「走れメロス」について
何も思うまい。ただ風にだけ心を向けよう。
――トルーマン・カポーティ
(村上春樹訳)
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太宰治の短篇「走れメロス」について思うことをいくつか記して置きたい。
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「走れメロス」は中学校のいくつかの教科書にも収録されている程有名な作品で、知らぬ者はないだろう。
主題的には人間の信実や友情を歌い挙げた名作とされていて、事実、学校の教室ではそのように教えられているはずである。しかし、本当にそのように言ってよいのだろうか。
*
ストーリー的にはいたって単純で、人間を信じられぬとする暴君を諌める為に、主人公メロスは、その王と言わば「かけ」をする。人質を王城に置いて、三目目までにメロスが戻って来るか、否か、戻って来なければ人質――メロスの親友を殺す、戻って来ればメロスが殺される。それでも戻って来るか、戻って来れば人間は信ずるに足るということになる。そういう「かけ」だ。結果的にはその三日の間にメロスは帰って来た。メロスのかけが勝ったわけだ。――人間は信ずるに足るのであると。そのメロスの勇気に感動した王は、メロスも人質も赦免し、王自身、改心を誓うというハッピーエンドで終る。したがってあらすじだけを追えば、人間賛歌の主題しか出てこないのだが、より詳しく読んでみると必らずしも、そうとは言えないような気がする。
全体は文庫本で15頁足らずのまさしく短篇だが、三つのパートに分ける事ができる。王との「かけ」をするまでのシラクスの市での場面と、メロスが村に帰って、シラクスに再び戻りつつあるところまで、そして、最後、人質が身代りとして殺されようとする刑場での場面の以上三部である。
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先にメロスと王は「かけ」をした.と述べたが、それは結果であって正確にはそうではない。メロスは、妹の結婚式の準備の為にシラクスの市にやって来た。ところが市の様子が妙に寂しいのに不審をもったメロスは市民にそのわけを尋ねる。それによると、王が人を信じられぬと次々と王の一族や市民を殺すというのだ。そこで有名な書き出しにつながる。
メロスは激怒した。必らず、かの邪智暴虐の王を除かねばならぬと決意した。(新潮文庫版・p.134/以下「走れメロス」の引用は新潮文庫による)
そのまま、メロスは王城に入って王ディオニスをののしる。「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。」(p.136)王は応える。「口では、どんな清らかな事でも言える。」「おまえだって、いまに、礫になってから、泣いて詫びたって聞かぬぞ」(p.136)メロス「私は、ちゃんと死ぬる覚悟でいるのに。命乞いなど決してしない。」(p.136)
ほとんど成り行きと言ってよい。ここでメロスが礫になっても何の意味もない。そこで物語はメロスに条件を出させる。先に触れた妹の結婚式である。すなわち、三目の間に結婚式をして戻ってくる。その間はメロスの親友セリヌンティウスが人質になる*a。これが「かけ」の内実であるが、やはり「かけ」と言ってもよいだろう。かけられているものは、「人は信ずるに足るかどうか」である。メロスが戻ってくれば「人は信じられる」し、逆に戻ってこなければ「信じられない」ことになる。実際にはメロスが村に帰って戻るという約束を守るかどうかなので、「かけ」という受動的な言葉ではなくて「実験」といった方が正確かも知れない。人の信実の存在・不存在を証明する行動的実験をメロスはする事になったのである。 ここまでが第一部である。
メロスは一睡もせず10里(約40キロ)の道を急いで村に帰り、その日の翌日には妹の結婚式をしてしまう。メロスは花嫁にこう言っている。「おまえの兄の、一ばんきらいなものは、人を疑う事と、それから、嘘をつく事だ。」(p.139)メロスは歩く正義のような男らしい。「おまえの兄は、たぶん偉い男なのだから、おまえもその誇りを持っていろ」(p.140)花婿にも言っている。「メロスの弟になったことを誇ってくれ」(p.140)――かなりの自信である。本当なら、ずいぶんイヤ味になるところを、メロスの正直さ、素朴さと、そして、これが重要だがさわやかな文体が、それを拭っている。
第二部は、ここまでと、それ以降のメロスが村を出てからの二つにさらに分割することができる。
