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2017年3月2日木曜日

悪の倫理学・覚え書き  その11 中間報告・中村雄二郎の「悪」論

悪の倫理学・覚え書き  
その11 

中間報告・中村雄二郎の「悪」論 

中村雄二郎氏

 今、この考察でわたしが扱おうとしていることの大半は、ほぼ20代の頃に手を染めていたことである。といっても単なるアイデアでしかなかったのだが。それが、どういう訳かほぼ30年ぶりに再考察を始めることになった 
 20代の頃は、そもそも勉強らしい勉強を全くしていなかった。考えてもいなかった。そして執筆力が皆無だった。全く文章が書けなかった(……ような気がする)。しかしながら、今は執筆力がある、かどうかは分からないが、とりあえず何事かを書いて、ネット上に発表するということは比較的簡単にできる。これはなぜだろうか。不思議だ。 
 理由は様々考えられるが、ひとつは長年生きていると、生きていることに関わる、なんだか訳が分からないことが、山奥のダム湖の湖底に堆積するかのように溜ってくるものだ。どこかのタイミングで浚渫(しゅんせつ)せねば、このダムは決壊するということなのか。 
 もうひとつは携帯電話なりスマートフォンの普及と、それに伴ってクラウドにデータを上げることで携帯端末と他のパーソナル・コンピューターなりタブレット・コンピューターなりとデータを同期できるようになったことだ。つまり携帯で書いた文章を同時的に他のコンピューターで拾って編集できるようになった。このことにより、いつでもどこでも文章が書けるようになったのだ。実際、今も駅のベンチで書いているし、このブログにアップされた文章の大半は電車のなかで、つま通勤の行き帰りのときに書かれたものだ。 
 この二つ目の理由は、少なくともわたしにとってはかなり大きい。実際ものを考えるといっても何もないところから漠然とものを考えることはできない。メモでも何でも、何かを書くことによって考えは進む。我々は書くことで考えるのだ。 


 さて、本題に戻る。といっても、本稿で「中間報告」と題しているもの は覚え書きのさらに覚え書きのようなものだ。つまりはわたしが単に忘れないようにするためのものだ。 

 やはり、30年前、ニューアカデミズム華やかなりしころ様々な論客が現れたが、ニューアカ*用語を適確にまとめ上げ、一躍ベストセラーを出した哲学者に中村雄二郎**がいる。『術語集』(1984年・岩波新書)である。 

*1980年代初頭の浅田彰『構造と力』(1983年・勁草書房)と中沢新一の『チベットのモーツァルト』(1983年・せりか書房)に端を発するニュー・アカデミズム・ムーブメントのこと。ここでは現代哲学用語という意味か。 

**中村雄二郎もやはり同室のHK君が『感性の覚醒』(1975年・岩波書店)とか『哲学の現在』(1977年・岩波新書)などを読んでいて影響された。  
  
 中村は、どちらかというと哲学者というよりも風貌はラーメン屋の親父という感じだが(失礼)、その当時は、浅田彰の『構造と力』か中村の『術語集』か、というぐらいこの両書は何度も読み返し、大学の試験やレポートなどに頻繁に使って教授らを煙に巻いたものだ。とりわけ『術語集』は辞典のようにも使え重宝したものだ。 
 全くどうでもよいことだが、引用符に《 》(二重ヤマカッコ)を使うのも中村から学んで、つい最近まで無批判に使用していた。本稿に至ってついに使用を避けるようになったのは理由があるのだが、それにしても、一体どこの誰がこんなことを始めたのであろうか*?  

*今ネットで調べたが不明。 
  
 さて、昨日、超久し振りに古書店に行った*。本当は田中未知太郎の『プラトン』のⅡ~Ⅳ巻か、熊野純彦の何種類かの西洋哲学史のうちの一冊でも手に入ればと思ったのだが、何もなかった。 

*かつてはbookoff巡りが趣味のようなものだったが、ある時、これ以上読みもしない本を買い集めても仕方がないということにはたと気づいた、ということもあるが、ある時、極限の貧困に陥り、これはとにかくあるものを読んで、書くしかないな、と思ったのである。それから古書店の類いに行かなくなった。 

 そこで、偶然手に取ったのが中村雄二郎の『問題群』(1988年・岩波新書)と『術語集Ⅱ』(1997年・岩波新書)の二冊である。いずれもかつて読んだはずだし、家のどこかにあるはずだ*。しかし全く記憶にない。 


『問題群』



『術語集Ⅱ』



*というのは、わたしの部屋は例の震災の折りに本が崩れ落ち、修復不可能な状態でそのまま放置してある。昨年の夏、やっとのことで机に座れる状態にするのと、そこまでの動線を確保した(と云っても大きく跨がなければならないが)。 

 この二著はいずれも「悪」という項目を立てて、この問題を論じているが、主旨はほぼ同じである。要するに西洋において悪は存在の欠如体と見なされていて、まともに考察の対象にはなってこなかった。そのなかでスピノザのみが悪に対する考察を深めている。中村の要約を借りれば「悪とは関係の解体である」ということになる。そこからさらに悪の持つ活力についても言及されている。 
 いずれも枚数も短く*、ほとんどメモ程度のものだから、簡単には評価できない。そもそも、中村には『悪の哲学ノート』(1994年・岩波書店)という単著もある。それを読まずしてどうこう言えないが、今回分かったことは、中村も言うように「悪」の問題を真正面からとらえた哲学者や思想家はほとんどいない、ということと、悪の持つ活力が人間の欲望に支えられている、とすると、より自然に近いところから人は悪のエネルギーをくみあげているのだ。この欲望の問題こそが悪の問題の急所ではないかとも思うのだ。 

*いずれも新書版で、前者が13ページ、後者が5ページ。 

 中村は前者ではマルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』に、また後者では日本中世史に登場する「悪党」に言及し、この問題の奥深さと射程の広さを示している。 
 いずれにしても、この悪の問題を正確に、殺さずに捕らえるにはかなり大がかりな仕掛けが必要だというわけだ。 




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