。いや、「報われなくても」というのは彼の場合当てはまらない。報われないと分かった段階で恐らく緩慢な自死を選択したのだろうから。
しかしながら、同じような、自己破壊すら厭わない強烈な愛情と言えば、「ドライブ・マイ・カー」の浮気相手の高槻や、恐らく最愛の女性とうまく関係を取ることができず、自ら突き放しておきながら、その女性が別の男性と関係を持ったことが分かるとショックの余り全てを棄てて、最終的にはアメリカで鮨職人になってしまう「イエスタデー」の木樽や、あるいは性別こそ違え、最愛の男性の家に白昼堂々と忍び込み、彼の鉛筆や汗の臭いのついた下着のシャツを盗みだす「シェラザード」のシェラザードなど、恐らくはそういう強烈な感情、情動、心象の虜となった人々の状況あるいはその情動そのもこそ村上が真に書きたかったことかも知れない。
「究極の恋情と、究極の孤独」
これはあるいは話がずれてしまうかも知れぬが、最近作の「品川猿の告白」の人語を話す品川猿もその「一人」と言ってよい。この「品川猿」はブルックナーの交響曲が提示している「究極の恋情と、究極の孤独」(『文學界』2020年2月号・p.31)というテーマを小説の形で定着させるという意図があったのかとも思われるが、恐らくこのような形でプロットの面白さとか、奇想天外な設定などを極力排除したうえで何事かを読者に伝える、ということが企図されているのではないか。
かつて、わたしは村上に限らず、物語の難所、つまりは物語の分岐点とでも言うべき箇所、そこでの選択で物語の命を左右しかねない箇所で安易にファンタジーの手法を使うべきではないと批判したことがある(「文学的急カーブをいかにして曲がるか?」)。
その意味ではリアリズムの手法で押して、押しまくった後で、やむなく浮かびあ上がってくるある種の「超越」的な世界こそが我々読者をして真に震撼せしむるものだ、と一旦は言っておこう。
「木野」とは何か?
さて、そう考えると、主人公の名字をタイトルに持つ「木野」*はどうなのか。「木野」は、あるいはは前短篇集の『東京奇譚集』(2005年・新潮社)の流れをくむ、ある種の都会の奇譚、怪異譚である。
*あるいは彼の経営するバーの名前かも知れない。
妻に浮気された木野はそれまで勤めていたスポーツ製品会社を即日辞め、東京の都心の裏手に一件のバーを開店させた。店の名前も「木野」という。開店当初こそ一人の客も来なかったが次第に客が着くようになる。どうもその店の帰趨に強い影響を持っているのが「神田」と書いて「カミタ」と読むと名乗る謎の男である。近所に住んでいるというが詳細は分からない。いつも決まった席に座り、本を読み、ビールとウイスキーを飲む。時には厄介な客を追い払ってもくれる。文字通り「神」なのかも知れぬが、そんなに単純な話ではないだろう。
順風満帆に見えたはずの木野の店だったが、あることをきっかけに暗雲が立ち込めてくる。恐らくやくざ者かと思われる女と獣のような一夜を過ごす。妻との離婚の調停の話を区切りに事態が怪しくなる。それまで居ついていた猫が何故か帰ってこなくなり、三匹の蛇を木野は店の周りで見かける。そしてカミタが現れ、とにかくここを閉めて移動し続けるようにアドバイスする。そして週に二回絵葉書を出すこと、ただし差出人もメッセージも書いてはならないという。
木野はすぐさま店をたたんで西日本を放浪する。
彼は伯母に向けてその絵葉書を出していたが、熊本に至って、ついに衝動的にメッセージと差出人を書いて投函してしまう。無論、ルール違反である。
その深夜、何者かが、ホテルのドアをノックし続ける。
木野が反応しないとわかると今度は地上8階の壁面の窓ガラスの上からノックをし続ける*。
*先ほど述べたリアリズムの果てに現れる「超越性」の好例だと思われる。
一体これは何なのか?
先に述べた大切な女性を喪った男性たちからすると、一見、木野は妻に浮気されたことにあまり強い衝撃を受けてないようにも思える。確かに彼は浮気の相手が会社の同僚だったため、即日会社を辞めている。しかし、その後は割とすんなりとことが進んでいるようにも思える。実際、木野が独力で作り上げた「木野」というバーはとても居心地がいい気がする。その意味からするともっともっと木野は傷ついてもよかったし、そのことをもっと露わにすべきだったのではないか。
したがって、絵葉書に差出人とメッセージを書いてはならない、というのは「究極の孤独」に耐えろ、ということだが、耐えきれなくなった木野は「過去」から、あるいは自己自身から「処罰」されるのだろう。「処罰」とは木野自身がとてつもなく傷ついていることの自覚である。
「そう、俺は傷ついている、それもとても深く。木野は自らに向かってそう言った。そして涙を流した。その暗く静かな部屋のなかで。」(下線部原文傍点・本書p.261)
✍4617字(400字原稿用紙換算12枚)
🐧
2020/05/06 21:10:12

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