美味と倫理のはざまで
自 跋
▲これはT**市、N**の図書館の中の喫茶店のカレーです。まーまーかな。インドカレーということだが、余り辛くはなかった。
本来であれば、寸暇を惜しんで、悪の問題や偶然性の問題の予備調査及び考察に励まねばならぬのだが、なかなかそう簡単にはいかぬ。まー人間の為せる業である。それでも可能な限りは日々執筆を怠らぬのであるから、我ながら立派なものであると、一旦は言っておこう。
ところで、そのような悪の問題とかのややこしいことなどを考えていると、焼き鳥はなぜ美味いのかとか、ビールってなぜあんなに美味いのかとか、非常に下らないことを考えてしまう。ではいっそのこと筆の赴くまま短文にしてしまおうというのが、本稿の目先のきっかけではある。
晩年に近づいた吉本隆明さんはどういうわけか、食に関するエッセイや聞き書きを何冊か遺した*。遺著、と言っても死後、雨後の竹の子のように数多の著書が刊行されている今となっては何が遺著なのかは判断がつかないが、死の直後に刊行された『開店休業』*をそれとするなら、これも食に関するエッセイで、死の直前まで連載を続けていたのだから、遺著と呼んで差し支えないだろう。
*吉本隆明『食べものの話』1997年・光芒社。吉本隆明『食べもの探訪記』2001年・光芒社。吉本隆明・宇田川悟る『吉本隆明「食」を語る』2005年・朝日新聞社。吉本隆明・ハルノ宵子『開店休業』2013年・プレジデント社。
さて、わたしも晩年に近づいたのか、吉本さんの衣鉢を継ぐ訳ではないが、食、というよりも美味と価値判断の問題をぼつぼつと考えていこうと思った次第である。
題名は言うまでもなく気鋭の、というよりも既に大家の閾に及んでいる哲学者・熊野純彦さんのカント論『カント――美と倫理とのはざまで』*のパクリである。二文字違いである。熊野さん、許してください。本当は「美味の倫理学」とすべきなのだが、ちょっとこのシリーズは飽和状態なので、少しずらした。でも考えるこては同じである。考えている人が同じなので。
*熊野純彦『カント――美と倫理とのはざまで』2017年1月20日・講談社。
実はこのテーマこそ構想30年、いやもっと前から考えていたかも知れない。かの『週刊少年ジャンプ』誌にて包丁人味平が包丁試し
をしている時*から考えていた、というのは嘘だが、まー、そのレヴェルである。
*牛次郎原作・ビッグ錠作画『包丁人味平』全23巻・1973年~77年・集英社。
つまり人間にとっての価値、価値判断の根源は食事にあるのではないか、ということである。先行の研究が既にあったら御免なさい。
まずは食事を確実に確保することができる状況が「真」*であり「善」なのである。それが美味ければ、まさにそれこそが「美」の根源なのである。
*「真」を価値の一つに含めることは、実は賛成しかねる。これについては別稿(仮称「価値の倫理学」?)にて詳細に論じる予定である。
このような訳で、個体としての人間が生きるために絶対的に必要なことは睡眠を取ることと食事を摂ることの二つである*。睡眠は正直寝るだけなので、食事を摂ることの中に価値の発生の根源があるのではないかと、30数年前に思い付いたのだが、その後わたしは事実上死体とほぼ同然になったため、いま急いでこのような世迷い言を書き付けている次第である。
*無論、生物として種の保存、すなわち「性」の問題こそが最重視されねばならぬが、性の問題と食の問題は通底していることは民俗学者・赤坂憲雄が近著『性食考』※で明らかにしている通りである。価値というものが社会のなかの関係性の問題であるなら、「価値の倫理学」の理論的定礎のためにはこの問題の考察は避けて通れない。しかし、わたしに残された時間を考えるといささかならず手に余ることは事実だ。しかし、わたしに能力と意志と時間があるなら、この問題は、仮称・「エロの倫理学」※※にて考察してみたい。
※赤坂憲雄『性食考』2017年7月26日・岩波書店。
※※う~ん、なんか、みうらじゅんみたいに下品になってきたな。でもこれは「性の倫理学」でも「愛の倫理学」でも「エロティシズムの倫理学」、或いは「エロスの倫理学」でもない。「エロの倫理学」しかないのだ。でも、書けなさそう……。書いても別サイトだな。
20170919 12:08ー15:21
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