🏈大江健三郎――文学の運動🏈
運動の不在
大江健三郎『憂い顔の童子』
■大江健三郎『憂い顔の童子』2002年9月25日・講談社。
■書きおろし長篇小説。
■528頁。
■定価2,000円(税別)。
■2026年3月17日読了。
■採点 ★★☆☆☆。
〈要約〉大江健三郎の『憂い顔の童子』を、「文学の運動」という視点から読み解いた書評。新興宗教に関して、大江の後期作に疑問を抱きつつ、本作に漂う「迷走」と謎を精査する。作中のサミュエル・ベケット由来の「スゥードカップル(偽の二人組)」の概念や、実在の批評家・加藤典洋との文学的応酬を分析するが、本作には小説内の時間とともに何かが変わる「文学の運動」が不在であると指摘。晩年の残り4作の読解へ課題を残す。
[Summary]
A book review that interprets Kenzaburo Oe’s The
Melancholy-Faced Child (Ureigao no Dōji) from the perspective of
"literary movement." While harboring doubts regarding the treatment
of new religious movements in Oe’s later works, this review scrutinizes the
"straying" and mysteries that permeate the novel. It analyzes the
concept of the "pseudo-couple" (derived from Samuel Beckett) within
the work, as well as the literary exchanges with the real-life critic Norihiro
Kato. Ultimately, however, the review points out a distinct absence of
"literary movement"—the sense of transformation that unfolds
alongside the novel's internal timeline—leaving the interpretation of Oe's
remaining four late-period works as a task for future analysis.
*注釈調査協力・挿画:Google Gemini
目次
はじめに――わたしの大江健三郎歴
この春(2026年4月)、大江健三郎の未刊の短篇小説*[1]が発見されて『群像』誌に掲載され、往年のファンたるわたしもご多分に漏れず、すかさず入手して目を通した。それについては別途述べることになるが、――「飼育」*[2]などの初期作品が持つ驚くべき完成度と比べれば、無論、それらに及ぶべくもない。しかしそれはそれとして、つまり、完成されたデビュー作群の前にこのような習作があったのだということは、当たり前といえば当たり前なのだが、大変興味深いものであった。
実のところ、先ほど「往年のファン」と言ったものの、正直に言えば、この前作に当たる『取り替え子』*[3]を読んで「まあ、面白いのでは」と思ったくらいで、その前に発表された『燃え上がる緑の木』三部作*[4]、および『宙返り』*[5]上下巻という、いわゆる新興宗教団体を巡る2作品を読んだ際には、いささかならず首を傾げざるを得なかったのだ。
あまりこういうことは言うべきではないのかも知れないが、わたし自身、かつて或る新興宗教団体に身を置いていて、そこでの様々なトラブルを経て身を引いた、というか、団体の人々からすればそこから「脱落」した人間である。そのような宗教団体がどこでも同じだという気はないが、そうした現場にいた人間からすると、この大江の二作品はいかにも現場を知らない人間の、言ってみれば机上の空論のように思えたのだ。というよりも、そもそも小説として面白いだろうか? 文学作品として果たして価値があるであろうか?
