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2018年6月7日木曜日

夢を見るように生きること 村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです――村上春樹インタビュー集1997~2009』

夢を見るように生きること 

村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです――村上春樹インタビュー集1997~2009』 



村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです――村上春樹インタビュー集1997~2009』2010年9月30日・文藝春秋。 
■インタヴュウ集。 
■2018年5月28日読了。 
■採点 ★★★☆☆。 

📝ここがPOINTS! 
① 海外のメディアに発表されたものも含むなかなか興味深いインタヴュウ集。 
② 村上の小説作法が明かされる。 
③ 本書の題名は村上の全作品に及ぶ大変興味深い視点を提供している。 


【本稿の目次】 
1 夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 
2 結末などない 
3 不完全性による完全性 
4 意図せざる奇妙な符合 
5 「眠り」と『アフターダーク』 


 そもそもインタヴュウというものは、質問をお受けるインタヴュイーよりも、質問を投げ掛けるインタヴュウワーの力量に左右されるもので、それによって内容に雲泥の差が生じることは言うまでもない。 
 そういう意味ではそれぞれのインタヴュウでかなり差があるのはやむを得ないが、要所要所で綺羅星のように光るものがあった。 


 1 夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 

 まさに本書の題名が言い得て妙だと思うのだが、村上にとって、小説を書くということは白昼、目が覚めているにも関わらず、あたかも夢を見るかのごとく物語を記述していくことなのだ。村上はこう述べている。 

作家にとって書くことは、ちょうど、目覚めながら夢見るようなものです。それは、論理をいつも介入させられるとはかぎらない、法外な経験なんです。夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです。(本書・p.157) 

 したがって、様々な物語上の不整合や非現実的なことが生じるが、それは村上本人にとっても謎だというのだ。何となれば、彼は夢を見ているのだから。 
 無論それを作者なりに解釈することは可能であろうが、それをすることは、不定形な生命力を持つ小動物を小さな水槽に入れて飼うことで結局死なせてしまうのに似ているかもしれない。つまり物語の生命力が失われてしまうのだ。 
 例えば『ねじまき鳥クロニクル』(全3巻・1994年ー95年・新潮社)は数々の物語上の謎を放置して、解決することなく物語を閉じ、多くの批難を浴びた作品として悪名を馳せたが、そのような観点に立てば、筋違いも甚だしいということになる。そもそも推理小説ではないのだから、解決編は当然約束されていないのは当然とも言える。 
 同様なことは、例えばカフカの諸作品や、ミステリーの分野においてもレイモンド・チャンドラーのそれらが挙げられる。 


2 結末などない 

 あるインタヴュウでの聞き手・ジョン・レイがカフカの『城』(1926年)、『審判』(1925年)をして「どちらの作品も未解決のまま終わっている」、つまり「結末はもともとないということを意味している」と述べた上で次のように質問する。 

あなたの小説は――とりわけ比較的最近の作品である『ねじまき鳥クロニクル』は――読者が一般的に期待しているような「結末」を拒絶しているような印象があります。(ジョン・レイの発言・本書・p.211) 

 これに対して村上はチャンドラーの名前を挙げ、「彼の作品では、誰が犯人であるかというのは大きな問題ではない。(中略) 結末というのは僕の興味をそれほど強くは惹かないのです。『カラマーゾフの兄弟』*の中で誰が殺人犯であろうが、「僕の知ったことではない」のです。」(本書・p.p.211-212)と述べる。 

*1880年。 

 これも村上の小説作法上での方法論を頭に入れれば得心のいく発言となろう。 

  
3 不完全性による完全性 

 このことは、小説、あるいは文学作品、芸術作品にとっての完成形とは、あるいは完全体とは一体何なのかという問題と通底する。 

 最近作『騎士団長殺し』(全2巻・2017年・新潮社)は肖像画家が主人公であるが、ある男の肖像画が一見未完成であるのに関わらず「完成している」、と見なすところがある。これは必要な要件が揃っていれば形式的な不備は特に問題ではない、ということなのか。 
 この問題について、本書で幾つかの例が挙げられている。 
 一つはブライアン・ウィルソンの『スマイル』あるいは『ペット・サウンズ』というアルバム。村上はこれを挙げて「全体像が僕なりに正確に理解できるまでに、結局四十年くらいかかっている」という。それと比較されるのがザ・ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハート・クラブ・バンド』で、それは「六〇年代の時点でしっかりと美しく完結していまってい」る。ところが「ブライアンの音楽の中には、空白と謎がなおも潜んでいるから」四十年経っても何度も聞き返す必要があるとしている(本書・p.313) 
 同様に、フランツ・シューベルトの長大なピアノソナタも謎が多く含まれる例として挙げられている。 
 そして、自身が翻訳したスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』(1925年)が挙げられる。彼はこう述べる。 