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翌日――問題の三日目の朝、メロスはシラクスの市に向けて村を出る。充分間に合うはずだ。ところがそのメロスに次々と障害が襲いかかる。第一に昨日の豪雨の為、川が氾濫し、橋を破壊し去った。やむなく彼は濁流を泳がねばならなくなった。なんとか泳ぎきった彼に第二の障害が行手をさえぎる。山賊である。それも倒して次に進む。第三に疲労と午後の灼黙の太陽の為に彼は倒れ伏してしまう。そして、最後に自己正当化の欲望が彼の心を襲う。
ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、山賊を三人も撃ち倒し草駄天、ここまで突破して来たメロスよ。真の勇者、メロスよ。今ここで、疲れ切って動けなくなるとは情けない。(p.142)
私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。(p.143)
けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。わたしはよくよく不幸な男だ。(p.143)
ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定まった運命かも知れない。(p.143)
セリヌンティウス、私は走ったのだ。君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで来たのだ。濁流を突破した。山賊の囲みからも、するりと抜けて一気に峠を駈け降りて来たのだ。ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。(p.143)
ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。(p.144)
そして、最後に「勇者」はこう言い放って、まどろんでしまう。
正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉。(p.144)
途中省略しての再編成だが、本来は一頁半にわたってメロスの独白が続く。名文である。勿論、全体を通して言えることではあるが、本当に名文である。全文を引用したいぐらいだ。人間がいかにして敗れ去っていくか、己れの心にいかにして敗れ去っていくかが、美事に描かれている。メロスとて所詮は人間なのだ。自分が可愛いくないわけがない。――こうしてメロスは敗北したか? いやいや、メロスは第三部に入って再び立ち上がる。
*
一体どれくらい彼が寝入っていたのかは記されていないが、ふと目を覚ましたメロスは足もとの岩の裂目から涌き出ている清水を一くち飲むと、とたんに元気になって走り出すのである。《走れ! メロス。》(p.145)
そんなわけで彼は、先に記したように、間に合い、「人は信じるに足る」という命題を証明してしまうわけだが、これは一体どういうことだろう。
例えば、メロスの復活の原因が清水を飲んだことにあると考えてみよう。清水を飲んだことで元気が回復し、走り出すことができ、ひいては間に合ったのだと。しかし、よく考えてみると、そこに偶然、清水があったから良かったけれども、もしなかったとすれば、彼は復活しないことになる。つまり間に合わなくなってしまう。ということはメロスが間に合うことによって証明した「人間の信実」とやらは極めて偶然性に左右されていることにならないか。人間を信じられたり、信じられないのは偶然なのだ。今回はたまたま信じていいことになったが次回はどうかわからない。そういうことになってしまう*b。
いや、そうではない、清水のあるなしに関わらずメロスは復活したはずだ、そういう考え方もあるだろう。
この短篇はギリシアの古伝説に取材しているとされるが、ギリシアの有名な言葉に「健全なる肉体に健全なる精神は宿る」というものがある。このメロスの挫折と復活は、その言葉を地で行っているところがあるように思う。実際、彼は《身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいい》(p.143)と独白しているし、復活に際しては《肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生れた。》(p.144)といって走り出して行くのである。ということは、肉体が頑強でなければ、人の信実は尽せないということにならないだろうか。つまり弱い人間は結果的にうそつきにならざるを得ないということだ。いみじくも彼自身が言っている。《私だから、出来たのだよ。》(p.143)と。メロスという強く若い男だからこそ出来たのだ。果して、これで「人が信ずるに足る」という命題が証明されたことになるだろうか?
