正直、困惑した
■村上春樹「三つの短い話」/『文學界』2018年7月号・文藝春秋。
■掲載作品 「石のまくらに」・「クリーム」・「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」。
■短篇小説。
■2018年6月7日読了。
■採点 保留。
村上の長篇作品はともかく、短篇の良し悪しで困ることはないのだが、今回は正直困った。困惑、と言ってもよい。
わたし個人の判断では『ねじまき鳥クロニクル』から『海辺のカフカ』、『1Q84』、この3つの長篇を現段階では評価していないが、この間に書き次がれた二つの短篇集(『神の子どもたちはみな踊る』、『東京奇譚集』)はともに大変高い文学的達成に至っているし、そもそも村上の短篇小説ははずれが全くない、とまでは言わないが、はずれがとても少ない。
その意味で、今回発表された3作品はいわゆる短篇小説に付き物の「落ち」というのか「下げ」とでも言うのか、その種の構成上の「結末」を持たない。
通しタイトルが「三つの短い話」となっているが「話」として聞かされた方としては、「だから、何?」と反問したくなるような展開なのだ。
文体や雰囲気は初期の頃のようで一見すると新味が感じられない。恐らくそれは一人称「僕」が語り手となって、回想という枠組みではあるが高校生から大学生時代のことが語られることから来る。5行ほど読むと、古いな、という印象を受けるだろう。
ネタバレになってしまうので一旦ここではあまり内容に立ち入るのは避けるが、例えば「石のまくらに」は主人公が学生時代に一夜を共にした女性のことが語られる。まさに一晩だけの関係だけだった、という話だが、それに色合いを着けるものが相手の女性の送ってきた一冊の歌集と、そこに収録されている幾つかの奇妙な短歌である。でもそれだけなのだ。
「クリーム」が最も難解だが、ピアノ友達にコンサートに招待されて行ってみたら何もなく、奇妙な老人に哲学談義を吹っ掛けられるという話だが、コンサートの件は一切謎解きはされない。
「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」は要するにチャーリー・パーカーが語り手の夢に現れて一曲吹いたということだが、村上の音楽への愛がよく現れていて、そこをとってみれば心地よい作品とも言えなくもないが、いわゆる文学作品としてみた場合、どう判断すればよいのか。
要するに現段階で、わたし自身が何をどう書いたらよいのか分からない。
恐らく、いつもの伝でいけば、村上はこの続きをすでに書き上げていて、順次発表していくと思われる。それを見て、また考えることにしよう。
🐔
2018年6月8日 01:54

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