⊆ 三 浦 雅 士 を 読 む ⊇
数多の漱石論のなかでも出色の夏目漱石論
改訂版
三浦雅士『漱石――母に愛されなかった子』
■三浦雅士『漱石――母に愛されなかった子』2008年4月22日・岩波新書。
■長篇評論(近代日本文学)。
■2017年10月6日読了。
■採点 ★★★★☆
一見軽く流して書かれているように見えて、相当高密度な主題と方法論を持つこの長篇文芸評論は、不幸なことにその名をあまり多くの読者に知られることもなく、もしかするとその生を終えようとしているのかもしれない。
しかしながら、本書は三浦雅士のその批評歴のなかでも、或いは、極端な言い方をすれば百人の批評家がいれば百通りものの数だけ書き継がれてきた数多の漱石論*のなかでも出色の夏目漱石論だと言える。
*日本を代表する近代以降の批評家は小林秀雄を除いて、そのほとんど※が漱石を論じている。小林がなぜ漱石を論じなかったのかは大変重要な問題である。
※江藤淳『夏目漱石』(1956年・東京ライフ社/『決定版』1974年・新潮社)・『漱石とその時代』全5巻(1970年~1999年・新潮選書)・『漱石とアーサー王傳説』(1975年・東京大学出版会)・『漱石論集』(1992年・新潮社)、吉本隆明『夏目漱石を読む』(2002年・筑摩書房)・『漱石の巨きな旅』(2004年・NHK出版)、柄谷行人『漱石論集成』(1992年・第三文明社/『増補』2001年・平凡社ライブラリー/『新版』2017年・岩波現代文庫)、蓮實重彦『夏目漱石論』(1978年・青土社)という具合に嚇亦たるメンバーである。
漱石の文壇デヴュウ作は無論『吾輩は猫である』(1905年)だが、本書は、作品の履歴を辿って漱石の主題と方法の深化を追跡する構えになっているにも関わらず、その第二作『坊つちやん』(1906年)から書き始められている。なんとなれば、この『坊つちやん』こそ、本書の主題を象徴するものはないからだ。それは「母に愛されなかった子として漱石の全作品を捉え直す」ということの宣言に他ならない。
確かに『坊つちやん』を読んだことがあるものは、そう言われてみれば確かに主人公「坊っちゃん」は母に愛さていなかったと一旦は首肯するだろうが、果たしてこれが漱石の全人生、全作品をも語り得るものだろうか、と首を傾げるだろう。
しかしながら、三浦は、漱石が嫌ったという探偵よろしく執拗なまでに作品とその生涯の細部を読み込み、我々の予想を覆す。
例えば、『吾輩は猫である』の「猫」だ。確かに『猫』の冒頭を読めば彼が捨て猫であることは間違いない。だが、三浦は、実はこの猫は殺されそうだったのだという。そう考えるといささか様相が異なってくる。
猫は笹原の中に捨てられたわけであるが、ほんとうは書生はその向こうの池に放り投げたかったのではないか、と疑われるわけである。つまり、猫は九死に一生を得たのである。(本書・26ページ)
原文はこうである。「漸くの思ひで笹原を這ひ出すと向ふに大きな池がある。」*とこれだけである。いささか三浦の解釈には無理があるようにも思うが、少なくとも「猫」を捨てた書生はその猫が死のうが生きようがどうでもよいという心算だったのであろう。
*夏目漱石『吾輩は猫である』/『漱石全集』第一卷・1965年・岩波書店・6ページ。
なぜ、それが問題なのか。
無論、漱石自身が養子にやられ養家の店先に笊ざるに入れられて放置されていたという話を漱石自身が子供時代に聞いているからである。漱石自身は母に捨てられたと強く思い込んでいただろう。だからこそ、この九死に一生を得た捨て猫に漱石は感情移入しているのだ。
話が逸れるかも知れぬが、村上龍が松任谷由実との対談で、親に愛されなかった人とは友達になれない、という内容のことを言って、松任谷由実も確か、そうそうと賛成していて鼻白んだことを覚えている*。
*村上龍『世界をボクらの遊び場に』1991年・講談社。この本だ、ということは確かなのだが、あの震災以来多くの書物が崩れ落ちて散逸してしまい、残念ながら確認できない。ちなみにこの二人を批判する意図は全くない。
それを読んで思ったことは大変極端な言い方になるが、この世界に生きる人々はこの「親に愛されたか、どうか」で二分されてしまうのではないだろうか、ということだ。この世のありとあらゆる不寛容、確執、不調和、対立の根源はここにあるのではないだろうか。この二種の人類は、あたかも別種の人類が存在するかのように、永久に和解不可能なのではないか、とすら思えてくる。
先に『坊つちやん』こそが「母に愛されなかった子」という主題を象徴している、と述べたが、そもそもこの題名からして異様である。誰が「坊っちゃん」と呼ぶのか。それは清*という下女である。清の坊っちゃんに対する愛情の掛け方はいささか常軌を逸している。理由の如何を問わず、とにかく誉める。一個の人格として認めてくれる。
