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2016年11月8日火曜日

「死者をもつ 」という経験

 ↗加藤典洋を読む↗  

「死者をもつ」という経験  



加藤典洋『言葉の降る日』 



■加藤典洋『言葉の降る日』2016年10月25日・岩波書店。 
■短篇評論集(文学・思想)。 
■2016年11月8日読了。 
■採点  ★★★★☆ 


 8月から10月にかけて三ヶ月連続で岩波書店から刊行された最後の一冊。したがって、これらは一体のものとして論じなければならないかもしれぬが、一旦はこれのみ。 

 一言で云うなら「死者をもつ」という経験*に関わる文章を集めたものだ。 

*本書 p.3 
  
 2011年の震災のあと、2012年に吉本隆明を、2014年に鷲尾賢也を、そして2015年には鶴見俊輔を、というように次々と筆者は近しい人々を亡くしている。本文ではこれらの人々について触れられている。 
 しかしながら、あとがきにしか書かれていないが、実際には、2014年に筆者はご子息を亡くしている。この「「死者をもつ」という経験」こそが本書の基底部に納められている。 

 総じて、「死者」への敬意が全編に溢れていて、とても優れた批評集になっている。吉本はもとより、鶴見についても大変参考になった。 
 しかしながら、個人的に大変興味深かったのが、太宰の四度目の自死(三度目の心中)未遂を論じた「太宰治、底板にふれる」と、ソクラテスの刑死について論じた「死に臨んで彼が考えたこと」の二編である。 
  
 前者は旧著『太宰と井伏』*を読み直す形で再説されている。 
 この三度目の心中未遂の相手、最初の内縁の妻・小山初代との経験に際して、太宰は人間としての「底板」を《踏み抜かれている》**としている。 

 *加藤典洋『太宰と井伏』2007年・講談社。 
 **本書 p.122 

 正直に云って、太宰の心中関係(女性関係)については暗く、というよりもさほど興味を持ってなかったが、極めて重大な意味を持つということが理解できた。 

 後者については、雑誌*に掲載された折り、目を通していたが、ほとんど記憶に残っていなかった。今回再読をして、筆者にとっても、我々読者にとっても、大変重要な論考の一つだと再認識をした。 

 *『新潮』2016年7月号。 

 ソクラテスが刑死に際して、旧友のクリトンから脱獄を勧められるが、ソクラテスは二つの論点で、それを拒否する。筆者はそこに注目する*。なにゆえに屋上屋を重ねるがごとく論を重ねるのかと。 

 *筆者によるとこの点について論究している専門家はいないらしい(本書 p.277)。 

 筆者はそこから様々、論を展開し、最終的にはソクラテスが「ささえのない」小さなところ、低いところにとどまる人だったと結論づける。 
 筆者はそこに日本の戦後思想(吉本や鶴見)との相似形を見ている。それはそれとして考えねばならぬ問題ではあるが、プラトンなどのギリシャ哲学の再検討をも要求する論点を投げ掛けている。我々は主としてプラトンを通じてしかソクラテスに遡れないが、当然のことながら、プラトンはソクラテスの思想を必ずしも正確には伝えていない、むしろ相反する内容を書物として残しているという事実は銘記せねばならない*。 

*個人的な感想だが、プラトンの『国家』でトラシュマコスという威勢のいいソフィストが途中で消えてしまうことが以前からとても気になっている。 

 いずれにしても、比較的、短篇を集めた批評集だが、水面下の船底に「死」というバラスト(錘)を沈めた、大変重い一冊である。 


「死者をもつ」という経験 p.3 
いったんその「外」や「彼岸」に立った後の明察など、あてにならない p.10 
「死者らしい寛大さ」でものを幾重にも「誤解」することである p.93 
後から来たものが感じる(……)「どこかヘンだ」という感じ p.275 

  

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