わたしが大江の作品を読み始めたのは大学に入ってからで、多くの先輩たちが「文学と言えば安部公房か大江健三郎か」という具合に眦を上げて、大真面目に激論を交わしている時代であった。二人とも新潮社の看板ブランドである「純文学書きおろし特別作品」に多くの作品を出している二大スターだったのだ*[6]。そもそも、中・高校時代のわたしは吉川英治や司馬遼太郎といった歴史小説を耽読し、ようやく高校生の半ばぐらいで北杜夫を読むようになった程度だった。ちょうど大学を受験した(なんと一発勝負だった。それに落ちたら就職でもいいかと思っていたくらいで、要するに何も考えていなかったのだ(笑))帰りに、大阪の阪急百貨店の階上にある巨大な書店で、北杜夫の未読の小説を満足げに数冊買って帰ったくらいだったから、先輩たちとは全く話が通じないのは当たり前である。
わたしが大学に入学したころは、大江の長篇小説のムーヴは一旦やんでいて、『「雨の木」を聴く女たち』*[7]や『新しい人よ眼ざめよ』*[8]、あるいは『河馬に噛まれる』*[9]といった短編連作のシリーズの時期に入っていた。先輩たちとの論争に負けないようにと、密かに大江の作品を読みだしたものの、今一つ大江の文学を理解できずにいた。しかしそれに引っ張られる形で、過去の大江の作品をぼつぼつと古書店で集めて読み始めたのである。
結果的には、大半の大江作品を読み通すことになり、どうも、素人考えではあるが、大江の文学的達成ということで言えば、中期の作品に当たる『同時代ゲーム』*[10]と『懐かしい年への手紙』*[11]こそがそれにあたると確信するに至った。
ところが、そんな状況下で送り出されたのが先の『燃え上がる緑の木』および『宙返り』であったので、これはどうも、大江は作家としては一旦燃え尽きたのであろうと判断せざるを得なかったわけだ。ま、仕方ない。それも一つの人生のあり方であろう、と。
さて、結局のところ『取り替え子』を読んで「まー、面白いかな」と思ったものの、その後の本作『憂い顔
の童子』は新刊刊行時に入手こそしたものの何となく気が進まず、そのままにしておいた。少し間をおいて少年少女向けの『二百年の子供』*[12]は読んだものの、やはり今一つ、興が乗らなかった。
以上のような次第で、『同時代ゲーム』と『懐かしい年への手紙』がなぜ面白いのか、なぜ文学的な価値があると言えるのかを小文でもいいので書きたいと長年思ってきたわけで、今回、大江の未刊の作品が発掘されたことは、ちょうどいいタイミングではないか。一旦、同時代の目盛りを2002年に戻して、そこから大江の晩年までをたどろうと思った次第である。タイトルは一旦、「大江健三郎――文学の運動」とする。江藤淳に、大江ら戦後日本文学の作家たちの文体を論じた『作家は行動する』*[13]という著作があるが、むしろわたしとしては「行動」ではなくて「運動」ではないか、その意味では「作家は運動する」ということになる。だが、実際に運動するのは小説作品、文学作品そのものであるので、これは止めて、「文学の運動」とするつもりである。
大江には小林秀雄を論じた、というよりも小林の追悼文であるが、「運動のカテゴリー」*[14]という評論がある。それも踏まえて、詳細は別項にて論ずることとする。
1 迷走甚だしい
さて、本題に移ろう。本作『憂い顔の童子』である。 正直に言って、迷走甚だしいと言わざるを得ない。そもそも、中期以降、というより後期の大江の小説は面白いと言えるのだろうか?
この迷走は意図されたものなのか、そうではないのか? 「童子」*[15]を巡って小説を書こうとする小説家、例の如く「長江古義人」が、種々迷走した挙句、最終局面で次回作の着想を得る。簡単に言えばそういうことになるが、その割には、直接繋がらない(と思える)エピソードが多過ぎるし、その割には小説自体も長過ぎるのではないか? 根本は、その長さを担保するだけの小説としての面白さが感じられない、ということに尽きる気がする。要は「運動」がないのではないか?
2 梗概
内容を振り返ってみよう。 「童子」を巡って小説を書こうとしている、例の如く作者自身を思わせる小説家・長江古義人が、やはり例の如く障害を持つ長男「アカリさん」と、その小説家を研究するアメリカ人女性研究者「ローズさん」と共に、故郷の村に移り住む。
「童子」についての小説を書くというが、実際に草稿らしきものを小説家が書いている様子は全くない。「童子」について、あるいは小説家が若き日に、盟友たる、そして今は自殺してしまった映画監督とともに「犯した」とされる或る事件について、女性研究者、あるいは地元の神主や寺の住職たちが、それらを究明しようとする。様々な出来事が「これ見よがしに」語られるが、事態は一向に前に進まない。一体全体、彼らは何をしようとしているのか? 彼らのゴールはどこなのか、普通に読んだ限りの読者にはとんと見当の付けようがない。
やがて小説は過半を過ぎ、黒野という、いわば徴付きの男が現れて、かつて作者自身が参加していた「若い日本の会」*[16]を想起させる「老いたるニホンの会」なるグループを作り、なおかつ地元のホテル・コンツェルンと提携して「シニア向けの滞在型ホテル」の文化事業に巻き込まれ始めて、やっとのことで小説はその重い腰を上げる。豪華な食事、華やかなパーティー、至れり尽くせりのもてなしは、読んでいて面白くはあるが、文学愛好者からすれば、当然のことながら悲劇の予兆を孕んでいることが予想される。世の中、そんな美味い話などあろうはずがないのだ。いや、そもそもその滞在型ホテルは、小説家の父親が戦前・戦中に組織していた右翼組織(しかしながら、戦前・戦中の「右翼」というのは、果たして右翼と言えるのか? 単に世の中の風潮に竿を差した、普通の組織ではないのか?)の跡地に建設されたとされる。何かが起こらないはずはない。
結局のところ、小説家は、笑ってしまうような(失礼!)「些細な理由」で、そのプロジェクトを降りることになる。
最後、その件につき「老いたるニホンの会」のメンバーに一言あっても然るべきとのことで、小説家はホテルに行くことになる。だが、小説家と袂を分かった神主の「策謀」なのか、はたまた偶然なのかは分からないが、或るイベントに巻き込まれる形で意識不明の重傷を負い、この長い小説は終わる。
最終局面で、小説家が模索していた小説は、本作の次回作『二百年の子供』へと結実するかのように読めるのだが、はてさて、本作そのものの文学的価値はどの辺に存在するのであろうか?
