🏈大江健三郎――文学の運動🏈
「徴候」を書き付ける断念の文学
大江健三郎『さようなら、わたしの本よ!』
(短縮版)
*注釈調査協力・校正・要約(英文翻訳)・装画:Google Gemini
《要約》
大江健三郎の『さようなら、わたしの本よ!』は物語性を回復した一方、書くことの枯渇に抗う作者の「破壊衝動」と「自己処罰」を孕む。作中のテロルは世界の徹底破壊に至らず、別荘の爆破という内向的な規模に矮小化されており、そこには近代民主主義者としての正義感に阻まれた小説家の痛切な断念の爪痕がある。結局、生き残った長江(大江)にできるのは、信仰なき「窮境」の中で、世界の終わりを示す「徴候」を書き付けることだけである。
《Summary 》Kenzaburo Oe’s
Farewell, My Books! recovers
narrative momentum, yet it harbors the author’s "destructive impulse"
and "self-punishment" in defiance of the exhaustion of writing. The
terror depicted within the novel stops short of total global destruction,
downsized instead into the inward scale of blowing up a villa—a reflection of
the novelist’s poignant scars of renunciation, held back by his public sense of
justice as a modern democrat. Ultimately, all that remains for the surviving
Choko (Oe) within his faithless "predicament" is to write down the
"signs" indicating the end of the world.
《書誌情報》
単行本
- 書名: さようなら、私の本よ!
- 著者: 大江健三郎
- 出版社: 講談社
- 刊行年月日: 2005年9月29日
- 装丁: 司修
- 装画:
原広司『ディスクリート・シティ』より
- 体裁: 四六判・上製本・434ページ
- ISBN: 4-06-213101-7
- 価格:2,000円(税別)
文庫版
- レイベル: 講談社文庫
- 刊行年月: 2009年6月
- 体裁: A6判・544ページ
- ISBN: 978-4-06-276378-3
初出
『群像』2003年1月号・6月号・8月号
《読書メモ》
・2026年6月28日読了
・採点:★★★☆☆
目次
1.小説としての読み易さと反比例する内的矛盾
大江健三郎の『さようなら、わたしの本よ!』*[1]は、近年の大江作品のなかでも比較的物語の駆動感を強く持った作品であり、前作『憂い顔の童子』 *[2]に比して純粋な「読み物」としての面白さを備えていると言えるだろう。しかし、その物語性の回復がそのまま本作の文学的達成を意味するかといえば、当然のことながら、事態はそう単純ではないはずだ。
本作を読み解く鍵は、大江における「小説を書くこと」の変質にあるのではないか。ふり返れば、中期の『懐かしい年への手紙』*[3]に至るまで、大江の小説執筆は或る種の必然性というべきか、内発性と言ったらいいのか、そのようなものに支えられていた気がする。だがそれ以降、彼は「書くべきこと」の枯渇、言い換えれば「書くことの忘却」と文字通り格闘せざるを得なくなったのではないか。エッセイなどに頻出する「最後の小説」という言葉や、「書かねばならない」という強迫観念。それこそが、かつて大江文学を脈打たせていた固有の「小説の運動」感を損なわせた要因であったように思えてならない。
そうした閉塞感の果てに現れたのが、本作を貫く苛烈な「破壊衝動」である。 作中におけるテロリズムの標的は、国家や巨悪ではなく、最終的には主人公・長江古義人の自宅*[4]、すなわち彼自身の「作品」や「蔵書」の焚書へと向かう。前作において大江に(比較的、肯定的に)言及した評論家・加藤典洋の論文*[5]を象徴的に焚書してみせた大江が、本作ではその刃を己自身へと向け、自己処罰的な全否定を試みているのだ*[6]。
だが、その結末には微かな歪みが残る。すべてを失い、真に死すべきであったのは、古義人の身代わりたる「タケチャン」ではなく、古義人の盟友であり、本来の意味での擬似カップル(スゥード・カップル*[7])を成すべきであった椿繁であるべきではなかったか。
結局のところ、生き残った長江にできるのは、破滅に向かう世界の「徴候」を文章として綴ること、すなわち破滅の気配を徴取することだけである。それは「大文字の文学」が崩壊した時代において、小説を書くことを実質的に断念した小説家が、辛うじて選択し得る唯一の営為であった。大江(長江)は宗教的な信仰を持たない。神に頼ることはできない。ならば、世界の終わりを示す「徴」を書き取り、それをいかなる形であれ、後に続く若き人々へ伝える他に方法はないのだ。
2. 実存の穴凹と「スゥード・カップル」の機能不全
大江健三郎は、初期作品から極めて的確で即物的な自然描写を挿入する作家である。例えば、本作ではこんな具合。
木立の間を見透すことこそできなくなっていたが、いちめんの鰯雲は夕焼けの気配を残していた。*[8]
人間の実存的苦悩(個人の内面)のみを描く作家と思われがちだが、その背景にある冷徹な自然の風景は、常に人間の営みを相対化する機能を果たしてきた。
この問題は以外に大きいと考えている。これについては別稿を上げる予定である。
本作における空間描写もまた象徴的である。
これについても重要だ。大江の作品は、「場所」あるいは「建物」を巡って書かれた小説だ。これも別稿を上げる。