では、本当に人間が信じられる、そう言うためにはメロスはどうあらねばならなかったのだろう。メロスが勝利したのは結局のところ、心の勝利ではなく、体力の勝利なのだ。心の勝利こそ我々の求めるところである。先にも記したように彼は心の葛藤をたな上げしてしまったまま(《どうとも、勝手にするがよい。》(p.144))寝入ってしまうのである。よみがえったのは体力の問題だ。メロスはそこで寝入らずに、その《勝手にするがよい》という思考を自らの手で打破せねばならなかったのである。そして、そのまま立ち上がらねばならなかったのである。しかし、彼にはできなかった。体力では勝っても、精神では敗けたのだ。そうそしられても文句は言えまい。
逆に言えば心では勝っても、体力では負けてしまう人もいるに違いない。例えば女性や老人や病人、子供には、濁流を泳ぎきることも、山賊を打ち倒すことも不可能だろう。 だが、自らを律することには誰にもひけをとらないことだってあるに違いない。しかし、人は、間に合わなかったことで、その人をののしるだろう。一体、人の信実など証明できるのか? もっと言えば、何かが信じられることなど本当に証明できるのか? いずれにしてもメロスが間に合ったのは偶然か、そうでなければ体力上の問題であって、人間の信実云々とは全く関係ないことは確認して置く必要がある。
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もっと考えてみよう。もしも、メロスが間に合わなかったとしたらどうだろう。刑場にたどり着いたメロスは、我が友セリヌンティウスにこう言う。
私を殴れ。ちから一ぱいに頼を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。(p.147)
美しい友情のシーンだ、と言いたいところだが、文中、注意して欲しい。彼は《悪い夢》*cと言っているのだ。さきほどの「悪魔のささやき」を《悪い夢》だと言っているのだ。間に合ってしまえば確かに《夢》で終わらせることもできようが、もしメロスが間に合わなかったら、夢どころのさわぎではなく「悪い現実」になってしまうところだった。親友セリヌンティウスは処刑され、自身は王や、市民や、果ては村人からも罵倒され、ほくそ笑みながらも、人の信実に絶望した暴君ディオニスはますますシラクス市民を殺し続けるだろう。
その悪い現実を生み出したものこそ、先にメロスを襲った正当化の論理、利己主義の論理なのであってとうてい《夢》で片付けることはできない。彼の心中に巣くっていた悪魔はけっして外的なものではなく、まさしくメロス自身なのである。それを結果が良かったからと言って、美しき友情シーンにすりかえるのは大変な自己欺瞞ではないだろうか?
したがって、このメロスの思考を簡単に言いかえるなら、「結果良ければ全て良し史観」ということにでもなるだろうか。メロスはずいぶんいいかげんな男ではないか。
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それにひきかえ、暴君ディオニスは何と正直なのだろう。王をとらえている問い――人を信ずることはできないのではないのかという問いかけは全く基本的な問いであって誰しも一度はとらわれる問いといってよい*d。しかし、そんなことを絶えず考え込んでいる人間はどこにもいない。すぐに忘れてしまうか、忘れようとするのである。なんとなれば「人は信ずるに足る」という命題の証明は先に見たように非常に困難だからだ。一体、何をもってあるものが信じられると言い得るのか。例えば、ある人が、私は狂人ではないという。しかし、それは単なる思い込みかも知れない。その人が本当に狂ってないかどうかは、精神科医の手にゆだねねばならない。しかし、その医者自身が狂っているとしたらどうだろう。また、さらにその医者を診断する第二の医者が要請され、またまた、さらにその医者を診断する第三の医者が要請され、またまた、さらに……。 きりがないのである。したがって論理的には人類全体が狂っていると言うことも可能だ。人類自身に自らが狂っているかどうかなど判断できないからだ。小林秀雄の言葉を借りれば、ある人が信じられるかどうか、言い換えれば狂っていないかどうかを証明、決定するのは《要するに數の問題だ。氣違ひと言はれない爲には、同類をふや》すしかないのだ(小林秀雄「モオツアルト」1946年/『新訂・小林秀雄全集』第八卷・1978年・新潮社・p.87)。つまり、数が多い方が正常で、少ない方が異常というわけだ。多いほうが勝ちなのだ。人を信じられないとする暴君ディオニスが狂っているとするなら、それは単に数が少ないからである。逆に本当は市民の方が狂っていても、その市では王が狂っていることになるのである。