例えば『同時代ゲーム』や『懐かしい年への手紙』などの、ある時期までの大江の緊密な構成と文体からすると、いささかならず間延びしているようにも読める。というよりも、総じて無駄が多いとも感じられる。これは一体どういうことなのか?
わたし自身の読解力の至らなさゆえであろうが、まだいくつか謎、というよりも理解できない点がある。これらは、わたし自身が考えねばならぬ宿題帳のようなものである。
3 いくつかの謎(というほどのものでもないが……)
⑴ 題名の謎
題名の『憂い顔の童子』も、その由来がよくわからない。おそらく最終章で意識を失った小説家が夢想する中に登場する「童子」がそれにあたるのであろうが、「憂い顔」とは何か? なぜ童子は「憂い顔」なのか、分からない。童子は何を憂えているのか?
⑵ ドン・キホーテの謎
本作はセルバンテスの長篇小説『ドン・キホーテ』に基づいている、というか、作中、小説家と女性研究者は『ドン・キホーテ』を論じつつ物語は進む。この特定の文学者、あるいは特定の文学作品に則って小説が書かれるのは、中期以降の大江健三郎「あるある」なので問題はないが、本作におけるドン・キホーテにはいかなる意味があったのであろうか? 残念ながら、今『ドン・キホーテ』そのものを参照することが物理的にできないが、『ドン・キホーテ』の構造と本作はいかなる対応をしているのであろうか?
⑶ 登場する女性、ローズさんと千樫、香芽の謎
① ローズさんの謎
まず、小説家自身の研究者でもある、アメリカ人女性ローズさんの行動パターンの意味が分からない。いかに研究対象であろうと、いい年をした男女が一つ屋根の下で暮らすことが、すんなりと本人たちも含めて周囲の人たち、さらには小説家の妻にまで受け入れられているというのが解せない。それを妻は本当に容認したのであろうか? にわかには信じがたい。
というのも、本心かどうかは分からないが、物語の後半で小説家は、彼自身が妻帯者であるにもかかわらずローズさんに求婚して、丁重に断られているのだ。
さらには、ローズさんは村の神主の真木彦さんと懇ろになり、同棲を始め、古義人との同居をやめてしまう。ところがしばらくするうちに、彼らのあけすけな性生活の話が漏れ聞こえてきて、どうもその性生活そのものが真木彦さんとの破局につながったようで、また元の鞘に戻る形で彼女は古義人宅に戻ることになる。ところが、またまたしばらくすると、例の「老いたるニホンの会」の一員である医師・織田*[17]と、どういうわけかローズさんは懇ろとなり、古義人と真木彦が泊まるコテージの背中合わせの部屋の壁越しに、性交時の嬌声を響かせる有様である。その後、そのローズさんはその織田医師と結婚するという。一体、このローズさんという女性の人物設計はいかなる意図によるものだろうか?
② 千樫の謎
先ほども書いた古義人の妻・千樫だが、子供(アカリさん)も一緒とは言え、そもそも若いと言っても30代後半かと思われるアメリカ人女性との同居を、すんなり認めたのはなぜだろうか? すでに夫婦関係が枯れた関係になっている、ということなのか?