訳しはじめる前は、これは完璧な小説だと思っていたんです。でも一行一行じっくりと見ていくと、この本の魔法の力は、その不完全さにあるのだと思うようになりました。前後の脈絡のずれた長いセンテンス、設定のある種の過剰さ、登場人物のふるまいに時おり見られる一貫性の欠如。この小説が持っている美しさは、そういうもろもろの不完全さの積み重ねに支えられているんです。あえて言えば、そこにあるのは、不完全であることによってのみ表現しうる、特別な種類の美しさだと言えるかもしれない。(本書・p.390) 

 無論、その不完全性に支えられた完全性とは作家自身がもとより企図したものではない。作家自身は完全であろうとする、しかしそこには作家自身は意識できない広漠たる曠野が広がっているのだろう。 
 我々読者は作品の些末な部分の帳尻合わせをするのではなくその作品全体をそのものとして味わうべきなのだ。 


4 意図せざる奇妙な符合 

 ただ、ここからはいささか話が逸れるが、それにも関わらず、つまり作家自身が意図しないにも関わらず、奇妙な論理的符合・解釈が成立することがある。 
 ドストエフスキーは借金取りと締め切りに追われ、その作品を次々と推敲する間もなく書きなぐった、したがって様々な論理的不具合があると長年言われてきたが、ロシア文学者・江川卓の一連の研究*によって、必ずしもそうではなく、相当入念な構想で書かれていることが分かっている。無論、ドストエフスキーは意図せずにそれをしているのである。 

*江川卓『謎とき『罪と罰』』(1986年)、『謎とき『白痴』』(1994年)、『謎とき『カラマーゾフの兄弟』』(1991年)、いずれも新潮選書。 

 村上についても同様のことが言える。評論家・加藤典洋らの一連の共同研究*がそのことを明らかにしている。 

*加藤典洋編『イエローページ――村上春樹』全2巻・1996年ー2004年・荒地出版社。 

 無意味な、些末な事柄を捉えた言葉遊びのような「謎解き」はいかがなものかとは思うが、作品の内的主題に向けて錘を垂らす批評は(少なくとも読者にとっては)必要だと思う。 


 5 「眠り」と『アフターダーク』 

 最後に、さらに話が逸れるが、本書の題名『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』について簡単に触れておきたい。 
 この夢と現実の「反転」(?  反転なのか?)は大変興味深い。村上の全作品について、この問題を広げて論ずることは可能だと思うが、一旦ここでは「眠り」(『文學界』1989年1月号)という短篇小説と中篇小説*『アフターダーク』(2004年・講談社)について簡単に触れるに留める。 

*村上自身の感覚では2巻本以上の長さを持つものが長篇小説で1巻ものは中篇らしい。長篇と中篇は、単に長さの問題ではなく作品の成り立ちが全く違うらしい(川上未映子・村上春樹『みみずくは黄昏に飛びたつ』2017年・新潮社)。 

 「眠り」は眠れなくなった、というよりも全く眠らなくても何も問題が生じない、むしろ以前よりも活力が満ちてくる女性の話だ。雑誌初出時に手にとって以来、個人的には大変重要な作品だと思ってきたが、その魅力を十全に語ることができなかった*。 

*何故か、初出誌『文學界』1989年1月号も、収録されている『TVピープル』の単行本(1990年・文藝春秋)も文庫本も震災の折りに散逸してしまったので、「眠り」からの引用は短篇選集『象の消滅』(2005年・新潮社)による 

  妙な言い方になるが、この作品からは眠りを取り払った後の人間の、ある種の可能性の拡張のようなものを感じることができる。 
 主人公はこう述懐する。 

私は人生を拡大しているのだ*、と思った。(中略) そう、それはまさに拡大された人生なのだ。私は人生を三分の一だけ拡大しているのだ。(『象の消滅』p.144) 