*言うまでもなく遺作となった『明暗』の蔭のヒロインは清子である。ただし性格は清とはまるで異なるが、これにも意味があると思う。
これが母に愛されなかった子にとってどれ程大切なことだろうか。
子供は少なくとも三、四歳くらいまでは清のような愛、愛することだけを目的とするような無私の愛を必要とするものです。あなたがいるということは、いるというそのことだけで十分にいいことなのだと、言い含めるような愛情をぜひとも必要とする。そうでなければ、子供は、自分はここにいないほうがいいのではないかと感じてしまう。(本書・5ページ)*
*ここで述べられていることは、あるいは晩年の吉本隆明が展開しようとしていた「存在倫理」※と強く反響すると思われる。残念ながら吉本はこの主題を展開することは叶わなかったが、先に述べた不寛容 intolerance の問題を解く、あるいは考える鍵がここにあると考える。
※吉本隆明・加藤典洋「存在倫理について」/『群像』2002年1月号。
幼少期にこのような傷を受けた漱石は十代の半ばと三十代の半ばに重大な危機を迎える。三十代の半ばというのは「夏目狂セリ」*とつとに知られるところのロンドン留学期の危機であるが、それと相似形をなすのが、あまり知られていない十代の危機である。
*全くの余談だがこの「夏目狂セリ」の出典はどこなのだろうか。江藤淳の『漱石とその時代』第二部(1970年・新潮選書・199ページ)には岡倉由三郎が文部省にその旨電報を打ったとなっているが、ことの真相や如何。
三浦は複数の漱石自身の談話、漢文及び『文學論』の序文*を読み解くことで漱石が登校拒否に陥り、一年半もの間、言うなれば「引きこもり」の状態に陥っていたと推測する。恐らくかれは「やみくもな不安にかられていた」**のだろう。漱石はそこから脱するために徹底的に漢詩文の世界に埋没する。生涯の二度に渡る危機を一旦は脱しはしたが、そこから始まる漱石の全ての作品はその「やむくもな不安」がどこからくるのかを徹底的に掘り下げていく過程だったということになる。
*漱石「落第」(1906年)・「一貫したる不勉強」(1909年)/いずれも『漱石全集』第二十五巻・1996年・岩波書店・「木屑録ぼくせつろく」(1889年/『漱石全集』第十八巻・1995年・岩波書店)・「序」/『文学論』1907年/『漱石全集』第十四巻・1995年・岩波書店)
**本書・71ページ。
以下、漱石の作品を一つひとつ丁寧に辿りながら、緊密な論述で自己、他者、言語、孤独、自己承認の問題が述べられていく。
そして、そのなかで三浦はかつて自らが書き綴ってきた主題と再会することになる。「私という現象」、「鏡」のモチーフ、そして「自分が死ぬということ」。そしてさらには未だ書かれざる自身のテーマをも語り始める。「孤独の発明」である*。
*これらは、いずれも三浦自身の過去の論著の書題である。書題がその主題を明示、暗示していることは言うまでもない。順に、デヴュウ作『私という現象――同時代を読む』(1981年・冬樹社)、80年代のニューアカデミズム・ムーヴメントを準備したとされる雑誌『ユリイカ』及び『現代思想』の伝説の編集後記集『夢の明るい鏡』(1984年・冬樹社)、書評集『自分が死ぬということ』(1985年・筑摩書房)、そして長期連載が完結して刊行の待たれる「孤独の発明」である。
新書という枠があったからかもしれぬが、本書は異様な文体と方法論で書かれている。
章を跨いで前章の記述が続いているかと思っているうちに、いつの間にか新章の内容に入っていくのはまだしも、散文詩を思わせるような従来の自身の文体を一旦捨ててまで、敬体と常体を異様なまでに混在させて書いている。慣れるまでは大変読みづらいことこのうえない。
さらには引用文を地の文に流し込むという、まさに前代未聞の手法が使われている。
これらについて三浦は「短い紙数のなかで、とにかくこれだけは伝えたいという、その目的のためにはやむをえない方法でした。ぜんぶ、話しかけるように書かなければならなかったのです」*と述べている。
*本書247ページ。
それが成功しているかどうかは、わたしにはにわかには判断できない。しかしながら一読すると講演や講義の聞き書きに近いのかとも思った。
しばしば漱石を語るとして文明史の問題と結びつけて晦渋な文体で語ったり、読者を煙に巻く内容であったり、あるいは現代思想の枠のなかで語れれたり、という具合に漱石の生涯や作品そのものに則して語られることが少なかったと思う。それは無論漱石自身が内包する主題が誘発したものに他ならないかもしれぬ。