「おかしな老人」の家、あるいは「塔」として聳え立つ「小さな老人」の家*[9]は、その実、内実を欠いた「穴凹」にすぎない。3階の書斎は、高みにあると同時に、まるで地下の穴蔵のような「閉鎖性」を有している。ここで繁が目論む「破壊する」*[10]の計画は、どこか全容を摑ませない不透明さがあるが、しかしながら、そのテロルを通じた世界救済の意志は理解できなくもない。
例えば、後年のエンターテインメント作品であるテレ‐ヴィジョン・ドラマ『VIVANT』(2023年・TBS系)において、役所広司演じる、テロ組織「テント」*[11]のリーダーが「世界を救済するためのテロ活動」を行い、それを自衛隊の影の組織「別班」(すなわち「VIVANT」)の、堺雅人演ずる秘密工作員が阻止しようとする構造とも奇妙に通底する。どちらが正しいのか、正義のために人を殺めることは許されるのか、という倫理的ジレンマがそこにはある。
しかし本作において、そのテロルのダイナミズムは十分に機能しているとは言い難い。
象徴的なのは、テロリスト・グループの構成員であるウラジーミルと清清の存在感の希薄さである。結局のところ彼らは一体何のために登場するのか。冒頭から登場するものの、彼らは記号的で、小説の登場人物として、全く「生きて」いない。せっかく「ウラジーミル」*[12]の名を冠しながら、その役割はテロ・グループの下働きとなった武とタケチャンという2人の若者からなる二人組で代替可能であり、清清もまた、武とタケチャンを、母、あるいは姉のように、――と言いながら、2人と性関係も持っているという設定だが、また、この辺りも首を傾げざるを得ない読者が少なからずいるであろうが――甲斐甲斐しく世話をするネイオ(「姉や」ということだろうか?)という女性に置き換え可能ではないか。小説の構造としては、余計な夾雑物を排し、「繁+長江」「武+タケチャン」という二組の強固な「スゥード・カップル」の関係性に純化させた方が、より強固な強靭さを獲得できたのではないか。
3. 破壊の未遂、あるいは小説家の限界
では、具体的な行動を起こせない人間は、ただ破滅の兆候を読み取るだけで満足すべきなのだろうか。
確かに、現実の大江健三郎は、憲法9条を守るための「九条の会」を結成し、晩年まで熱心にデモ行進に参加し続けた行動の人であった。しかしそれは、本質的な問題解決力を持つというよりは、「やらないよりはまだまし」という象徴的な名目を示す行動であったと言わざるを得ない。
無論、小説は政治的な世直しのための手段でも道具でもない。しかし、そうだとしても、大江が文学において真になすべきであったこと、あるいは犯すべきであった「罪」とは、自己処罰的な、身内の焚書のような内向的な破壊ではなく、架空の登場人物である「椿繁」が為そうとしたような、この世界を徹底的に破壊し尽くすことではなかっただろうか。
自宅という即物的な空間の破壊ではなく、虚構(小説)の内部において、世界を震撼させるような大規模なテロルを徹底的に予告し、描き切ること――それこそが、大文字の文学を失った小説家が、自らの言葉に最後の審判を下す唯一の道であったのではないか。何故、それを自宅(別荘だが)を破棄するという形で矮小化したのか?
小説家の持つ自由な想像力の翼を、近代民主主義者の持つ公共的正義感が、恐らくそれを押しとどめたのであろう。
本作の持つ駆動感の裏には、その破壊を徹底しきれなかった小説家の、痛切な断念の爪痕が残されていると言いうる。
蛇足
一旦、本稿においては蛇足になるが、本作の中心的なモチーフ、あるいはキーワードは「窮境」ということと「不憫さ」ということだと思われる。前者は文字通り、作者・大江健三郎=作中人物・長江古義人のおかれた様々な「窮境」を意味するだろう。また、後者は、直接的には、ネイオが組織に利用された武とタケチャンの二人組に寄せる心情が「不憫」ということだ。
例えばこんな具合。
――長く希望した静寂か秋の晴朗か/老年の知恵か。
――似ても似つかぬ窮境にきみを落し込んで……おれは千樫さんに責任を感じているんだ。*[13]
私にいまあるのは、武とタケチャンが爆破を成功させる前に、突入してきた
機動隊に銃撃されて、二人ともグシャグシャになるイメージです。そんな不憫な目にあわせたくないんです。長江さん、そこを考えてみてください。*[14]
現段階において、今一歩、この繋がり、と言ってよいのか、この「窮境」と「不憫」という通奏低音の音符を正確に聞き取る聴力がわたしにはないようだ。他日を期すことにしたい。
《主要参考文献》
ナボコフ ウラジーミル. (1955年/2005年). 『ロリータ』. (若島正, 訳) 原著/新潮文庫.
加藤典洋. (2004年). 『テクストを遠く離れて』. 講談社.
加藤典洋. (2004年/2023年). 『小説の未来』. 朝日新聞社/講談社文芸文庫.
大江健三郎. (1979年). 『同時代ゲーム』. 新潮社.
大江健三郎. (1987年). 『懐かしい年への手紙』. 講談社.
大江健三郎. (2000年). 『取り替え子(チェンジリング)』. 講談社.
大江健三郎. (2002年). 『憂い顔の童子』. 講談社.
大江健三郎. (2005年). 『さようなら、私の本よ!』. 講談社.
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2026年7月7日 21:30
5,296字(400字詰め原稿用紙換算13枚)
*[5]
*[7] 大江健三郎における「スゥード・カップル(擬似二人組)」とは、サミュエル・ベケットに由来する概念で、「世界を激しく破壊・変革しようとする野生的な行動者(椿繁など)」と、「その傍らで彼の行動を言葉として記録し、見届ける知識人(長江古義人など)」が互いの欠落を埋め合う、一体化した男二人の関係性のこと。多くの場合、過激に突き進んだ片割れが悲劇的な死を迎え、言葉を持つもう一方が生き残ってその記憶と責任(窮境)を背負い続けるという、大江文学を動かす核心的な駆動装置となっている。


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