いや、そうではない。そもそも、あるものが信ずるに足るかどうかなど、考えても仕方がないことなのだ。先に述べたように答えが出せないからではない。答えなどどこにもないからだ。答えなどないから、考えれば考える程、訳が分からなくなってしまう。それでも考えれば、この小説の作者のように自殺するか、本当の意味で「狂う」しかない。答えなり、解釈というものは後から来るものなのだ。人間が不安を取り除く為に、勝手に作ったのである。「人を信ずることができるか」と言うけれども、「信ずる」ということが既に人間的なことではないか。いや、言葉で述べられている限りそれは言葉に過ぎないのである。自分で墓穴(はかあな)を掘って置いて、「これは墓穴か」と問うているのと同じだ。全くの同語反復なのだ。墓穴は墓穴だ。それ以外ではない。人間も同じだ。人間が存在する。それだけである。殺し合いがあった。それはただ殺し合いがあっただけで、それ以外ではない。しかし、人間は答えを求める。言葉というフィクションを求める。だが、もともと存在しないものに到達することはできないのである。そこで、適当な答えを作り出して、満足することになる。懸命に思考している暴君ディオニスからすれば、きっととんでもないごまかしに見えるであろう。そのような意味で、まさしく、王は自らの間いかけに正直だった。数や、体力や、偶然のできごとで、ごまかすことなく、その問いを正直に問い続けたのだ。よく考えてみれば分かるが、周りの人達が安全であるという保証はどこにもない。人を殺したくなって当然だ。人が信じられるかどうかの証明が困難だからと言って、もし本当に人が信じられない存在でシラクスの市民が王を殺そうと思っていたらどうなるのか。先に殺すしかない。しかし、そうなっては人類は滅んでしまう。そこで人類という種は「徹底的に考えること」を放棄し、「人は信じられる」とか「神」だとか「仏」だという無根拠の絶対者を設定したのだろう。この絶対者の要請によって人々は絶対的問いかけ――絶対者は信ずるに足るかどうかを忘却の彼方に葬り去ることに成功したのだ。しかし時々、「正直者」が出て困るので、あらゆる手段を使って彼を説得する。メロスのように行動的に説得しようとする者も現われる。王は見事なメロスのごまかしに「説得」されてしまったというわけだ。
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先にメロスは「結果良ければ全て良し史観」論者であると指摘したが、かならずしもそうとも言えない事をメロスが口走っている箇所がある。清水を飲んで、やおらかけ出して、夕陽の沈まんとするシラクスの市に、走り入ってきたメロスにセリヌンティスの弟子のフィロストラトスが声をかける。「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分の命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。刑場に引き出されても、平気でいました。王様が、さんざんあの方をからかっても、メロスは来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました」(p.146)メロスは応える。
それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い! フィロストラトス(p.146)
これはどういうことだろう。大変難しいことを言っているように思えるが順に見ていこう。
