夢で遇いましょう
同窓会
30数年ぶりに読書会を再開することになった。
かつてわたしたちは同じ大学の同じ寮の同じ部屋だった人々を中心に、訳のわからないことを考えるのが好きなひとびとが集まっては、哲学や文学や社会科学の古典を題材にああでもないこうでもないと延々と話し続けたのだった。これを読書会といっていた。大学を卒業してもしばらくは続いていたが、定職に就いたり、結婚したり、あるいは住居が遠く離れたりして、なんとはなく雲散霧消してしまっていた。
偶然その中心メンバーのK**とH**と再会した。それではと読書会を再開することになり、打ち合わせを兼ねて一緒に飯を食っていた。
食い終ってその場で話をすればよいものを、なぜか昔の習性もあってか、近場の喫茶店に移動する。題材の本を決める前に、どういう脈略なのかもう忘れてしまったが、 「言葉」と「表現」あるいは「記号」というのはどう違うのか、という話をしている。それは結局のところ、実践が大切なのだ、やらせてみなければ分からない、という話になっている。
すると今の会社の女子社員たちがぞろぞろと入ってくる。今日は同窓会があるので、やはり彼女たちも打ち合わせのために来ているのだ。場所は横浜アリーナで行われるという。偶然の一致だ。どういうことだろうか? ということは我々三人は同窓会だから会うことになったのか。それは変だ。というのは、わたしは同窓会の類いが死ぬほど嫌いで断固、鉄の意志で今まで参加したことがなかった。というよりも卒業以来住所変更を届けていないので、案内ひとつ来ない。
いずれにしても、同窓会が行われるということは、今日はは日曜日ということではないか?
この夏の前まで、自分の会社で実施していた日曜日の比較的大きなイベントをわたしが取り仕切っていたが、この秋から自分から辞めたのだ。
しかし、少し気になって見てくることにする。
すると、すぐその場で行われているではないか?
どうですか? と担当者に聞くと閑散としているという。どうもそのようだ。古ぼけた建物の中を一周する。電灯の着いていない薄暗い回廊を歩いていくと、使われていない部屋が確かに多い。
いつの間にか自分の大学の廊下を歩いていることに気づく。あれほど自分の大学には近づかないようにしていたのに。とぼとぼと歩いていくと体育館に入る。ということは、これは建て替え中の国立競技場であるところの体育館でもあるのだ。その中を右往左往する。学生たちは立て看やら模造紙などに、なにやら書き付けて準備の真っ最中である。
そこに、イベントの報告書が私のところに回ってくる。なんだよ、と思いつつ書き始めるが実情を把握していないので書けるわけがない。すぐ前にいたF**君にも振る。しかし書ける訳がないことに二人で気づく。
やむ無く先ほどの現場に戻り、責任者のS**さんにパスする。よく見るとそこにいる人の多くは会社を辞めた人か、あるいは死んだ人ではないか?
喫茶店に戻るともう誰一人としていない。
同窓会はもう既に始まっていることだろう。
同窓会
夢で遇いましょう
20170913 10:57ー20170914 02:05
🐔
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