しかしながら、三浦のこの『漱石』論はそれらとはいささか異なる。面目を一新したと言ってもいいぐらいだ。小冊ながらも、長きにわたるこれらの漱石論の1ページに確かな、まさに根源からの足跡を残したと言えよう。
最後に、本書がより多くの読者の手に取られることを今更ながら心より希む。
【附記】
さて、本書に学び、ここからさらに派生的に考えねばならぬことがいくつかある。
①「三浦雅士試論Ⅲ」
そもそも本書は三浦の大著『出生の秘密』*からのいわゆるスピンオフに当たる作品である。当然のことながら、これはその前著『青春の終焉』**を引き次いでいる。さらにはこれらの後継作となる「孤独の発明」の『群像』誌上の長きに渡る連載***が終了し、今まさに刊行が待たれるところである。
*三浦雅士『出生の秘密』2005年8月・講談社。
**三浦雅士『青春の終焉』2001年9月・講談社。
***三浦雅士「孤独の発明」/『群像』2010年1月号~2011年6月号。「孤独の発明 最終章 言語の政治学」/『群像』2016年7月号~2017年8月号・講談社。
したがって本書は本来であれば『青春の終焉』→『出生の秘密』→『孤独の発明』というこの一連の流れのなかで、さらに再度論じなければならない。わたしはかつて三浦については二度論じたことがある*。これらの三部作を通じて三度三浦雅士について論じたいという誘惑を振り払うことがわたしにはできない。
*「人間の方へ――三浦雅士試論Ⅰ」/『鳥』vol.1-2・1993年5月1日。「生命の方へ――三浦雅士試論Ⅱ」/『鳥』vol.3-1・1995年1月号・鳥の事務所。
②「「坊っちゃん」の系譜学」
漱石以降*の日本の近代小説の男性主人公のほとんどは『坊つちやん』の主人公と同様な性格、というか存在性というべきか、それらを保有している。一言で言ってしまえば「坊っちゃん」なのだ。藤村の主人公たち然り、志賀直哉『暗夜行路』時任謙作然り、川端、太宰、大江、村上春樹と続く彼らの小説の登場人物たちのそのほとんどが漱石の坊っちゃんの末裔なのだと言える。日本の近代小説における、この「坊っちゃん性」とは一体何を意味するのか。これは論究に値するテーマだと考える**。
*あるいは、それ以前もそうかもしれない。
**このテーマも30年ほど前に思い付いていたが全く何も進んでいない。
③「漱石論とは何か」
日本の近代批評において漱石論は避けて通れない巨大な石*、あたかも入学試験、入社試験のような存在である。多くの批評家が漱石を論じて止むことを知らない。これは一体何故なのか。
*試金石であり、躓きの石である。
そしてその唯一の例外とでもいう存在が、日本における近代批評の祖とでも言うべき小林秀雄である。小林と漱石の主題の近接性は言うまでもないところだが*、なぜ小林は漱石をあたかも禁断の書のように論じることをしなかったのか。
*三浦は小林が漱石から圧倒的な影響を受けている、と述べている※。
※本書54ページ。
この「見えない小林」、或いは「不在の小林」という空白点を論ずることこそ、この「メタ漱石論」の本当のテーマである。つまりは「近代日本の批評」*の歴史を漱石と小林を基軸にして読み替えるということである。
*かつて三浦たちは柄谷行人の主導のもと同タイトルの一連の共同討議を行っている※。
※柄谷行人編・浅田彰・野口武彦・蓮實重彦・三浦雅士『近代日本の批評』全3巻・1990年~1992年・福武書店/1997年~1998年・講談社文芸文庫。
【改訂版への附記】
書評としてはこの長さは長過ぎる。しかし、まだ十分にこの作品を論じきったとは言えない。幾つかの論点、それは三浦自身の批評そのものに関わるものだが、それらと十分な構えで対峙していない。
【附記】にも記したが、それを行うことは書評の域を越えて三浦雅士論へと発展してしまうものだ。
しかし、三浦雅士を論ずるときはいつもそうなるのだ。かつて書いた「三浦雅士試論Ⅰ」も「三浦雅士試論Ⅱ」もいずれも、そもそもは単なる書評として書かれたものだった。
三浦の論点を追いかけているといつも根源的な場所へと案内されるからだ。
装備を点検し、入念な準備のもと、いまだ書かれざる「三浦雅士試論Ⅲ」の方へと歩みを進めていきたい。
自らの参照元として初稿をネット上に残すことをお恕し頂きたい。
20171007 01:01ー20171009 01:33
改訂版 20171010 23:38
🐔
『坊っちゃん』から書き始める意味
母の愛情 清 存在倫理 p.5
愛は証明できない p。40
母の視点 自分が他者になること ゲームp。44
小林秀雄 p。54
言語習得と他人になること p。108
漱石作品 飲食場面の重要性 p。111
僻み根性 p。158
0 件のコメント:
コメントを投稿