彼女はその時、自死した映画監督である兄と付き合っていたとされる若い女性が、ドイツにおいて出産するのを手伝いに赴いているとされる。そもそも、その映画監督が自死した遠因(きっかけ)となったとされているのがこの若い女性との関係だったのだが、その出産する子供は映画監督の子どもではないとされる。それにもかかわらず、わざわざそんなことをするだろうか? この小説ではほとんど登場しない、影のような存在である千樫ではあるが、逆に何かあるのではないかと思わされる。
③ 香芽の謎
香芽は古義人が移り住むことになった、小説家の故郷の町の娘(高校生)である。やはり故郷の町の若者・「動君」と付き合いそうになりながら、どうもそうでもない。なおかつ古義人の性的妄想にも登場する。これにいかなる意味があるのか、にわかには判じ難い。
⑷ 真木彦の謎
真木彦はこの町「真木町」の神社の神主であり、古義人に近づきつつ、必ずしも古義人に完全に心服しているわけでもなく、町の復興に関して何やら策謀を巡らせている。そもそも「真木町」の「真木彦」さんと言うわけだから、明確に徴が付いた人物だ。それにもかかわらず、いや、そうであるがゆえに、これがどうも煮ても焼いても食えない人物である。
ローズさんに、あるいは仄かな思いを寄せていたかもしれない古義人からそのローズさんを奪うことにもなるし、最終的には古義人を文字通り致命的な破局へと導く機縁を作ったのも真木彦である。一体、彼は何をしたかったのか。小説の重要な中心人物である符丁を身につけた彼が、この小説の中でなしたこと、なそうとしたことは一体何だったのか。わたしにはさっぱり分からない。
⑸ 町の人々の冷遇の謎
これは実際にそうなのか、単なるフィクションなのか分からないが、古義人の故郷の町・真木町の人々は、総じて彼(ら)に対して冷遇である。作中、町の中学生たちは「冷遇」などというレヴェルではなく、悪意ある集団的悪戯を仕掛けたり、町の古参の住民からも悪意のある対応を受けたりする。古義人が「国際的な文学賞」(言うまでもなくノーベル文学賞のことだろう)を受賞して以来、町の人たちからすれば、訳の分からない観光客が大勢押し寄せて来る。それは確かに不快であろうが、ここまで悪意が滞留するものだろうか?
また、逆にそのことが分かっていて、あたかも火中の栗を拾わんとするかの如く、なぜ古義人は故郷の町に移り住むことにしたのだろうか。
⑹ 「おかしな二人組」の謎
この作品は、後に前作『取り替え子』と後継作『さようなら、私の本よ』と共に「おかしな二人組(スゥードカップル)」三部作とされる。三作まとめた豪華上製本*[18]も発刊されたくらいだから、相当、作者の思い入れが強いのだと思われるが、この「おかしな二人組」とは、一旦は、義兄である伊丹十三をモデルとするところの塙吾良と、作者自身をモデルとする長江古義人の二人を指すと思われる。しかし実際問題、例えば本作で吾良に言及されるシーンはさほど多くはない。何となれば、第一作『取り替え子』の段階では、すでに吾良は自死してこの世にいない。いや、そもそも『取り替え子』自体が、吾良の死こそがその執筆の機縁であった。が、それにしても、少なくとも本作においてはさほどの登場(回想)シーンはない。
さらには、「おかしな・スゥード」とはどういうことか? 何が「おかしい」のか?
「おかしな二人組」という伝で言えば、大江初期の傑作、やはり親友にして義兄である伊丹十三をモデルとした斎木犀吉を主人公とした『日常生活の冒険』*[19]にこそ、その「おかしさ」が表れているというべきである。戦後日本で書かれた、単に「面白い(あるいは愉快な)青春長篇小説」という括りであれば、この小説は、個人的な好みもあるが、断然トップと言うべきものである。
しかしながら、その「おかしな」斎木犀吉たる塙吾良はもういないのである。単に「おかしい」と言うべきなのか。そこに何か含みがあるのか?