メロスははじめに《信じられているから走るのだ。》と言い放っている。このことばは人をして、深く感動させる。しかし、逆に考えてみよう。《信じられているから走る》と言っているが、では、「信じられていなかったら走らない」のだろうか? 現実に王は心の底はともあれ、メロスのことを信じていなかった。ということはやはり、信じられていなくても走ったのではないか。たとえセリヌンティウスが心変りをして、メロスをののしったと聞かされても、そんなはずはない、私はセリヌンティウスを信ずると言って走り続けるのではないのか*e? したがって《信じられているから走る》というのは完全なレトリックであって意味は全くない。
メロスは次に《間に合う、間に合わぬは問題でな》く、《人の命も問題でない》と言っている。要するにここでは〈結果〉は関係ないと言われているに等しい。そう考えると、先の「結果良ければ全て良し史観」とは矛盾することになる。間に合わなくてもいいから、途中で倒れてもいいから、ゆっくりでいいから、とにかく走り続けることに意味があるのだ、そういう意味だとするなら、本稿における先のメロス批判は訂正されなければならぬ。たとえ、体の弱い人や、病気の人や、女性や、子供にだってできるし、意志の弱い人にだって可能性は開けてくる。「走れメロス」という題号からするなら、この「走り続けることに意味がある」という世界観の方に力点が置かれていると取るべきなのか知れない。けだしここはメロスの名文句であって、小説的にはここがクライマックスなのだ。
しかし、しつこいようだが、また、逆に問いたい。一体全体、「走り続ける」ということにはどういう意味があるのだろう。メロスは言っている。《私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。》と。一体、その《なんだか、もっと恐ろしく大きいもの》とは何だろうか。《間に合う、間に合わぬは間題ではない》と言っているのだから、間に合うことによって《人の信実の存するところ》(p.140)を証明することではない。《人の命も問題でない》と言っているのだから、セリヌンティウスの命を救うことでも、王を改心させ、多くのシラクス市民を救うことでもない。では一体、何だろうか? よく分からないが、それでも走り続けることに意味があるというのである。ということは、《人の信実の存するところ》の証明など、《間に合う、間に合わぬ》ということでは証明できないとメロスは言いたいのだろうか。それこそが《もっと恐ろしく大きいもの》の内実なのだと。《人の信実の存するところ》を〈神〉の存在に変えてみよう。「神はいるか、どうか」、それは、その神を信ずる人の現実的行動、すなわち――間に合う、間に合わぬ――幸福になる、幸福にならない――ということでは証明できない。言い換えれば証明できる、できないに関わらず神は存在するのである。証明するのは誰だろう? ――現実の人間である。現実の人間が存在しようとしまいと神は存在するのである。
しかし、こうなってくるとどんなものでも存在していいことになる。神、仏、亡霊、異星人……。問題はそれを信ずるかどうかでしかない。信じた人が多ければ、それは存在する。根拠のあるなしに関わらず、信じた人には充分存在するのである。これは先に論じた通りだ。もっと突っ込んだ言い方をすれば、何かが存在したり、しなかったりするのはその人次第なのだ。
ここまで考えてくると、メロスの言っている「意味」には現実的には何の意味もないのだと思わざるを得ない。つまり《なんだか、もっと恐ろしく大きいもの彰には現実的には何の意味はないのである。もし間に合わなかったら、単なる笑い者である。友は殺され、王は嘲笑し、市民は石もて投げるであろう。それでも途中でやめずに、走り続けたことに意味があるとするなら、それはメロスの個人的な完走の満足感だけであろう。確かに個人的には意味はあるかも知れないが、それは単なる思い込み、自己満足であって、現実的には完全に無意味である。
自己満足ということで言えば、〈趣味〉と言い換えてもいい。メロスが走り続けるのは、メロスの趣味なのだと。だから、極端なことを言えば、メロスは突然道端に座り込んで粘土組工をやり続けたり、川で泳ぎ続けてもいいわけだ。勿論、そこには本人の満足感がなければならないので、そうはならないのだが、逆に言えば、本人が満足していさえすれば、何をやってもかまわないということになる。そうだとすれば、本人さえ満足してさえいれば何もしないでいるということすら同じだということになるだろう。そして、この考えをより徹底させれば、満足してさえいれば自殺もよいということになる。そもそも、何をやってもよいというのなら、殺人だっていいのだ。それはいけないという考え方ですら単なる「考え方」なのだ。それが正しいという根拠はどこにもない。自己満足の為に人を殺してはいけない、という考え方そのものも、やはり、自己満足ではないのか。 どうも、このままでは、一切の思想・行動というものは単なる自己満足だという結論が出てきそうだ。