*「私は人生を拡大しているのだ」に傍点。 


 カナダのイギリス文学者にして、マス・メディア、マス・コミュニケイションの理論家であるマーシャル・マクルーハンの『メディア論』(1964年/1987年・みすず書房)は副題に「人間拡張の原理」を持つが、あたかも、グーテンベルクによって開発された活字というメディアが人間の可能性を拡張したように(マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』1962年/1986年・みすず書房)、これと同種のこと、すなわち人間の次元が一新された、あるいは段階がワンランク・アップしたような印象を受け、正直瞠目したのだ。 
 しかしながら、最後の下りで停車中の主人公が何者かによって車を揺すられ恐怖を感じるというのは頂けない。これは、本来は長篇小説の萌芽を含むポテンシャルに富んだ作品なのだが、この枚数では適当な結末が付けられず、やむをえず、物語を遮断したのだ、とわたしは今の今までずっとそう思っていた。 
 この考えが決して間違っているという訳ではないが、たった今考えが変わった。 
 なぜ、この物語は「覚醒」とか「目覚め」ではなく「眠り」という題名なのか。 
 当然である。主人公は「眠り」に就いているからだ。主人公は起きていないのだ。しっかり眠っているのだ。だから「眠り」という題名なのだ。そして、いま彼女は、まざまざと現実と見紛う「夢」を見ているのだ。 
 だから、ラストで何者かに揺り動かされたのは、あるいは車体ではなく、彼女自身の身体が外部から揺り動かされていたのだ。無論、覚醒を促すために。と、考えれば、この唐突とも言えるラストも納得できる。 
 あるいは、実のところ彼女は単に眠っているわけではなく、何らかの事情で昏睡状態に陥っているのかもしれない。冒頭で「眠れなくなってもう十七日目となる」*とあるが、少なくともこれ以上の日数彼女は眠り続けたままなのではないか。 

*『象の消滅』p.114。 

 これと一見対置されるのが『アフターダーク』の主人公・浅井マリの姉・浅井エリである。エリは2ヶ月前から原因不明の昏睡状態に陥っている。客観的に言えば、その状態は現実的に、意味のある形で「生きている」とは言い難い。むしろ「死」の世界に近接しているといってもよい。実際問題、この作品のなかではエリの内部は全く明らかにされない。もし、このまま何も生じなかったらエリは死を待つしかないのだ。 
 しかし、仮に、このエリが入り込んでいる眠りの世界が「眠り」の主人公が経験している「覚醒」状態だとすれば、それはそれで人間の拡張ではないだろうか。もっと言えば『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年・新潮社)の異世界である「世界の終り」の世界と同値の世界に生きているのであればそれはそれでよしとしなければならない、と思わせる。 
 つまり、村上が経験している白昼夢のような小説執筆経験そのものがそのことを裏書きしているのではないだろうか。 
 あるいは、村上は小説を書くことで人生を、人間を拡張しているのだと言えないだろうか*。 

*「眠り」と『アフターダーク』に関しては詳細を別稿で触れる予定である。 



🐥 
2018年6月5日ー6月7日11:34 
  
⏩村上春樹著作一覧 

⏩「村上春樹試論」(いずれも未定稿) 
 Ⅰ 文学的急カーヴをいかにして曲がるか 
 Ⅱ 街と、その確かな壁 
 Ⅲ 失語症を強いるもの 
 Ⅳ 精読『騎士団長殺し』 
 Ⅴ 「眠り」考 


【ノート】 
・結末の有無の問題 p.211 
・目覚めながら夢を見る p.212 
・顔のない男 『アフターダーク』 p.294 
・シェーンベルク 音楽は楽譜を読むものであって実際の音は邪魔 p.299 
・理解するのに時間がかかる、成熟に時間がかかる シューベルトのピアノソナタ p.314 
・『ギャツビー』不完全さ 不完全さの積み重ね p.390 
・「失われた10年」(フィッツジェラルドの短篇) p.391 


*ウィルソンの『スマイル』というアルバムの成立はいささか複雑である。言うまでもなくブライアン・ウィルソンはビーチ・ボーイズの中心メンバーだった。 




これは参考になった。あとで感想を書く。 

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