大江健三郎の小説『おかしな二人組(スゥードカップル)』における「スゥードカップル(Pseudo-couple)」という言葉には、文学的な背景と、作品内に込められた象徴的な意味の2つの側面があると思われる。
結論から言うと、これは「偽の二人組」「まがい物のカップル」という意味であり、フランス(アイルランド出身だが)の劇作家サミュエル・ベケットの文学概念に由来していると思われる。詳しくその意味と背景を見てみよう。
① 言葉の語源:「スゥード(Pseudo)」とは?
英語の接頭辞
"pseudo-"(シュード/スゥード) は、「偽りの、にせの、まがいの」*[20]という意味を持っている。これに「カップル(二人組)」が結合した言葉である。となれば、「スゥードカップル(Pseudo-couple)」の訳語として「おかしな二人組」を当てるのは、いささか読者のミスリードを誘うものではないか。
すなわち、比較対象的に示せば以下のようになるだろう。
- リアルなカップル: 本物の夫婦や恋人、あるいは強固な絆で結ばれた二人。
- スゥードカップル: 本物になりきれない、どこか歪んだ、あるいは役割として演じられているような「偽りの二人組」。
② 文学的な由来:サミュエル・ベケットからの引用
大江健三郎はこの言葉を、自身が深く傾倒していた不条理演劇の巨匠サミュエル・ベケット(言うまでもなく『ゴドーを待ちながら』*[21]の作者である)の文学概念から借りて生み出したと考えられる。
ベケットの作品には、お互いに依存し合い、反発しながらも離れられない「奇妙な二人組」がよく登場する。例えば、ベケットの『名づけえぬもの』*[22]がそれだ。
大江は、「お互いが相手の存在によってのみ定義され、二人で一つの奇妙な単位を形作っている関係性」を指して、この「スゥードカップル」という言葉を好んで使った。
大江がベケットの『名づけえぬもの』に由来するこの言葉を知ったのは、彼自身が最初から直接借用したわけではなく、アメリカの思想家・文芸批評家であるフレドリック・ジェイムソンが、大江の小説『宙返り』に対して寄せた書評*[23]がきっかけだった。
ジェイムソンがその書評の中で、大江作品に登場する「二人組の男(師匠とパトロンなど)」をベケット的な「スゥード・カップル」として分析したのを大江が読み、非常に深く感銘を受けた。そこから大江は、自分自身と義兄(伊丹十三)、あるいは主人公の老作家・古義人とその友人(椿繁)のような、「お互いが相手の存在によってのみ定義され、二人で一つの奇妙な単位を形作っている関係性」を指す言葉として、自作やインタビューで積極的に「スゥード・カップル(おかしな二人組)」と言及するようになったようだ。
③ 大江作品における「スゥードカップル」の意味
この小説(および大江の多くの作品)において、スゥードカップルは具体的に以下のような関係性を象徴している。
A. 「魂の双子」としての関係:
完全に一体化しているわけではないけれど、お互いの存在なしには自己を保てないような、奇妙で濃厚な精神的結びつき。
B. 「障害を持つ子」と「父親(作家)」の関係:
大江文学の核心である、知的障害を持つ息子(長男がモデル)と、彼に付き添い、彼の声を言葉にして表現する父親の関係性そのものである。社会の一般的な「父と子」という枠組みを超え、運命共同体として生きる二人の姿を、自嘲と愛着を込めて「おかしな二人組(スゥードカップル)」と呼んでいると考えられる。
C. 自己の内面の分裂:
一人の人間の中にある「表現する自分」と「生きる自分」、あるいは「正常と異常」の二面性が、二人の登場人物に分裂して現れている状態とも解釈でき得る。
以上のように考えて来ると、大江健三郎の言う「スゥードカップル」とは、単なる仲良しコンビのことではない。「不条理な現実の中で、お互いを激しく必要としながらも、どこか歪で、一体になりきれないまま寄り添い続ける、偽物にして本物以上の絆を持った二人組」という意味が込められているのではないかと考えられる。
⑺ 加藤典洋引用糾弾の謎
小説のほぼ終盤に至って、実在する文芸評論家・加藤典洋の、大江に関する批評作品に言及し、なおかつ、なんとその加藤の批評が掲載されていた雑誌を古義人は焼き捨て、汚い言葉で罵るのである。あまり引用したくないが引用するとこうである。「クソどもが、」*[24]と。この下りは長くなるので、詳細は別稿*[25]に譲るが、要は、前作『取り替え子』の読解について、加藤が出した、いわゆる「テクスト論破り」なる読み解きに対して、苛立ちと怒りを覚えた(?)古義人は、先の侮蔑の言葉と共に加藤論文を焼き捨てたと、一旦は考えられるが、果たしてどうであろうか。
