夢で遇いましょう
夢で遇いましょう考
「夢で遇いましょう」とはどういうことか。
すなわち、現実には遇いがたい、生きてはいるが何らかな事情で遇うのが困難な人々、あるいは架空の、想像上の人々、そして、無論のことながら死者たち(the dead)と、夢の中でなら遇えるという意味である。
当然のことながら、そのような人々とは覚醒時の空想やら回想でも遇える。無論、そうなのだが、ここでのポイントは巧まずして、つまり自らの意志のもとに、ではなく、まさに「偶然」「遭遇」するという事態なのである。
では、なぜ、「偶然」 に意味があるのだろうか?
これは難問だ。
詳細は、書く、書くと言って、一向に書かない「偶然性の倫理学」を参照して欲しいが、書かれてもいないものをどうやって参照しろというのか。
本稿「夢で遭いましょう」は旧称を「夢判断」といって、わたしの単なる夢日記である。
以前は、といっても30年ほど前のことだが、自らが見た夢を元に人為的な小説的な装飾を加えて10数本書いてみたが、こりゃ何だか意味ないな、と思ったかどうか、もう覚えていないが、何時の間にか止めてしまった。
とは言うものの、自分の見る夢があまりにも荒唐無稽で面白い*ので、専ら自らのためだけに記録として残しておこうと思い、日本語として意味の通じる範囲での修正は施して、何篇か書き起こした次第である。
*他人の夢の話を聞かされることほどつまらないことはないとはよく言うことだが、そうでもない気がする。例えば筒井康隆の幾つかの作品は恐らく夢が母体となったであろうと推測されるものがあるが、極めて面白い。例えば温泉が流れるトンネルを美女とともに経巡る「エロチック街道」※や、断筆解除後に発表された「邪眼鳥」※※や「RPG試案――夫婦遍歴」※※などは筒井の最も優れた作品の一角を占める。いずれも根本のイメージは夢から来ていると考えられる。
※筒井康隆『エロチック街道』1981年10月・新潮社。
※※筒井康隆『邪眼鳥』1997年9月・新潮社。
もともと「夢判断」というフロイトのパクリの題名は気に入っていなかった。
無論「夢であいましょう」も往年のTV番組のパクリだが、こちらの方が私の考える夢のイメージに叶っている。
夢で遇いましょう考
夢で遇いましょう
20170913 11:29ー20170914 00:49
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