しかし、この考え方は余り文章上から受け取られる程過激的なものではない。現実に人間はそのように生きて来たからだ。第二次世界大戦当時を想起してみれば、どうだろう、国の為という満足感のために多くの人々が、大量殺人を行い、自殺行為をしたのである。別に国の為でなくてもよい。ヨーロッパの平和の為に連合国の兵士達は同様に死んでいったのである。それ以前の過去ともな
れば、そんな事例で充満しているだろう。人間はそのような満足感なしには生きられないのかも知れない。それは現在も同じであろう。いや、見方によっては、より過激的になっているとも言える*f。というのは、単純化の謗りを恐れずにいえば、たとえ自己満足といっても、古代においてはそれが社会に埋め込まれていて、満足のベクトルが社会全体の方向に向いていたであろう。おそらく近代化とはそのような満足のベクトルが個々人の欲望の分裂に同調して、お互いにぶつかり合い、覇権を目指してひたすら走り続けるという、いわゆる「競争社会になることなのだ。したがって、近代社会とは表面的には自由で解放されているように見えるし、本人たちもそのように思い込んでいるが、実は一生、機械のように走り続けねばならないという逆説的な社会ということができる。
しかしここで注意せねばならぬことは、そのような「逆説」が近代に属する間題というよりも、すぐれて人間そのものの問題だということである。人間が満足感を求めて生きるのは近代だけでなく、歴史的な現象であることは先に述べた。つまり、何らかのものを信ずることによってしか生きることができないという人間自身の問題なのである、そこで宗教的〈絶対者〉が登場することは先に述べたが、近代社会においても、それは息絶えることはなかった。というよりも、より〈徹底化〉された形で登場することになる。カネ、つまり資本である。宗教的絶対者に代わって〈資本主義の亡霊〉が我々をあやつっていることはドイツの社会学者マックス・ヴェーバーが述べている通りである*g。
しかし、それを批判することはできない。趣味だからだ。本人が好きでやっていることだから批判はできないのだ。たとえメロスが全裸体で、口から血を噴き出し、何だかよくわからないものの為に走らなければならないからと言って、止めることも、責めることも、我々にはできない。それはメロスの趣味だからだ。
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いい小説とは何だろうか。例えば「走れメロス」はいい小説だろうか。我々は本稿において「走れメロス」の、というより主人公メロスの思想的欠陥について種々検討してきた。 すなわち、「走れメロス」は通俗的価値観に依拠した欺瞞的な作品である、そう結論づけられるだろうか。いい小説とは言い難い、そう結論づけられるだろうか。
*
一体、人は何故小説を読んだりするのだろう。所詮、小説に語られることは虚構である。たとえ、それがノン・フィクションでモデルが存在したとしても、作者の言葉で語られたものである限り現実ではない。極瑞な言い方をすれば、それはウソということである、日常的な価値観において、ウソは悪であるにも関わらずどういうわけで小説の場合は許されのであろう。むしろより上手く、その作品の世界に読者を引きずり込んだほうが、文学的評価はともかく、喜ばれるのではないか。これはどういうわけだろうか。同じような例として映画やテレヴィ・ドラマなどを挙げることが可能だ。まったく同じである。虚構であるはずの作品の世界を、いかにも真実だと思わせることに作家や制作者の手腕がかかっているのである。つまりこれは読者なり観客なりを「だます」ということではないか。とすると人々は実は「だまされたい」と、心の底で思っているのではないだろうか。
では、何故、人間はだまされたいと思うのだろうか。