つまり、本当に腹が立ったというのであれば、訴訟に持ち込むか(事実と違う)、無視するか(これが妥当というか普通であろう)、あるいは、文学理論的に誤謬だと考えたとすれば、論文(評論)の形で別途、反論をしたであろう。加藤論文の掲載誌は、事実と同じであれば、朝日新聞社発行のPR誌『一冊の本』である。大江健三郎ともなれば、反論したいと申し出れば、いとも簡単にその反論は掲載されたであろう。しかし、大江はそうはしなかった。相当な長文を作品中に引用した上で、上記の行動に入っているのである。
これは、大江が『取り替え子』において、若き日の伊丹十三が若き日の大江健三郎の肖像(と言っても居眠りしているものだが)を撮った写真(事実)を作中(虚構)に掲載していることをして、加藤が「テクスト論破り」としていることへの、大江自身のそのままの回答/解答ではないか? すなわち、実在する加藤(事実*[26])の文章を、作中(虚構)に引用しているのである。本来であればいろいろと問題になりそうな描写ではあるが、大江は、このことが加藤に通じるだろうと考えたと思われる。事実、この件につき、加藤は次のように述べている。
本書の一部は、実は連載途中である小説にとりあげられ、作中、焚書の憂き目にあっている。それは批評としての光栄というべきである。真摯に愚かな仮説を使用して下さった大江健三郎氏にも、感謝の気持をささげます。*[27]
そもそも、加藤は若年のころから大江の追っかけだったことをどこかで述べていたが*[28]、悪意を持って大江を糾弾しようというわけではなく、真摯に小説作品を読み解こうとした結果であることは大江に伝わっていたとは思う。そしてそのことは加藤にも十分伝わっていたであろう。
いずれにしても加藤典洋の大江読解については、しつこいようだが別稿*[29]にて詳細に論じたい。
⑻ その他の謎
他にも「老いたるニホンの会」の謎や、古義人を滞在型ホテルのイベントに巻き込もうとする田部夫妻や黒野の謎、あるいは椿繁の謎など、細かくつつけばいかようにも論じるネタは存在する。
あるいは、大江の小説作品の場合、しばしば煩瑣とも言うべき先行する各種文学作品や哲学の書物の引用が存在し、これまた、重々に検討せねばならない。気になるところでは『ハックルベリー・フィン』*[30]やワルター・ベンヤミン、あるいはマルト・ロベールなどが心に引っ掛かるところだが、別の機会にしたい。
結語――運動の不在
以上のような次第で、現段階では、わたしにこの小説を正当に評価できる資格があるとは思えない。正直分からないことが多過ぎるし、他の大江作品や、他の論者の見解も未読であり、十分な読解には全くもって不十分である。これについては大変申し訳なく思う。
しかしながら、一読者としてこの作品を単体として見たときに、やはり「文学の運動」が、――すなわち、小説の持ちうる様々なアイテムの構成であったり、登場人物の「布置」(コンステレーション*[31])であったり、ストーリー展開であったり、用いられている言葉であったり、主題であったり、題材であったり、いずれにしても、ここに果たして「運動」があると言えるだろうか?
物理学的に「運動」を定義すれば「物体の位置が、時間とともに変わること」ということであろう。
文学の運動も同じである。「小説の中で、何ものかの位置が、小説内の時間とともに変わることである」。
もっと言えば、何かが変わることによって、何かが変わるのである。
さらに言えば、そのことによって作者も変わらざるを得なくなり、無論、読者も何らかの形で変わるのである。
詳細は別の機会に譲るが、いずれにしても、ここには変わるものは何もない、文学の運動はない、と言ったら言い過ぎであろうか?
しかし、わたしにはまだ4冊の小説作品*[32]が残されている。
結語を急がずに、入念な準備で、残された4つの未踏の連峰へと足を一歩ずつ踏み入れて行きたいと思う。
【主要参考文献】
『おかしな二人組(スゥードカップル)』三部作(特装版). (2006年). 講談社.
Jameson Fredric. (2003/11/20).
"Pseudo-Couples". London Review of Books, Vol. 25, No. 22.
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ベケット サミュエル. (1952年/2013年). 『ゴドーを待ちながら』. (安堂信也, 高橋康也, 訳) Les
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河合隼雄. (1993年/2013年). 『物語と人間の科学: 講演集』/文庫化改題『こころの最終講義』. 岩波書店/新潮文庫.
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大江健三郎. (1959年). 『死者の奢り・飼育』. 新潮文庫.
大江健三郎. (1964年). 『日常生活の冒険』. 文藝春秋.
大江健三郎. (1979年). 『同時代ゲーム』. 新潮社.
大江健三郎. (1982年). 『「雨の木」を聴く女たち』. 新潮社.
大江健三郎. (1983年). 「「運動」のカテゴリー――小林秀雄」. 『新潮』1983年4月増刊号.
大江健三郎. (1983年). 『新しい人よ眼ざめよ』. 講談社.
大江健三郎. (1985年). 『河馬に噛まれる』. 文藝春秋.
大江健三郎. (1987年). 『懐かしい年への手紙』. 講談社.
大江健三郎. (1993年ー1995年). 『燃え上がる緑の木』三部作. 新潮社.
大江健三郎. (1999年). 『宙返り』上下. 講談社.
大江健三郎. (2000年). 『取り替え子(チェンジリング)』. 講談社.
大江健三郎. (2002年). 『憂い顔の童子』. 講談社.
大江健三郎. (2003年). 『二百年の子供』. 中央公論新社.
大江健三郎. (2005年). 『さようなら、私の本よ!』. 講談社.
大江健三郎. (2007年/2010年). 『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』/文庫化の際に『美しいアナベル・リイ』へ改題. 新潮社/新潮文庫.
大江健三郎. (2009年). 『水死』. 講談社.
大江健三郎. (2013年). 『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』. 講談社.
大江健三郎. (2026年). 「暗い平野からの旅行」. (阿部賢一, 編) 『群像』2026年4月号.
大江健三郎. (2026年). 「旅への試み」. (阿部賢一,
編) 『群像』2026年4月号.
長新太. (1986年).
『ブタヤマさんたらブタヤマさん』. 文研出版.
🐤 初稿2026年5月20日 10:48
改稿2026年5月21日 1:14
*[6] 大江健三郎の「純文学書下ろし特別作品」作品一覧(全3作)①1964年『個人的な体験』のちに新潮社文学賞を受賞。②1973年『洪水はわが魂に及び』(上・下)野間文芸賞受賞。③1979年『同時代ゲーム』。安部公房の「純文学書下ろし特別作品」作品一覧(全5作)①1962年『砂の女』読売文学賞を受賞。②1967年『燃えつきた地図』。③1973年『箱男』。④1977年『密会』。⑤1984年『方舟さくら丸』。
*[15] 『憂い顔の童子』に登場する「童子」とは、四国の森の神話的伝承、ベケットの不条理な伝令、そして世界の苦難を背負うメシア的少年のイメージが重なる存在と言える。老いた作家の魂を救済・若返らせる「根源的な自己」の象徴とも言える。
*[16] 「若い日本の会」とは、1960年の安保闘争時に大江健三郎や石原慎太郎、武満徹ら若手文化人が結成した反安保・民主主義擁護のグループ。政党色を排した市民運動の先駆けだが、安保成立後に思想対立で自然消滅した。
*[24] [大江, 2002年] 500頁。この「クソどもが」という罵倒の言葉は、加藤に対してというよりは、その雑誌を持参した真木彦や、自分勝手な利害だけで動こうとする、古義人を取り巻く様々な人々に対して向けられていると考えられる。
*[31] 「コンステレーション」は「布置・星座」とか言う意味。河合隼雄が京都大学を退官するときの最終講義「コンステレーションについて」(1992年3月)でその概念を述べた。本来は「星座」を意味する言葉だが、夜空にバラバラに存在する星たちが、地球から見るとひとつの意味(オリオン座など)を持って結びつくように、一見無関係に思えるこころの内外の出来事が、因果関係を超えてある意味を持った「布置(配置)」として立ち現れてくる現象を指す。講義の中では、長新太の絵本『ブタヤマさんたらブタヤマさん』


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