例えば、犬や猿等の動物はそのようなことを思うだろうか。勿論、思わない。何故か? ――その必要性がないからである。動物の社会は、犬なら犬という〈種〉を保持するように営まれていて、個体がそれを越えることはない。つまり、ある一匹の犬の生活や行動.世界感覚は、一見勝手に生きているように見えながら、実はその犬の属している犬という〈種〉のためにささげられているというわけだ。すなわち、一匹、一匹の犬達は、すでに〈種〉によって〈だまされている〉ということになる。犬が人間には分からないテリトリーを行動の規範にしているのは〈種〉によってだまされているからである。それに目覚めることはない。もし、あるとすれば別の〈種〉の動物に進化したことになる。いずれにしても〈種〉で共通のだまされ方をしている為に混乱することが避けられているわけだ。
しかし、人間の場合は少し違う。というのはだまされ方が個人個人バラバラなのである。各民族間における文化・習俗の違いはもとより、一人一人の生活パターン、思想、信念、考え方が違うのである。近代化の度合が強い所ほど、そうしたことが言い得るであろう。そこで様々な問題が立ち起こってくるわけである。お互いが理解し得ないということこそ、人間という種を規定しているかのようである。
勿論、高等猿類から分離進化した段階では他の動物と同様に種としての統一性が保たれていたと思われる。 しかし、歴史ではなく段階として、種から民族へ、民族から部族へ、部族から家族へ、そして家族から個人へと統一の基軸が降りてきてしまった。そして今や個人の中において種々の価値が相克しあって、自らをも律し得ない、そのような状況を見て取ることができる。
何故そのような事態をまねいたかは本稿の主題でもないし、私の手に余る問題である。しかし、そこで注意せねばならぬのは我々人類は、というよりも生物は、今述べてきたような価値の乱立状況にたえられないということである。多くの場合、価値の対立は相手を自らの価値の圏内に引き入れることが目指される。すなわち、他者を自らが属する文化尺度で計り、たとえそれが全くの誤解であっても計りきれればそれで満足する。そうでなければ、相手を無視する、もしくは消し去る。そんな図式が人類史を戦争史と同義にしたのかも知れない。いみじくも我等が主人公メロスは物語冒頭で王の暴虐を聞いてこう言っている。「呆れた王だ。生かして置けぬ」(p.135)。当初メロスは王を殺害する心算だったのである。思想が違うというだけで……。
しかし、それはやはり批判できないのである。先にも注意をうながしたように、価値の乱立を何らかの価値基準の下に統一しようとするのは、生物的本能と言ってもよい、生物としての全うなあり方なのであって、もしも、そのような相対主義を野放しにして置けば、やがてはその生物は減びるであろう。相対主義は思想ですらない。相対主義が思想的価値を持ち得るのは、あくまでも、中央に絶対的価値が構築されている時だけであって、相対主義が絶対になれば、それはすなわち原理的に自己矛盾を含み、種々の問題を引き起こすことになるだろう。そして、それがまさしく現代社会なのである。
という事は、人類が生き延びる為は何をなすべきなのであろう。それは新たなる、地球時代の〈絶対〉を構築することである*h。そして、急いで付け加えねばならぬ事は、その条件に理論的正当性等はいらないということだ。では何がそれを決定するのか。簡単だ。――「説得力」なのである。説得力――すなわち、極力多くの人類を欺く為の説得力、何でもよい、ありとあらゆる手段・方法を使って多くの人類を欺くこと、それこそが現在最も求められているものなのだ。そして適当に邪魔者や異端者を殺してやればよろしい。敵対的思想を憎むのは、自らの〈信〉を強化するのに役立つからだ。つまり「説得力」の強化につながるということだ。したがっていい宗教、素晴らしい思想とは、人をうまくだますことができるそれなのである。
さて、前置きが長くなった。人は何故、小説を読むのか。同じことだ。だまされる為に読むのである。ということは、うまくだますことができる小説こそいい小説といわねばならない。時に読者をして深く考え込ませるような作品が現われ、そして珍重されるが、それは深く考え込むという少しばかり高等なだまされ方をしているのに過ぎない。どうせだまされるなら大げさにだまされた方がよいと思うが、それは好みの間題だ。というよりも「趣味」の問題と言うべきか。
では、「走れメロス」の場合はどうだろうか。そもそも、「走れメロス」の魅力、確かに文庫本わずか15頁にせよ、その単純な話を一気に読ませてしまうものは、その文体にある。数箇所触れたが、全く美事なものである。いかにもギリシア風の古典的言葉づかい、けれども決して読み難くはなく、メロスの若さを象徴するかのように、リズミカルに走り去っていくその文体! まさに、短篇小説、かくあるべし、とでも言うべき素晴らしい作品となっていて、友情だとか、信実だとかは後から勝手にやってくるものである。したがって先に延々と述べてきたことは単なることば遊びであって、意味は全くない。大体、あんな読み方をして何が面白いだろうか。ただ、感動すればいいのである。それだけではないのか。
*
多くの人が「走れメロス」を名作として読みついできた。ということは、感動させる力をその作品が持っているということであって、ただそれだけなのである。それ以上でもそれ以下でもない。それ以上のことは何も言わない方がよい。いや、何も言ってはいけない。
もし、言ってしまったらどうなるか、――そう、メロスがやって来る。第二、第三のメロスが、説得にやって来る。あらゆる手段を講じて、説得に、やって来る。
〈了〉
1989年2月22日脱稿・
1989年12月15-17日加筆。
〔文献〕
(1)太宰治「走れメロス」/『新潮』1940(昭和15)年5月号。
*本稿は文芸評論家・三浦雅士の圧倒的な影響下のもとに書かれた。以下、まず三浦の全著作を、つづいて特に本稿と関連がある論文を挙示する。
(2)『私という現象――同時代を読む』1981年・冬樹社。
(2)『私という現象――同時代を読む』1981年・冬樹社。
(3)『幻のもうひとり――現代芸術ノート』1982年・冬樹社。
(4)『主体の変容――現代文学ノート』1982年・中央公論社。
(5)『メランコリーの水脈』1984年・福武書店。
(6)『夢の明るい鏡――三浦雅士編集後記集1970.7~1981.12』1984年・冬樹社。
(7)『自分が死ぬということ――読書ノート1978~1984』1985年・筑摩書房。
(8)『寺山修司――鏡の中の言葉』1987年・新書館。
(9)『死の視線――‘80年代文学の断面』1988年・福武書店。
(10)『疑問の網状組織へ』1988年・筑摩書房。
(11)「神の不安――武田泰淳の世界」1984年/『メランコリーの水脈』。
(12)「絶対的あいまいさ――大岡昇平の世界」1983年/同書。
(13)「円環の呪縛――安都公房の世界」1984年/同書。
(14)「筒井康隆とテレビという装置」1981年/『幻のもうひとり』。
(15)「演劇と現象学という視点」1983年/『寺山修司』。
(16)「村上春樹とこの時代の倫理」1981年/『主体の変容』。
*動物学の知識は主として次のものから得た。ただし本文の考えはあくまでも私個人のものである。
(17)日高敏隆『動物にとって社会とはなにか』1966年/1977年・講談社学術文庫。
(18)同『利己としての死』1989年・弘文堂。
(18)同『利己としての死』1989年・弘文堂。
私の読み取りが間違いでなければ同じ筆者によって書かれたこの二著には大きな変容がある。前者が私と同様に〈種〉に個体への優位性を与えているのに対し、後者では表題のごとく〈利己〉にそれを見ているようだ。
(19)河合雅雄『森林がサルを生んだ――原罪の自然誌』1977年/1985年・講談社文庫。
(20)丸山圭三郎『文化のフェティシズム』1984年・剄草書房。
(20)丸山圭三郎『文化のフェティシズム』1984年・剄草書房。
これは動物学ではなく言語哲学なのだが動物と人間を分つ〈コトバ〉というものへの鋭敏な示唆を与えてくれた。
付記
これは文学論ではない。あくまでも私個人の現在の思考を顕在化する為に書かれた。したがって、「メロス」はきっかけに過ぎない。そもそも、私は「メロス」研究はおろか、太宰の作品もほとんど読んでいない。無責任な話だが、その点申し添えておく。
最後に。この文章は評論家の三浦雅士氏の圧倒的影響と、畏友・久保秀勝氏との深夜の長電話における討論によって生れた。末筆ではあるが感謝の意を表したい。
1989年2月25
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